闇に関する報告書
第二章 その男の名前 ②

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 街が一層混沌としていた。この時間帯の歓楽街は歩きタバコをする人が多く、煙で霧がかかったように先が見えにくい。今の志貴の心境とも重なり、より闇が深くなっていた。  ネオンが光り、煙草を蒸かした街娼たちが帰宅途中のサラリーマンに声をかける。日々の疲れや欲情を晴らしたいがためか、その内の何人かは両腕に女を取り、人込みの中へと消えていった。  志貴も声をかけられたが、振り向きもしない。その内の1人、ドライアーをかけ過ぎたようなパサパサな茶髪の革ジャンを着た女に、コートの袖を掴まれた。 「ちょっとちょっと、お兄さん!ウチと遊んでかない?」  志貴は振り返ると、中国マフィアと事務所でやり合った頃と同じ殺気立った表情を見せた。女は思わず手を離し、他の街娼たちの下へと戻って行った。  志貴は娼婦に掴まれ、機嫌が悪かった。焦りがどんどん増し、かなり冷え込んでいるのに、どうしてか汗が止まらない。凍えそうなほど、心は恐怖に打ちのめされそうなのに。  帰宅途中のサラリーマン同士が馬鹿笑いをしているのを見ると、無性に腹が立った。いや、それは言い訳だった。本当は自分に腹が立っているだけなのだ。志貴は両方の拳に力を込め、歯を食いしばった。しかし、志貴はふと何かを思い出した。トカレフ一丁ではこの先不安だ。志貴は人込みを掻き分け、徒歩で四番街近くまで向かった。  四番街近くに着いたのが9時近く。この辺りは傾斜のある高級住宅街で、志貴の自宅や事務所付近では決して見ることが出来ないほど、贅沢な外観の家々が並ぶ。アンティーク調から、古代中国王朝、メソポタミア調、近未来的な外装まで様々。お互いの個性が主張しあって、この一帯の外観に均一性がない。  贅沢にしては度が過ぎている。ここには食っていくのがやっとの貧しい人たちがたくさんいるのに。貴様らは!志貴は今までの感情が相まって、普段苛立ちもしないことに苛立った。しかし、今そんなことは関係ない。志貴は息をゆっくり吐き気持ちを落ち着けると、綺麗に整備された並木道の坂を登り、目的の建物へと目指す。  山の麓近くまで来ると、白銀の大きなドーム型の建物が目に入る。志貴は入口である黒の扉のそばまで来ると、ポケットから電子キーを取り出し中へと入る。  この建物の中は高級マンションになっていて、ここのオーナーが元依頼人だ。ここのオーナーは某大手企業の社長で、社内で不正取引が行われいる形跡があるので調べてくれとの依頼が来た。もちろん依頼は全うし、関係者である社員数人を不正取引が行われる直前に解雇した。警察に突き出さずスキャンダラスな内容を世間に口外しないことを条件に、このマンションの一室をタタで貸してもらうこととなった。このことは沙代も知らない。  志貴は最上階の一番奥の部屋を開けると、中へ入った。室内は生活感が全く無く、家具はクローゼットとデスクぐらいなものだ。白いカーテンの隙間から月光が入り込み、部屋全体が銀色に輝いている。光が射し込んだおかげで、デスクの上に置かれている資料が目に見える。今朝沙代と話した、他の書類や資料の隠し場所のうちの1つだ。報告書の作成もここで何度かやった。  志貴はクローゼットの引き出しを開け、シャツなどの衣類の下に隠しているサバイバルナイフ2本、オートマチックとリボルバー、後弾丸も取り出した。月明かりを見つめ、もうここには用がないといった様子で部屋を後にした。  志貴は高級住宅街を出た後、四番街へ向かった。四番街はオフィス、飲食店、風俗など、いろんな要素が混じりあった街だ。統一性が全く無い点といったら、高級住宅街と同じだ。個々の趣味に合わせた色が強く主張しあい、歪な風景となっていた。  高級レストランが並ぶシャンゼリゼのような通りに、東洋風な屋台がずらりと並んでいる。生の豚の首を飛ばすところなんかを間近で見ることができ、普通の街では決して有り得ない光景だ。