一方、城の中庭では、リルの炎を纏った久居が刀を正眼に構えていた。 それに対峙しているのは、両手に大きく反った刃を握る長身の鬼だ。 久居の後ろにはリルが、長身の男のずっと後ろには、蘇芳色の髪をした男が立っている。 おそらくあれがカエンだろう。と久居は思う。 蘇芳色の髪に、頭のてっぺんより少し後ろ側から真っ直ぐ伸びる1本の角。その角はクザンによく似た形をしていた。 おそらく、今は小さなリルの角も、いずれあのように伸びるのだろう。 カエンらしき男は、大分離れたところで柱に背を預け、腕組みをしている。 中庭は、久居と長身の橙髪の鬼が何度かぶつかり合ったせいで、あちこちが焦げたり砕けたりしていた。 不意に、カロッサの囚われていた部屋の方向から、ガシャンとガラスが吹き飛ぶ派手な音がする。 チラリとそちらへ視線を投げた久居が、空高くへ空竜が舞い上がるのを確認する。 その視線から、長身の鬼が脱出する空竜に気付いた。 「あっ、逃げやがったな!」 言うと同時に橙の鬼が空竜目掛けて針を投げようとする。が、それを許す久居ではない。 一瞬で間合いを詰めると、右から左へと炎を纏う刀で男をなぎ払う。 男は左側から来た刀を受ける。 久居の思った通り、左肩にまだ力が入らないらしい男が、耐え切れずに吹き飛んだ。 何度か地面で跳ね返りながら、橙髪の鬼はカエンの足元まで転がる。 そんな部下を見下して、カエンが酷く冷たく言った。 「……お前が任せてくれと言うから、見ていてやったんだけどね?」 ぞくり。と背筋を震わせて、跳ね起きた長身の鬼が、カエンに平伏する。 「申し訳ありません!!」 男の左腕は、明後日の方向を向いている。 しばらくは元に戻らないだろう。 「もう十分だろうね?」 長身の鬼は、額を地に擦り付けたまま小さく震えている。 顔を上げる気配の無いそれを、カエンが無造作に中庭の端へ蹴り飛ばした。 「……ひどい……」 リルがポツリとこぼした言葉を、久居は背で聞く。 カエンは、改めて久居とリルを見た。 どうやら小鬼の方はあの二人の言う通り、炎を出せる『だけ』のようだ。 カエンにとって興味があったのは、水色の炎を出せると言う小鬼の正体と、四環を取り戻す事の二点のみ。 ゆったりと、身構える風もなく、カエンが久居へと歩き出す。 「つまるところ、こいつを押さえれば良いわけだね?」 カエンの周囲に大量の炎がゴウッと溢れ出し、渦を巻く。 カエンを包み込むようなそれは、オレンジなどではなく、ハッキリとした黄色だった。 久居の肌が、ざわりと粟立つ。 本能が、目の前にいるのは本物の化け物だと告げている。 あれだけ近くでクザンの炎を見ていても、頭では分かっていても、いざそれを自分に差し向けられて、久居の体に余計な力が入る。 その筋張をなんとか少しずつ弛めながら、久居はじりじりと後退った。 炎対決になってしまえば、久居にできることなど限られている。 今はとにかく、リルとの物理的な距離を縮めておくべきだ。 「リル、命を預けます」 掠れた声で、静かに告げられた言葉に、久居を包んでいたリルの炎が一層力強く輝く。 久居は、まだなんの予備動作も見せないカエンから、一瞬たりとも視線を外す事はできなかった。 だが、後ろを振り返らずとも、リルの気持ちは久居に伝わってくる。 久居が、正眼に構えた刀を強く握り込むと、刀を包む炎が白色に輝き厚みを増した。 「白炎か、美しい……。素手では難しいだろうね」 ゆるやかに、変わらぬ歩幅で歩いてくるカエンが、真っ白に輝く炎にうっとりと目を細める。 歩を緩めぬまま、カエンは懐から鉄扇のような物を取り出した。 繊細な透かし細工の施されたそれを、片手にトントンと乗せていた彼が、足を止めたのは、久居の間合いに入るか入らないかの瀬戸際だった。 ヒュッと風を切る音と、ゴウッと火柱が上がる音が重なる。 お互いの炎が弾け合うバチバチというけたたましい音。今までの、片方が溶けていく嫌な音とは違う。 炎の温度が拮抗しているとこうなるのか、と久居は気付く。 カエンの炎は、既にリルと同じ白炎となっていた。 二撃、白炎を纏う鉄扇の攻撃を久居が刀で払う。 三撃目でカエンは鉄扇を広げた。 鉄扇から炎が扇状に広がり、久居は後ろへ跳び避ける。 もうリルまで距離はない。 一帯を包むかのように広がった炎は、五匹の大蛇のような姿に収束し、それぞれがまるで意思を持っているかのように久居目掛けて襲い来る。 一匹、二匹、三匹と、その首を、額を斬り伏せる。 が、四匹目は久居ではなく、その直ぐ後ろのリルを狙っていた。 前三匹の攻撃の隙に横から回り込んでいたのか、久居がそれに気付き、リルの目の前で四匹目を斬り落としたのと、五匹目が久居の空いた脇腹に食い込んだのは、ほぼ同時だった。 