闇に関する報告書
第二章 その男の名前 ①

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 今日の夜は忘れたくなるほど空虚な色だった。薄汚れた灯りのなか、星の輝きが掻き消え、何処ぞと知れないところへと葬られる。色彩という概念が失われるほど、悲哀に満ちた吐息が飛び交い、街全体が意思を失ってしまったかのような、皆がコンピューターのように自動的に活動しているだけなような、そんな空間へと変わっていった。  夜は寒さが増した。夕方が流れ星のように輝きが短く、あっという間に真っ暗だ。深淵の奥深くにある哲学的モノローグが夜空に投影され、街が一層混沌となっていた。  志貴は1人街の中を歩いている。周りが物凄いスピードで移り変わっていくように見えて、志貴ただ1人が取り残されているように見える。しかし、志貴にはいろんな思いや記憶で頭がいっぱいだった。  志貴は後悔していた。沙代のような普通の女の子を、裏の世界とも関わるかもしれない探偵業に引き入れたことを。最近は便利屋としての仕事ばかりだったので、気が抜けていた。でもいつかは、今日のような日が来るかもしれない。そんな予感がしていたはずなのに。  目を背けていたのかもしれない。今まで他人の優しさに甘え、辛い現実から逃げてきただけなのかもしれない。いろんな感情が入り乱れ、息苦しくなりながらも、沙代との思い出が蘇ってくる。  沙代が初めて事務所を訪れたのは、去年の4月。志貴が事務所を立ち上げてから、少し経ってからのことだった。事務員募集の貼り紙を見たという自分と同い年のこの女性に、最初は前向きになれなかった。元々事務には、こんな景気の悪いご時世にリストラされた男性を雇うつもりで、女性を雇うつもりはなかった。危険な依頼が来るかもしれない。その可能性を視野に入れていた志貴は、雇わないと伝えようとした。しかし沙代のどこか真剣な眼差しを感じ取ると、バイトとして雇うこととした。  沙代は器用なほうではない。依頼の電話があったことの伝え忘れ、お茶をこぼしそうになることがよくある。料理も志貴と比べると、あまり上手くない。どこか天然だ。でも沙代には自覚がない。  しかし、沙代は真面目だ。無遅刻無欠席を貫き、毎朝志貴よりも早く出勤してくる。書類の整理や事務所の掃除など、毎日絶え間なくやってくれている。それと依頼人との壁を沙代が取り払ってくれることがよくあり、そのこともあってか仕事が増えていった。そんな沙代に志貴は心を許した。バイトから正式に事務員として雇い、改めて事務所を補佐してくれる仲間ができた。  沙代は質素な女の子だ。今時の若い女性と違い髪を染めず、髪型もおかっぱに近いショートヘアーだ。そんな冴えない1人の女の子に、志貴は心惹かれた。この街で暮らす若い女は、みんな化粧を塗りたくっていてけばけばしい。こんな場所だからこそ、沙代のような存在が貴重だ。  沙代は母子家庭で育った。幼い頃父親を亡くし、母親から大切に育てられた。勉強も頑張り奨学金も得て、女子大に進学し卒業する。志貴は以前、沙代の母親と会ったことがある。正式に事務員として採用した時に挨拶したのだ。沙代と同じく質素で優しそうな女性であった。沙代の母親の話によると、沙代が会社に勤めていた頃、パワハラやセクハラに悩まされていたらしいとのこと。会社を辞めてすぐ、探偵事務所で働くと聞いて最初心配だったが、最近沙代との電話で何だか楽しそうな様子をしているのが伝わって、何だか安心したと言われた。沙代をよろしくお願いしますと言われ、志貴は笑顔になった。  あの頃のことから現在に至るまでいろいろ思い出すと、志貴は申し訳無さで心苦しかった。本当に申し訳ない。自分が不甲斐ない。心の中で自分に怒鳴りながら、ただ街を歩いて行く。 