まぁ煙草歩きをする人が少ないだけ、他の街よりかマシかもしれない。  この街へ来たのには理由があった。会ったことは一度もないが、この街に住むごく僅かな人しか知らない凄腕の情報屋がいるらしいとのことだ。志貴は以前チンピラに絡まれていたホームレスの老人を助けた時、お礼として情報屋の噂を教えてもらったことがある。人に道を尋ねるなどの足がつくリスクを避け、地道に目的地を探していった。  夜の10時過ぎ、四番街の外れにある寂れた共同住宅や飲食店が集まっている一帯を歩き回り、ようやく目的地の古い大きな洋館に辿り着く。名は月光。夜の華として相応しい娼館だ。  ドアを開け中に入ると狭い廊下が見えて、スラブ風のカーペットが敷かれていた。廊下の壁にはここの娼婦全員の自画像が掛けられている。油絵の具が重なり合い、まるで立体感のある彫刻のようだ。今他の男と寝ている者の絵は裏返しになっていて、そのことが分かるようになっている。  志貴の目の前には、黒髪を後ろに纏め上げたシニョンスタイルの青いドレスを着た美女が見えた。もちろん、この娼婦の自画像も掛けられている。美女は優しく微笑み、志貴にお辞儀をした。 「ようこそ、月光へ。お客様は初めてでいらっしゃいますか?お好きなを、廊下に掛けられている絵からお選びください」 「ここの女主人、弥生って人を呼んでくれないか?」 「かしこまりました」  青ドレスの女は廊下の奥の部屋へと行き、ドアをノックする。中に入ってから暫くすると、黒の毛皮のガウンを着た老女が現れた。髪型は青ドレスの女と同じで、身長は沙代より少し高いぐらい。昔はかなりの美人だっただろう。 「わたしに用ってのはあんたかい?」  志貴は目の前にいる老女をまじまじと見た。すべての髪が白い彼女を見ると、老いではなく妖美なものに思え、ここにいる娼婦の誰よりも美しい存在のように思える。 「あんたが弥生さんか?」 「そうだけど。」  この弥生という老女。根っからの姉御肌だ。志貴にもそのことが充分伝わり、この館の主だと一目で分かる。 「あんたが凄腕の情報屋だと聞いてここに来たんだが……」 「知らないね。どっからそんな噂を聞いてきたのか知らないけど、わたしはここの主。ここは娼館なんだ。女買わないんだったら、とっとと帰んな」 「待ってくれ!いきなりで本当に済まない。でも、俺には時間が……」 「うるさいね!あんまりしつこいようなら、もうこうするしかないね。おいっ、残ってる他の女どもをここに連れておいで」  白髪の御婦人は青いドレスの女にそう言うと、懐から銀色のアンティークな装飾を施した銃身の短い拳銃を取り出し、銃口をこちらに向けた。 「分かってると思うが、これも商売のためなんだ」  志貴は怖気づかず、真っ直ぐ相手の目を見る。 「良い度胸じゃないか」  弥生は引き金に力を入れる。他の女が4人が弥生の後ろからやってきて、志貴に銃口を向ける。 「これで5対1。さぁ、どうする?色男さん」  弥生は不敵な笑みを浮かべ、志貴に鋭い殺気を叩きつけた。志貴はこの状況をどう打開しようか考えていた。ここは退いて、他の情報屋を探すか?しかし、そんな時間は正直殆ど無い。さぁ、どうする?いろいろ考えているうちに、今にも女たちが銃弾をぶち込みそうな様子だった。  しかし娼婦の内の1人、白いドレスを着た黒のお姫カットの女が志貴の顔を見て思い出したかのように、弥生の耳元で何かを伝えた。弥生は志貴に視線を戻すと、ハスキーな声で質問した。 「あんたもしかして、五番街で便利屋稼業をやってる諌山さんかい?」 「そうだ」  弥生は志貴の目を見て、本当に何か困っているようだと察した。 「切羽詰まった事情があるみたいだね」  志貴は頷かず、真っ直ぐ弥生を見つめる。 「こっちに来な。話ぐらいは聞いてやる」  志貴は女たちに続き、狭い廊下を渡り奥の部屋へと入った。  中に入ると書斎になっていて、暖炉があり火がついている。弥生は帳簿らしいものが載ったデスクのそばにある、高級な木材でできた椅子に腰掛ける。 「ここはわたしの部屋だ。