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ビシッと小さな音がして、クザンが手元のカップに視線を落とすと、木で作られたそれに、亀裂が入っていた。 「げっ」 「あー、ちょっと、クザン壊さないでよ」 カロッサに横から言われて、クザンが「やっちまった……」と凹んでいる。 クザンは実に丸くなったなと、カロッサは思う。昔のクザンなら、今のタイミングで絶対逆ギレしてた。うん、間違いない。 「おかわりはいかがですか?」 その声に二人が顔を上げると、久居がボトルやカップを乗せた盆を手に微笑んでいる。 「おう、頼む。これ割っちまった、悪いな」 「私ももう一杯だけ、もらっちゃおっと」 カロッサがウキウキ答える間に、久居は「構いません、お気になさらず」とクザンのカップを取り替え注ぐ。 カロッサはぼんやりと、我が家にもこんな執事がいたらいいのに、と思った。 「リルは寝たのか?」 「はい」 「あいつはほんとに良く寝るなぁ……」 「育ち盛りですから」 リルの寝顔に優しい目をする久居の横顔が、まるで母親のそれだとカロッサは思う。 (違ったわ。久居君は執事じゃなくて、あれね。皆のお母さんね。毎日皆にご飯食べさせて、夜はレイ君もリル君も寝かし付けてるものね) カロッサ自身もしっかり久居の世話になっていたが、そこには触れない。あえて。 うんうんと深く頷きながら、久居を眺めるカロッサの視線に、久居は何かよからぬ気配を感じつつも、彼女は酔うと大抵こんな感じなので、ひとまず気付かなかったフリをする。 かわりに、久居はクザンへ気になっていた事を尋ねた。 「クザン様は、カエンという鬼をご存知ですか?」 「……まあ、知らん事はないな」 クザンがなんとも言えない反応をする。 カエンがクザンを恨む理由や、あの大量虐殺の理由を明確にしておけば、今後有利になることもあるかと思ったのだが、触れない方が良かっただろうか。と久居が内心躊躇う。 「そうですか……」 「なんだ? あいつとなんかあったのか?」 「いえ、クザン様に拘りがあったようでしたので。もしよろしければ、ご関係をお伺いできれば有難いです……」 申し訳なさそうな久居に、クザンが少し眉をしかめて、苦々しく答える。 「火焔(カエン)は、一番上の姉の子で、……俺より十歳年上の、甥だ」 クザンは、ほんの少しだけバツの悪そうな顔で一言足した。 「そんでまあ……、俺以外、兄弟に男はいない」 それはつまり、クザンが生まれるまでの十年の間、カエンはクザンの父にとって家督を継ぐはずの立場だった。と言うことだろうか。 それが、後から生まれたクザンに、その立場を取られた形になったのだろう。 当然逆恨みではあったが、動機は久居にも納得できた。 「……ご教授、感謝致します」 久居が、既に十分理解したという様子で頭を下げ 「もうひとつよろしいですか?」と尋ねる。 「例えば、それが人為的であっても、気温の変化による死亡は自然死に含まれますか?」 クザンが、さらに渋い顔になる。 「なんだあいつ……まだそんなことやってんのか」 その口ぶりからするに、カエンは今までにもこんなことを企てる事があったようだ。 「どのくらい死んだ?」 クザンの低く静かな声に、久居も静かに答える。 「六百は、下らないかと思われます」 「六百!? 死に過ぎだろ。これは親父も気付くだろうな……」 暗い目をして、ぐいっと残りのお茶を飲んだクザンが、向こうですやすや眠るリルに視線を移す。 「リルも見たか、死体を」 「……申し訳ありません」 久居が深く頭をさげる。 難しい顔をしていたクザンが、人懐こい笑顔に少しだけ悲しみを残して苦笑する。 「だから、お前が謝る事じゃねーんだよ」 わしわしとクザンに頭を撫でられて、久居の口元がじわりと弛みそうになった時。 ゆらり、と少し離れた場所に気配が生まれた。 サッと警戒態勢をとる久居に、クザンが心配いらないという風にひらひらと手を振る。 ゆっくりと草陰から現れたのは、見上げるほどの巨大な馬を背に背負って、ぜーはーぜーはーと派手に息を切らした、汗まみれの変態だった。 「く、玖斬様、お待、たせ、致しましたっ」 「おう、遅かったな」 「も、申し訳、御座い、ません……」 ドシャッと派手な音とともに、ヒバナが膝を付く。 その背から、ずるりと馬が滑り落ちた。ズドンと地響きを立てるその馬は、食用馬なのだろうか、とても大きい。 「まあ、それ千キロはあるからな」 クザンが苦笑しながら、落ちた馬をヒョイと拾うと、久居にどこで捌くかと尋ねる。 「ではこちらに……」と案内されて、通りすがりにヒバナの頭をポンと叩く。 「ご苦労だったな」 「ああああ有り難きっお言葉っっっ」 ヒバナが緩み切った顔で答えてから、慌てて「お供しますっ」とクザンの後を追いかけた。 馬は、クザンが思ったよりもずっとあっさり、久居によって皮を剥がれ、使いやすいサイズに刻まれてゆく。 木に吊るそうにも大きすぎたその巨体は、クザンが持っておくと言ったのだが 「いけません玖斬様! 危険です!!」 と、代わったヒバナがその長身を活かして支えている。 久居の手の中で、力の刃は用途に合わせて変幻自在にその形を変えていた。 「いつの間にそんなの覚えたんだ?」 「カロッサ様にご指導いただきました」 「火焔(カエン)とやる前には、使えてたのか」 「はい」 カエンの名に、ヒバナが反応する。 「火焔様が……たかが人間と?」 クザンはそれには答えず質問を続ける。 「お前に穴を開けたのは、火焔か?」 「いえ、名前は分かりませんが、別の鬼です」 「そうか」 クザンが少しだけ、ホッとしたような表情になる。 その様子に久居は、カエンを現在恐慌状態に陥らせていることはまだ伏せておこう。と思った。 「火焔様の元に居る鬼は、お嬢様を除けば二人だけのはずです。刺し傷でしたら、烈黒でしょう。  随分前にツノを折ってやった事がありますが、残り二本も折っておきましょうか?」 とヒバナがクザンに言うが 「もういい、余計な恨みをかうな」 と止められた。 久居は、あの鬼のツノが片側にのみ二本生えているのを見て、バランスが悪くないのだろうかと思ったものだが、生まれつきのものではなかったらしい。 「おい変態、体調はもう戻ってるな?」 「はっ」 ヒバナがビシッと姿勢を正す。 「久居も、これ食って血を補っとけよ」 「ありがとうございます」 「予定よりちょいと早いが、次の新月にまた来る。  あいつら、出してやろうぜ」 クザンが、親指で小屋の方を指しながら、ニッと笑う。 そこには、フリーと菰野が眠っていた。 「は、はいっ!!」 久居が、飛び上がりそうな勢いで姿勢を正す。 あまりに素直に嬉しそうな顔をする久居を、クザンが満足そうに見てから、スッと険しい顔になり、久居の肩を掴んだ。 「お前の主人は治してやるが、その後殴るからな。止めるなよ」 クザンの表情は真剣そのものだ。 「わ……わかり、ました……」 久居は、そう答える他なかった。

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