「必ず助けに来てね」  沙代の声が頭のなかでこだまする。沙代の言葉が一声一声、耳の奥深くに響いてくる。 「志貴君遅い!減点1」 「志貴君、寝癖立ってるよ。ハハハッ!」 「志貴君、バレンタインデーのお返しまだなの?」 「志貴君、待ってるから」 「志貴君、志貴君……」  志貴はショーウィンドウに映る、黒のコート姿の男が目に入る。しかし、それが沙代と一緒にいる場面へと変わる。眠そうだったり、恥ずかしそうだったり、怒ってたり、そして笑ってたり、いろんな沙代の表情が映っている光景を見て、志貴は思い出したかのようにこう思った。早く事務所に戻らなければ。くよくよしても何も始まらない。志貴は街を駆け抜け、事務所まで向かっていった。  事務所に着いたのは8時過ぎ。洒落っ気のない小さな事務所は、本当に人の気配がなかった。特別部屋を荒らされた形跡がなく、いつも通りのまま。沙代が居ないことを除けば。  沙代のいない空虚な室内を歩き回ると、法律関連の書物が置かれた本棚の上に、2人が写っている写真が目に入った。いつだっただろうか。記念に1枚写真を撮ったことを、志貴は今の今まですっかり忘れていた。この時、2人とも笑顔だった。笑顔に写っていた。  志貴は写真立てを手に取りながら、再び部屋を見渡す。書類を片付ける沙代。電話を取り、内容を志貴に伝える沙代。今日のようにクッキーを頬張りながら、志貴に愚痴をこぼす沙代。からかわれ怒る沙代。依頼を果たしたお礼にと、お菓子やお惣菜を貰い喜ぶ沙代。志貴をからかう沙代。笑顔になる沙代。志貴を見つめる沙代。沙代、沙代……いろんな沙代の映像が、この部屋全体を駆け巡っていた。  志貴は拳を握りしめた。ぐっと力を込めて。必ず助け出さなくては。でも、警察に駆け込んでは駄目だ。バレた時点で沙代は殺されてしまう。まずは女を探すしかない。あの愛玲とかいう中国娘を。  志貴は頭の中で、愛玲がどんな女だったか思い出そうとしていた。青のチャイナドレスを着た中国人女性。容姿端麗で今のところ謎の多き人物。なぜ奴らは彼女を探しているのか?その目的は?彼女は一体何者なのか?いろんな謎が志貴の脳内をランする。  取りあえず女を探し出さないことには、何も分からない。相手の目的はまずそのことだ。しかしあの様子だと、沙代を生きて返す保証はどこにもない。恐らく自分を含め、関係者全員を殺すつもりだろう。志貴は沙代をどこに監禁しているか、思考を巡らした。  この都市の検問はとても厳重だ。かぐやを出ていることは、まずないだろう。この街のどこかに絶対にいるはずだ。志貴は情報屋を使って、相手の潜伏先を探し出そうと考えた。マフィアの息がかかっていない、信用できる情報屋を使って。  しかし、志貴は情報屋との接点がほとんどなかった。自分が情報屋みたいなものだからだ。できるなら、自分が動くような真似はしたくない。相手方に気づかれないようにするには、自分と接点のなさそうな人物を使うのが一番だからだ。恐らく、あの中国マフィア共はこの街の連中じゃない。そう考えて、情報屋とのコンタクトの方法を探っていた。  考えれば考えるほど、汗が出てきて震えが止まらない。志貴は恐怖に震えていた。自分が死ぬことは構わない。しかし、沙代が死ぬことは、沙代が死ぬようになることは……最悪なシナリオが映像として頭の中に浮かび上がり、震えが更に酷くなる。  蛇口から水道水をコップに入れ飲み干す。花籠を出てから何も口にしていない。口に何か入れたところで、味覚も働かないだろう。志貴は飲み干すと、椅子に座って身体を休めた。  疲れが全く取れない。部屋の中の空間がグルグル捻じれ、めまいにも似た吐き気を伴わない奇妙な感覚を味わう。