まぁ、そこに座りな」  志貴は弥生と向かい合う形で、黒の大きなソファに座った。他の女4人は、志貴と弥生との間の壁に掛けられている月光の油絵のそばに並んだ。  弥生は引き出しからジッポのライターと南陽という赤いラベルの中国製煙草を取り出し、一本吸い始める。 「ホント、不味い煙草だね」  弥生は煙を吐き、左肘を机に付けながら頬に手を添えた。まるで志貴を見定めるかといった表情だ。志貴は相手の態度がガラッと変わったことに、困惑した。 「何でかって顔だね」  弥生は微笑むと、灰皿に煙草を押し付けながら先を続けた。 「そこの白いドレスを着たがいるだろ。以前チンピラに絡まれていた時、あんたが助けてくれたことがあるそうなんだ。礼を言うよ」  白いドレスの女は頬を赤めながら、お辞儀をした。志貴は思い出そうと努力したが、どうしても思い出せなかった。志貴は弥生に視線を戻すと、弥生は再び煙草に火をつけ、ゆっくり煙を吐き出した。 「ここは娼館であると同時に、情報収集を生業とした場所でもあるんだよ。色欲に溺れた男たちから色仕掛けでいろいろ聞き出したり、街に潜伏させて探りを入れたり、女のほうが怪しまれないからね。ここにいるむすめ達は皆、人身売買で売り物にされてきたばかりでね。こうやってわたしが買い取って、男に抱かれる代わりに、高い給料と最低限人として生きていける権利を提供しているのさ。どうやって社会の裏側を生きていくのか、身の守り方など、いろいろ叩き込んでやってね」  弥生は一旦間を置いた。歳のせいで息が続かないのではなく、感傷に浸った一瞬だった。 「ここにいる者皆、家族同然なんだ。だからね、本当に感謝してる。」  弥生は再び微笑むと、白いドレスと青いドレスの女が志貴の両脇に座った。志貴の膝に手を置きながら、この上なく美しい表情で美女たちが笑みを浮かべていた。 「あんたよく見たら、なかなか良い顔してるじゃないか。どうだい?このたちの中から嫁にしたい者はいるかい?このたちもまんざらじゃないみたいだからさ」  志貴は立ち上がって、冗談を言ってる時間はないといった表情を見せた。弥生も冗談のつもりで言ったため、手振りで志貴をなだめる。 「分かってるさ。じゃあ、話を聞かせてもらおうか」  志貴は今現在に至る経緯について、全て話した。弥生は白いドーナツ型の煙を吐き出し、煙草を灰皿に押し付けてクシャクシャにする。そして、ヤサグレた声を出す。 「で、自分一人では女を助けられないってんで、ここに泣きついたわけかい?」  志貴はうなだれながら、膝においている拳に力を込める。胸が熱くなり、今にも燃え上がりそうだ。それを必死に抑えるためにも、再び拳に力を入れる。 「全く情けない話だね。こうなるかもしれないってことは、分かってたことだろ。こういう稼業は危険が付きものだ。それは沙代って言ったか、そのも充分分かってるさ。まぁとにかく、そののことは諦めな」  志貴は胸に冷たい刃が突き刺さった感覚がした。悲痛な表情を見せ、目が幾分大きくなり、そして冷たくなる。  弥生は大きく溜め息をついた。そして、どこか呆れた表情を見せた後、志貴に笑みを浮かべる。 「ホント、仕方ないね」  弥生は呟くと、再び大きく溜め息をついた。 「分かった。力を貸してやるよ」  志貴はその言葉を聞くと、悲壮な表情から暖かな救われた表情へと変わった。 「とは言っても、力になれるかは分からない。あんたんとこのが何処へ連れて行かれたのかは知らないけど。愛玲とかいったむすめになら、心当たりがある」  志貴はごくりとつばを飲み込み、弥生の次の言葉を待つ。 「確か2週間前だったか。この四番街に上海美人ってキャバレーがあるんだけど、そこに新しく入ったむすめが、あんたの言う愛玲って女と特徴が似ている。まぁ、確証はないんだけど」  志貴は立ち上がり頭を下げた。 「ありがとう。ありがとう……」  志貴は胸から込み上げてくる熱い感情を、ぐっと堪えた。 「裏の世界に関わってる者が、簡単に頭を下げるな。顔を上げな」  志貴は頭を上げ、まっすぐ弥生を見る。 「それで情報料はいくらだ?