菰野の前に立つ体格の良い男は「歯を食いしばれ」と言った。 その右手には、怒気をはらんだ拳が強く握られている。 「ちょっと、お父さん!?」 止めようとしたフリーさんは、その母親に肩を押さえられ、止められている。 視線を久居に送ると、久居は申し訳なさそうな顔で一つ頷いた。 どうやら、彼の指示に従えと言う事らしい。 久居が納得しているのなら、この拳は間違いなく自分が受けねばならない物なのだろう。 血を失っていた体は何だか軽く、どこか心許ない気はしたが、それでも今自分の体に痛みは無かった。 それが目の前に立つこの男のおかげだという事は、菰野も既に理解している。 菰野は覚悟を決めると、歯を食いしばり、顎と片足を引き、重心を落とし丹田に力を込めた。 打たれる事には慣れていた。 剣の師匠は厳しかったし、義兄との稽古では、義兄に打たれるのが自分の役目だった。 しかし、次の瞬間。衝撃に耐えるつもりだった菰野は、敢えなく吹き飛んだ。 「菰野!!」 「菰野様っ!!」 フリーと久居の悲鳴が重なる。 久居はすぐさま駆け寄ると治癒を始め、叫んだ。 「クザン様! 骨折三本、うち一本は粉々です!!」 久居にギッと睨まれて、クザンが慌てて治癒に参加する。 「悪りぃ悪りぃ、なんか意外とちゃんと構えっから、ちょい力入れてもいいかなぁと……」 「よくありません!!」 「お前なら、こんくらい飛ばなかったろ?」 「私と比較しないでください!」 「他に人間なんか殴った事ねぇしなぁ……」 「それならそうと仰ってくだされば、私が説明いたします!」 「軽く殴る分には壊れねぇかなぁーと……」 「軽くなかったですよね?」 「や、だから悪かったって、俺もちゃんと治してんだろ?」 「治せば良いという問題ではありませんっ」 菰野は頭を振ってしまったのか、酷い目眩を感じていた。 フリーが繰り返し自分の名を呼んでいる。 けれど、それに応える事はできなかった。 手足も、口すらも、感覚が無く、今は動かせそうにない。 耳鳴りがして、会話が、とても遠い。 (なんか……仲良さそうだな……) 菰野は、久居がフリーの父親と言い合う様に驚きを感じたが、同時に嬉しかった。 俺の居ない間……三年もの間、お前を一人きりにさせてしまったのかと思ったが……。 お前が一人じゃなかったなら、本当に……。 ……本当に、よかった――。 菰野は安堵と共に意識を手放した。 「菰野様!?」 「げっ、頭揺らしてたか!?」 気を失った菰野に気付いた久居とクザンが焦りの言葉を口にする。 「菰野っ!? お母さんっ離して!!」 異変を感じたフリーが、ついにリリーの静止を振り切って駆け寄る。 「菰野! 死なないで!!」 涙を滲ませて訴える娘に、クザンがちょっぴり引き攣った苦笑いを浮かべつつ応える。 「や、死ぬほどのこたねーって」 娘を安心させようとした父の言葉に、娘は思い切り噛みついた。 「何言ってんの!? お父さんが殴ったんでしょ!? 菰野が死んだらお父さんとはもう一生口きかないから!!」 「んなっ………………」 娘に正面から叩きつけられた絶交宣言に、クザンの手元で淡い光が霧散する。 「クザン様! 集中してください!」 久居が、焦りを隠さぬままに声を上げた。 そんな四人を、少し離れたところから眺めるリルがポツリと呟く。 「……変態さん、いなくてよかったね」 その声に、レイとカロッサが同意した。 「そうだな……」 「ほんとにね……」 変態は、血液をがっつり搾り取られた後「お前がいるとややこしくなるからもう帰れ」とクザンに無理矢理地中へ埋め戻されていた。 リルは、フリーが凍結から戻ったら、自分のようにヒバナに触られまくるのではと心配していた。 けれど、妖精の姿をしたフリーに、ヒバナはまったく興味を示さなかった。 一度も目を合わすことなく、一度も声をかけることなく。 まるでフリーがそこにいないかのようなヒバナの態度に、リルは自分への対応との激しい差を感じて、胸の奥がざわついた。 (ボクみたいにされるのも嫌だけど……。ああいうのも、なんだかちょっと…………嫌だな……) リルは、まだ自分が何を嫌だと思ったのかまでは把握できなかったが、ヒバナの態度にじわりとした嫌悪感を感じた事だけは、理解した。
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