「……っ!!」 返す刀で脇腹の蛇を落とそうとした久居の腕を、蛇が下からすくい上げるように咥え込む。 蛇達は攻撃の勢いを殺す事なく、そのまま久居を壁に叩きつける。 「ぐぁっ!!」 強かに打ち付けられた衝撃で、古い石壁から、バラバラと石片が舞う。 両腕と腹を大蛇に喰われた形のまま、久居は壁に縫い止められた。 「久居!」 背後の壁を振り返ったリルに、ふっとカエンの影がかかる。 リルが慌てて振り返った時には、カエンはもうそこにいた。 「よそ見をしている場合では、ないと思うのだがね?」 逃げ出そうとするリルの首根っこを、一匹の蛇が咥えて持ち上げる。 「わっ! あ、わあああっ!」 宙にぶら下げられて、リルが精一杯じたばたと足掻く。 それは完全に無駄な抵抗だった。 「さて、まずは君のことを教えてもらおうか、小鬼君?」 カエンが優雅に微笑む。その手元の扇からはまだ二匹の蛇が手持ち無沙汰に揺らめいている。 炎の蛇は、斬られても新たに生えてきたのだ。 「あ……あ……」 リルが底知れない恐怖を感じる。 じわりと涙が滲み、身体が勝手に震えるのを止められない。 「ふふ、そんなに怯えていると、あちらが死んでしまうよ?」 カエンが楽しそうに告げる。 「ぐっ! うぁっ……」 久居の声に、リルが首だけで振り返ると、炎が弱まった分、蛇の牙が久居に深く深く食い込んでゆくところだった。 「久居!!」 悲痛な叫びと共に、チラチラと消えかかった炎がなんとか輝きを取り戻す。 キッとカエンへ向き直る涙目のリル。まだまだ恐怖の色が濃いその顔を見て、カエンが満足そうに微笑んだ。 「ふふふ、そうこなくては、ね?」 カエンの声に応えるように、残る二匹の蛇がゆるりと動き出す。 「わぁ、ぁぁ……」 一匹はリルの足先から、もう一匹は腕から、パチパチと火花を上げながら絡みついて、それぞれが下腹部と胸部の辺りで大きく口を開いた。 「さあ、どこから噛み付いてみようか?」 「っ熱っ……」 リルが恐怖からまた炎を弱めたのか、その分内側に侵食したカエンの炎が二人の肌を焦がす。 壁際で微かに聞こえる久居の呻き。あちらは既に牙が内臓まで喰い込んでいたので、内側を更に焼かれたようだ。 耳に届く久居の荒い息に、リルは必死で心を落ち着かせる。 (しっかりしなきゃ……。ボクがしっかりしていれば、久居が炎に焼かれる事はないんだから……) 蛇達とカエンを視界に入れたままでは恐怖に勝てそうにない。とにかく、今は炎を綺麗に出すことだけに集中するべく、リルは目を閉じた。 「まだまだ未熟な小鬼だね、目を閉じなければ自分の炎も保てないのかい? ふふっ、君の父親は、クザンだろう?」 敵の口から、さらりと父の名前が出て、リルは思わず目を見開いた。 「なんで……!?」 「そんなに驚くほどのことではないよ? 水色の炎など、直系でなければ出せるものでは無い」 カエンの表情が、暗く歪む。 「しかし、下劣な妖精から生まれたくせに、よくその色が出せたものだ。ふふ、可哀想に、君の母親は焼き殺されたんだろう? あの、哀れなクザンの母……おばあさまのように……」 可哀想だと言うカエンが、実に楽しそうに、口元を吊り上げる。 その言葉にあからさまな侮辱を感じて、チリっと、リルの心が焦げ付いた。 (……詳しいことはよくわからない。けど、この男は、ボクの大切な両親を馬鹿にしてる……!!) それだけを理解すると、リルの薄茶色の瞳が鋭く輝き、火が点くように揺れた。 リルの炎の輝きが増し、白色が透明度を上げてゆく。 バチッバチチッッ!! 蛇との間で火花が大きく散って、煙が上がる。 「美しい炎だが……ただ出すだけでは能がないよ?」 リルの白炎が色を変え始めても、カエンは余裕の表情を崩さない。 リルの体からするりと離れた二匹の蛇がくるくると捻り合って、錐のように尖った。 久居は、リルの炎に押し返しされた蛇の拘束力が弱まった隙に、手首を捻って指先を服の下の環に沿わせていたが、まだ迷っていた。 リルの命を断つつもりなら、容赦する気は無かったが、彼からは殺意が感じられない。 自分を拘束している蛇も、その気なら胴も両腕も噛みちぎれるのだろう。 鬼の中でのカエンの立ち位置が分からない以上、立場のある者に手を出して、無駄に敵を増やすのは得策では無かった。 パッと前触れなくリルが空を仰ぐ。 つられて見上げた青空には、真っ白な翼を垂直に立て、まるで光そのもののように急降下してくるレイが居た。
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