今そんなに持ち合わせがない。金はどういう方法で渡せばいい?」 「情報料ならいいさ。ウチのを助けてもらった恩もあるしな」  志貴は立ち上がり、急いで部屋を出ようとするが、弥生に止められる。 「もう、今日は遅い。一晩ここで泊まっていったらどうだい?約束の期限は3日後なんだろ?」 「ご厚意に甘えたいところだが、出来るだけ早く探し出したい。だから、もう行く」  志貴はドアノブを捻った。しかし、再び弥生に止められる。 「待ちな!このところ街の様子が何だかおかしんだ。裏の方が何だか騒がしくてね。中国本土でも何だか揉め事が起きてるらしい。マフィアの幹部、構成員が何人も死体で発見されている情報が、こっちにも届いてる。もしかしたら、愛玲とかいうむすめが関わってるかもしれない。それと大陸の方から1人、凄腕の殺し屋が来てるって情報もある。分かってると思うが、充分気をつけな」 「ありがとう、弥生さん」  志貴はドアノブを右手で掴み、ドアを開ける。弥生は独り言の調子で、言葉を吹かす。 「実はあんたに似た男を1人知っててね。その男は相手が誰だろうと、容赦しなかったさ。裏社会のボスから大物政治家まで、一度狙った獲物は確実に仕留める。それどころか、標的と関係のある全ての人間を血の海に変えてしまうほど、冷酷な男さ。この男の生涯は常に屍を足場にした、戦いそのものだろうね。でも、やっぱり似てないかな。あんたのようなアマちゃんが、そんなわけないか」  志貴は振り向かず、屈折した笑みを浮かべた。 「それは興味深い話だな。じゃあ、もう行く」 「また困ったら、ここに来な」  志貴は振り向かず右手を振ると部屋を出て、男たちの獣のような喘ぎ声が鳴り響く廊下を駆け抜け、月光を後にした。  街は時折サイレンが鳴り響いていた。もう0時近く、夜が一層深まり、街を歩く人の欲望がむき出しとなる。月光とは真逆の品のない女たちが、屋台のように通りに並び、男どもに声をかける。酔っ払いが道にゲロを吐き、散らばったゴミ屑と共に街の香りを濃くする。そんな香りのある深い霧の中、まだ20歳にも満たないチンピラたちがチームを作り、他のチームと睨み合っている。その様子をお巡りが、注意深く警戒する。そのお巡りの後ろ姿を狭い路地から見ている空き巣が、急いでその場を離れている。いろいろな人物の思惑が混じり合い、現代版ブリューゲルを作り上げていた。  志貴はそんな先の見えない街の中、1人で歩いている。息は白く、手は幾分悴んでいる。寒さのせいで呼吸が荒く、頬が赤くなっている。疲れが溜まっている。しかし、休んでいる暇がない。今風邪を引いていようと、身体を止めるわけにはいかないのだ。時は残酷なほど早い。今日沙代に言ったセリフが、こんなに早く自分に返ってくるとは思わなかった。志貴は自分のセリフに苛立ちながら、目的地を探す。  バーやラブホテルが並ぶ通りに出ると、ピンクのネオンが一層濃くなった。通りを挟んだ向かいはオフィス街となっていて、まったく対照的な空間の間をゆっくり歩いている。中華系の店舗が並ぶエリアに近づくと、目的の店が目に入る。  白に青の文字でライトアップされた上海美人。目的の店で間違いないと確信すると、電池の切れ掛かったスマホで現在の時間を確認する。もう数秒足らずで日付が変わる、このことを確認すると後ろを向き、高層ビルの窓ガラスを全て使った大画面のニュース映像を見る。しかし、大画面には身の凍るような内容のニュースが流れていた。  今日の午後6時、五番街の花籠で店の店長が、そしてそのすぐ近くの路地裏で陳と名乗る男と特徴のよく似た男の死体が発見されたとのことだった。  志貴は過呼吸になり、バタンと通行人の身体に倒れ掛かる。通行人は白の毛皮のコートを来た女性だった。コートの隙間から、チャイナドレスを着ていることが確認できる。志貴は相手の顔をよく見た。それは愛玲にとても良く似た女性だった。志貴は女の腕をつかむが、意識を失い地面に顔をつけた。

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