夕方とはいえ、外にはまだ暑さが残る中、ひんやりと冷たい空気が漂う手入れの行き届いた石造りの屋敷。 小さな城と言っても良いような広さがある建物の、奥まった一室。 そこへ呼び出された三十歳ほどの痩せた男は、困惑の表情を浮かべていた。 男が目の前に差し出されたのは、金色をした二つの腕輪だった。 表面の彫刻以外は同じ材質、サイズに見える。 それは、サラが手に入れ、ラスが奪われた、陽と雪だった。 「カエン様……。これを、私はどうしたら……」 奥のソファには、蘇芳色の髪をした二十歳過ぎの男がゆったりと腰掛けていた。 今は、目立つ一本角も、尖った耳も隠しているようだ。 痩せた男の質問に、カエン様と呼ばれた男が簡潔に答える。 「つけてみなさい」 言われ、痩せた男が、ずっしりと重みのあるそれを、恐る恐る手に取る。 ひやりと冷たいそれに、ぞくりと背筋を冷たい汗がつたう。 つけるよう言われたものの、これは、誰でもが手にとって良いようなものではないのではないか? と痩せた男は本能的に悟る。 金属製であることは分かったが、それは今までに知るどの金属とも違う気がした。 躊躇う痩せた男に、蘇芳色の髪の男……カエンがもう一度声をかける。 「聞こえなかったかな? 両腕に一つずつはめてごらん」 優しげな言葉に、蔑みの色が混じっている。 すぐに指示に従わなくては、何をされるか分かったものではない。と、痩せた男の脳裏に妻や娘の顔が過ぎる。 恐怖に突き動かされるようにして、痩せた男がそれを両腕につけると、腕から全身に鳥肌が立った。 「よし、それでは、右腕の環からいこうか」 カエンは、何やら楽しげに、ソファに浅く腰掛け直した。 どうやら、男がこれからさせられる事は、彼の興味を惹くことのようだ。 それが男にとって良い事でないだろう予想はできていたが、かといって断る事は、男にはできなかった。 「その環に触れて、そうそう、そんな風に」 カエンの説明に合わせて、従者の二人が男の目の前、腕輪が乗せられていたテーブルに、なみなみと水の入った大きな陶器の器を置いた。 「その水を、温めようと念じてごらん」 カエンに言われるままに、男は左手で右腕の腕輪に触れたまま、そう念じてみる。 次の瞬間、体から腕輪の方へ、ザザッと血が流れて吸い込まれていくような感覚。同時に、目の前の器がゴトゴトと小さく揺れる。 中の水は一瞬で煮えたぎり、ふつふつと泡立ち、大量の湯気を立ち上らせていた。 (すごい……) そう思った途端、男は全身を襲った疲労感に、その場に片膝を付いた。 「ふむ。何の訓練も無しに、この威力は悪くないが、これだけでそのザマでは困るね」 「……も、申し訳ありませんっ」 男は必死で立ち上がる。 疲労感こそ酷いが、男の体に不自由なところはなく、気力を振り絞れば何とか立ち上がる事はできた。 「次は左の腕輪を試してみよう」 言われて、男は右手を左腕の環に乗せる。 今度は、無様なところを見せぬよう、男はくまなく全身に力を込める。 「このお湯を、冷やそうとしてごらん」 カエンに言われるまま男が念じると、また身体中の力を吸い取られるような感覚の後、たまらない脱力感。 しかし、今度は分かっていたのでグッと堪える。 腕も足も震えてしまったが、男は何とか立っていられた。 男が内心ホッとした途端、お湯の入っていた器が割れ、飛散した。 飛び散るカケラのいくつかが、男へ向かう。 それに男も気付いたが、男の疲れ切った体はピクリとも動かなかった。 来たる痛みに身をすくめる男の横から、スッと手が伸びて、一度の動作で三つ程のカケラを受け止める。 いつの間にか、部屋に二人居たカエンの従者がそれぞれ、主人と男の前にいた。 安堵と同時に尻もちをついた男を、カエンは面白くもなさそうに一瞥してから、割れた器のあったところに残された、顔ほどもある氷の塊を拾い上げた。 「ふーん……」 カエンは、氷の塊をランプの光にかざして眺める。 「熱湯から一瞬で氷になるなんて、噂は大袈裟でも無かったようだね。ただ、もう少し加減できるようになってもらう必要はあるかな」 その言葉に、背の高い従者が雑に男の腕を引き、立ち上がらせる。 「君にはしばらく、この屋敷に通ってもらうよ。なんなら、離れを使ってもらっても構わない。家族でも使用人でも好きなだけ連れてきなさい」 カエンが、男を見て薄く微笑む。 痩せた男は、背筋に冷たいものを感じながらも、首の皮が繋がっている事に誰にともなく感謝をしながら「はい」と答えた。 ---------- 一方、リルと久居は空竜を森の中に隠して、カロッサの指定した村へと続く道を歩いていた。 「もうこれで何日だっけ?」 隣を歩くリルに聞かれて、久居がいつもと変わらぬ様子で答える。 「七日目ですね」 「今日も何もなかったら、カロッサのとこに一回帰る?」 「……」 すぐに答えない久居に、勝手に帰るのもダメなのかな? という顔でリルは小さく首を傾げる。 クリスに会ったときは、カロッサのところから発ってすぐだったのに対して、今回は、目的の相手に会えないまま一週間が過ぎようとしていた。 「戻るのは、その旨指示をいただいてからにしましょう」 そう言って「待つのも仕事のうちですよ」とリルを励ます久居だったが、探すべき相手の顔も名前も日時も分からないまま、場所のみの指定でこの辺りをうろつくこと七日目。内心焦りはあった。 (菰野様……) この三年の間、久居の眼裏にはいつだって血溜まりに横たわる主人の姿がある。 一日も、一刻も早くその怪我を治療出来るよう、治癒術の特訓に久居はそれこそ全身全霊で取り組んだ。 甲斐あって、治癒の技術は身に付いたものの、肝心の凍結解除は自分の力だけではどうにもならない。 リルに気取られないよう、心の中で静かにため息をついて、久居が顔を上げた時、異変に気付いた。 リルの隣を歩いていた久居は、不意にリルの前に出て立ち止まる。 リルは、久居の背にぶつかり軽く跳ね返った。 「どうし……」 リルが聞き返すより早く、村の方向から来た熱風がブワッと勢いよく辺りを包んだ。 「うええ……あっつぃ……」 情けない声を出したリルが、人気がないのを良い事に、帽子を脱いでパタパタと扇ぎ出す。 だが、熱い空気が動いても暑さが増すだけらしく、諦めてかぶり直していた。 「これは、不自然です。リルは空竜のところに戻っていてください」 慎重に気配を探っていた久居が、それだけ告げると、足早に村へ向かおうとする。 「あっ、待っ……」 思わず上げた声に、久居がくるりと振り返り優しく告げる。 「相手は人かどうかも分かりませんから、安全なところにいてもらえますか?」 あまりに優しげなその表情に、リルは息を呑んだ。 (人かどうかもわからないんじゃ、久居だって危ないかも知れないのに……) それなのに、彼がいつも一人で行こうとするのは、自分が頼りない……ううん。足手まといでしかないからだ。 その事実に、リルは胸が苦しくなる。 あの時……。クリスと久居を待っていたあの時。 リルの耳には、手の届かない場所で、久居が一人やられる音が届いていた。 リルはどうすることもできず、その心音が止まないことだけを、ただ祈っていた。 もう、あんな思いは……一人で何も出来ずに待つのは嫌だ。 役に立てるかはわからない。 それでも、一緒に行きたい。 我儘かも知れないけど。 久居を困らせるだけかも、知れないけど……。 「ーーっボクも行くよ!」 叫ぶようなリルの言葉に、久居がほんの一瞬驚いた顔をして、それから困ったような、辛そうな顔になった。 「だって……こないだの、鬼と戦った時、久居いっぱい怪我してた……」 「……」 久居は黙ってリルの言葉を受け止めている。 「もしかしたら、あの時久居は死んじゃってたかも知れないって、ボク、後から気付いたら、怖くなっ……て……」 ほろり。と大きな薄茶色の瞳から溢れたのは、涙だった。 「リル……」 リルの前まで戻ってきた久居が、リルの頭を抱き寄せる。 「ボク、役に立たないかも知れないけど、お荷物に……なっちゃうかもだけど、一緒に行きたい……」 「怖い思いを、させてしまうかも知れませんよ」 顔は見えなかったけれど、久居が本当に、心から自分を心配してくれているのがリルには分かった。 いや、ずっと前から、分かっていた。 「きっと、一緒に行くより、待ってる方が、ずっとずっと…………。ずっと、怖いよ」 リルは、あの時の恐怖を胸に、小さく震える声で伝える。 久居は腕の中の少年の顔をじっと見て、それから言った。 「分かりました。一緒に行きましょう」 尋常じゃない熱気の中で、汗を滲ませた久居がふわりと笑う。 その笑顔に、リルもつられて笑った。 細めた薄茶色の瞳から、溜まっていた涙が雫となって、ポロリと零れる。 久居は、首巻きの端でリルの顔を拭うと「急ぎますよ」と短く告げて駆け出す。 「うん!」 そのすぐ後ろを、今度はリルも走った。
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