それから六時間ほど経っただろうか。 まだ真っ暗な中、久居は二人を起こさぬように、そっと小屋を出た。 空には美しい月がまだ姿を見せている。 久居は、腰に下げていた刀を静かに抜くと、正眼に構えた。 しばらくそのまま目を閉じて、精神を研ぎ澄ます。 風のないこんな夜には、生き物の気配がないこの森は、あまりに静か過ぎて耳が痛くなるほどだった。 小屋から人が出てくる気配に、久居はそっと目を開く。 「眠れないのか?」 クザンの声に、久居は刀を鞘へと収めた。 「いえ……少し早く目が覚めてしまって……」 「どこが少しだ。移動は体力勝負だから、しっかり休んでおいた方がいいぞ? まだ三時間は寝られるだろ」 言ったクザンが、久居のすっかり身支度が整った様子に「ってもう服着てるしな」と突っ込む。 「三時間……一刻半と言う事ですね」 久居が、覚えたての十二時制を十二時辰に置き換えて感覚として理解する。 「明日は向こうに着くまで十四時間は空の上だからな」 「二千三百里の距離を十四時間で移動ということは、半刻で百六十四里……。私達の百六十四倍の速度で移動できるのですね……」 手で口元を隠して、ぶつぶつと口内で呟く久居を、クザンがじっと眺める。 久居は今までずっと十二時辰で時刻を数えていたが、クザンに十二時制と二十四時制を教えられたばかりだった。 これから久居とリルは、国境を越え、単位だけでなく文化も全く違う場所へと向かう。 そんな久居に、クザンは知る限りの知識を詰め込んだ。 本当は、リルにも覚えてほしかったのだが、何度教えても、リルは頭の上に『?』を浮かべていた。 「久居」 「はい」 クザンの言葉に久居は顔を上げる。 「お前にこれやるわ」 クザンはぐいと久居の右手を取ると、手の平大の何かを握らせた。 「……これは」 「懐中時計ってやつだ」 大きさの割にずっしりと重みのあるそれを、久居は見た。 金属でできたその蓋に刻まれているのは何の紋なのだろうか。 対称的でないその模様には、確かに意味があるように思えた。 「リルに持たせてもなぁ。役に立たねぇ気がすんだよな……」 クザンが頭を掻きながら困った顔で言う。 「けど、お前なら大丈夫だろ」 久居はその蓋をそっと開けてみる。 文字盤に刻まれた文字は精巧で、裏面まで及ぶ細かな装飾からも、この品がとても貴重な物であると思われた。 久居が時計に見惚れていると、クザンが久居の腰に下がった刀に目を留める。 「なあ、やっぱ刀を置いて行くのは不安か? 布でも巻いて持って行くか?」 「いいえ、揉め事の原因になる可能性が高い以上、置いて行きます」 久居は、クザンの気遣いに笑みを返す。 「先のは、ただリルさんを起こさないで出来る修練をと思ったまでで……」 その言葉に、クザンは両手を腰に当てて、ふん。と鼻息をふいた。 「リルは、ちょっと術を使ったくらいじゃ起きてこねぇと思うぞ。むしろ、起きてきたら褒めたいくらいだ」 クザンが「あれは耳に頼りすぎる」とリルへの文句を言いながら、久居に向き直る。 「もう寝る気もないみたいだし、付き合ってやるよ。最後におさらいな」 「そんな、クザン様はどうぞお休みに……」 両手を振って、とんでもないとばかりに遠慮する久居の肩へ、クザンは気安く腕を回す。 「まーまー、遠慮すんなって」 がっしりした腕と胸板に挟まれて、久居は仕方なく抵抗を諦める。 「いいか? 久居」 クザンの、いつもよりほんの少し真剣な声に、久居はその鬼を見上げた。 「俺はお前の事結構好きだからな。絶対、生きて帰って来いよ」 頭上から、静かに、しかしはっきりと伝えられ、久居は、クザンがこれを伝えるために自分を捕まえたのだと知る。 「……はい」 久居は、クザンから賜った懐中時計を両手で胸元に握り締め、心を込めて答えた。 この鬼は、三年もの間、何もかもを失った久居に、居場所とすべき事を与え、様々な技を教えてくれた。 久居にとっては、リルの父であると同時に、自身の恩師のような存在となっていた。 「リルを頼むな」 「はい」 クザンが久居を解放する。 にっと人懐こい笑顔を浮かべるその顔には、少しの照れもない。 クザンはとにかく人との距離が近い。接触が多いと言ってもいい。 久居はいつもその距離に戸惑うのだが、リリーやリルは気にしていないようだったので、久居もそれに倣う他なかった。 「あ、あの、時計をありがとうございます。大切にします」 「おお、そうしてくれ」 クザンは満足げに答えると、両手を広げて胸を張り、首をゴキゴキと鳴らす。 体をほぐしながら、彼は告げた。 「じゃあまずは……」 そうして、二人は朝日が昇るまで、一通り術のおさらいをしていた。
コメントはまだありません