自分を責める声、嘲笑う声、断末魔など、いろんな叫び声が、ヘビーメタルのように、自身の仮想空間上のスクリーンで、アヴァンギャルドな映像と共に鳴り響く。志貴は目を開けているのだが、この映画はまだ終わりそうにない。やめてくれと寝言のように呟きながら、銀幕の向こう側を見続けてしまう。  しかしこの映画もぷつりと途切れてしまう。何やら階段を上がってくる足音が聞こえてくる。それも複数。志貴は立ち上がり、どんな構えにでもなれるよう対応できるように備える。  ドアが開くと如何にもヤクザ風の男たちが5人、ドサドサと中に入ってきた。鼻にピアスをしている者、片腕が義手の者、2mを超える大男まで、人相の悪い社会のゴミクズどもが、志貴の周りを囲んだ。 「一体何のようだ?」  志貴は機嫌が悪かった。いつもの綺麗な顔が羅刹な雰囲気へと変わり、相手を睨みつけた。 「あんたが諌山さんか?思ったより優男だな」  金髪に剃り込みを入れている鼻ピアスの男が志貴を見つめ、イヤらしいぐらいニヤッと笑う。外人独特の訛りのある日本語に、どこか中華的なものを感じ取る。 「今日、中国娘を探せとの依頼が来たはずだ」  志貴は黙った。相手の次の言葉を待ちながら、他の連中の動きに気をつける。 「俺たちも探してる。だが、あんたに探されるのは困るんだ。だから、ここで死んでくれ」  志貴はてっきり陳と同じ組織の手の者かと思った。しかし違うとなると、またややこしくなる。志貴はそう思いながら、男たちをぐるっと見る。  男たちは普通话で殺せと叫び、志貴に襲いかかる。  鼻ピアスの男が懐から短刀を取り出し、志貴目掛けて突き刺そうとする。しかし攻撃を両手で捌き、相手の手首を捻じりながら短刀をはたき落とす。そして右手の指で目を突いた。  鼻ピアスの男が叫び声を上げ、床に倒れる。志貴は直ぐ様右側にいる義手の男の後頭部を、後ろ回し蹴りで揺さぶった。続く左側にいる坊主頭の男が襲い掛かってきたので、横蹴りで後ろにいるもう1人もろとも突き飛ばした。男たちは書類のある本棚にぶつかり、一緒に崩れ落ち下敷きとなる。  しかし、もう1人残っていた。志貴は2mもあるスキンヘッドの男に右手首を掴まれ、腕をへし折られそうになる。しかし、大男が激痛で顔を歪ませる。志貴は合気道の技を使い、大男の右腕をどんどん追い詰める。相手が膝をつくのを確認すると、顔に蹴りをいれ相手を気絶させる。  これで片付いたとそう思っていたが、鼻ピアスの男が立ち上がり、懐からトカレフを取り出し、後ろから銃を向けた。 「随分腕が立つな。でも本物の銃を突きつけられたら、さすがにあんたでもかなわんだろ」  鼻ピアスの男は近づき、志貴の胸元に銃を突きつける。まるで勝ち誇ったかのように、下品極まりない笑みを浮かべていた。  しかし短刀をはたき落としたのと同様のテクニックで、志貴は瞬時に銃を奪い取った。トカレフを左手で持ち、相手に銃口を向ける。 「おまえ、こんなことをしていいと思ってるのか?俺を殺しても、すぐ追手が来るぞ。組織がその気になれば、あんたなんか……」  志貴は渾身の後ろ回し蹴りで気絶させた。部屋は本棚やならず者たちが倒れ、散らかっている。  志貴は崩れた男たちを見下ろしながら、別の場所に移動しようと考えていた。アパートに戻るのは避けるべきだ。恐らく知られている。それと期限までに、どうしても愛玲を見つけ出さなくてはならない。後沙代の監禁場所も。しかし、他の組織も愛玲を探している。さて、どうする?志貴はいろいろ考えながら、トカレフがちゃんと使えるか確認した。弾が装填されており、故障した箇所はどこにもなかった。コートの裏ポケットに仕舞い込むと、できるだけ足音を立てずにゆっくりドアを開け事務所を出た。    

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