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久居は、背中越しに小さな炎の音が聞こえて驚いた。 リルが、まさか、一人で炎に挑むとは。 正直、久居は思っていなかった。 驚きに見開いた目を、ゆっくり細める。 自分の手はまだ使い物になりそうになかったが、このまま治癒を続ければ、もうしばらくで五本の指の形を取り戻せるだろう。ちc このくらいの事でリルが炎を扱えるようになるならば、むしろ安いものだと思う。 リルの炎は、この先の戦いで大きな力となるだろう。 気配消しの結界にも制限時間があるので、その中で今リルが落ち込まずに練習を続けてくれることが、久居にはとても有り難かった。 リルも、菰野様も、まだまだ幼いと思っていると、不意にこうやって大人の顔を見せられてしまう。 それが久居には嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。 十三年前、真冬の海岸で久居を拾ったのは、幼い幼い菰野だった。 まだ甘い、鼻にかかった高い声に、舌足らずな話し方。 甘えたがりで、何かあるとすぐ久居にぐりぐりと顔を擦り付けて来た。 八年前の、加野を亡くした頃の菰野は、いつも無理をしていた。 周囲の気遣いが申し訳なかったのか、胸に空いた大穴を悟られまいと振る舞う菰野が、久居にだけ拗ねたりわがままを言ってくれる事が、とても嬉しかった。 それから五年、菰野は背も伸びて、剣術も気遣いも人一倍出来る様になった。 譲原皇との別れでは、もう久居に泣きついてくる事はなく、成長を誇らしく思う反面、やはり寂しく感じてしまった。 久居が、治癒を進めつつも記憶の中の菰野の姿を辿っている間に、久居の手は元の形に近付き、リルは枯れ葉をいくつか拾って久居の側にやって来た。 「久居、ちょっといい?」 リルが、久居の肩越しに尋ねる。 リルの小首を傾げる仕草はどうにも小動物的で、小鳥のようなリスのような、そんな仕草に久居は時折庇護欲を煽られる。 「なんでしょうか?」 治癒の進行……つまりは手がどの程度の治ったのかが気になる様子のリルに、久居は人の手らしい形を取り戻したそれを見せるように振り返る。 後は表皮と爪が戻せれば、治癒は完了だった。 「さっきは、怪我させちゃってごめんなさい」 深く頭を下げるリルに、久居が柔らかく返事をする。 「リルが気にすることではありませんよ。稽古で怪我をするなど、よくある事です」 実際がこの例とは少し違うことを分かりつつも、久居はあえてそう言った。 「それよりも、リルが炎を扱えるようになって、私は嬉しいです」 あいにく久居は両手がまだ塞がっていて、リルの頭を撫でてやる事はできなかったが、可能であればそのふわふわの髪を撫で回したい気持ちだった。 ……もっとも、最近は頭に鍋が乗っているため、撫でても鍋の感触しかしないわけだが。 「ありがとう、久居。ボクこれからも、練習頑張るね!」 嬉しそうに笑うリルが、目の前に手に持っていた枯れ葉をヒラヒラさせる。 久居にも、なんとなく、リルがこれからやりたいことが見えてくる。 「それで、試してみたい事があるんだけど、いいかな?」 もう一度小首を傾げて問うリル。 「ええ、もちろんです。私も気になっていました」 久居はそう返事をして立ち上がった。 ---------- 以前、城の庭師に夏の落ち葉は水が足りていないせいだと聞いたことがある。 小川は枯れていなかったが、ここら一帯は乾燥しているのだろうか、落ち葉が多い。 そんな事を思いながら久居が周囲を見渡す間に、リルが落ち葉を片手に三枚ほどつまんで、もう片方の指先に薄く火を灯した。 (ずいぶん自然に炎を出せるようになりましたね) リルの集中を乱さないよう、久居が口に出さずに感心していると、リルがつまんでいた葉を一枚落とした。 途端に葉は燃え尽きて、粉状に消えてゆく。 しかし、手元に残った二枚は元のままだ。 ここまでは、二人の予想通り。 「次はね、えっと……」 リルが呟いて、つまんだ葉の一枚をじっと見る。 すると、一瞬チリチリと音がして、葉のうちの一枚が燃え尽きた。 「最後は、んっと、できるかわかんないけど……」 リルは慎重に最後の一枚から手を離す。 枯葉は炎に包まれたまま、ヒラヒラと舞って地面に落ちた。 リルはそれを指すと「攻撃してみて?」と言う。 久居は良い機会だと思い、両手を軽く握り、まるで見えない小刀を抜くような動作で、エネルギーの結晶体を作り出すと、その葉を斬ってみた。 結晶体は、葉に触れるとヂヂヂッと嫌な音を立てて刃先が溶け削れたものの、手元に熱は伝わらないようだ。 「やった、できた!」 リルが嬉しそうな声をあげて、ぴょこんと飛び跳ねた途端、地面にあった葉が燃え消えた。 「あー……」 落胆するリル。 「これができたら、離れてても久居を暑さから守ってあげられると思ったのになぁ」 しょんぼりした呟きだったが、リルがうっかり気を抜いた途端に自分は消し炭になるのかと思うと、久居は背筋が凍った。 「つまり、鬼の纏う炎が、どこからどこまでを包むかは、意志によって調整が可能ということですか」 久居が一連の実験をまとめてみる。 「うん、えっと、ボクが持ってるものは燃えないし、嫌だなって思うと、持ってても燃えるみたい」 リルに言われて、久居は以前リルを縛っていた縄だけが消えた事を思い出す。 「一度待ってたものは、手を離してもボクがまだ繋がってるって思ってれば大丈夫みたいなんだけど、ずーっと繋がってると思い続けるのって、結構難しいや」 自分の不甲斐なさにか、笑ってみせたリルの表情には苦いものが混ざっている。 「この短時間で、ここまでできるようになれば上出来ですよ」 と、久居は心からそう思いつつ答えた。 一瞬リルの頭を撫でようかと思った久居だったが、まだリルの指先に残っているわずかな炎を見て思いとどまる。 「炎を長く、均一に維持できるのですね」 久居が感心すると、リルはちょっと困った顔をした。 「うーんと、なんかね、ボクの炎って、消そうとしないと消えないみたい……」 苦笑するリルの横顔に、不安が見え隠れする。 「お父さんは、炎を出す時にはグッと力を入れて、ボワーっと出せ! って言ってたけどね」 リルは、クザンの声真似をして、その不安を誤魔化そうとする。 久居はリルを少しでも安心させるべく、落ち着いた声で伝えた。 「力の使い方は、人それぞれ違って当然だと私は思いますよ」 言われて、リルは久居を見上げて小さくはにかむように笑い「そうだよね」と答えた。 久居も心の内では、栓を開けただけでチョロチョロ力が漏れ出すなんて、リルの中にはどれほどの力が溢れているのかと、薄寒くなった。 しかし、それはリルには到底見せられない感情だ。 それより、久居にはもう少し試してみたい事があった。 「そのままで、落ちている葉を燃やさずに持つ事はできますか?」 「炎を一回引っ込めずに? やってみるね」 リルが、足元からひょいと拾った葉は、枯れ葉のままの姿だ。 「できるね」 ひょいひょいとリルは数枚葉を拾い上げてみるが、葉は一枚も燃えないようだ。 「私が葉をリルの上に落とすと燃えるでしょうか」 言いながら、久居がリルの上からひらりと葉を落とす。 落とされた葉は、リルに触れる一瞬前に灰塵となった。 「燃えたねー」 「では手渡しはできますか?」 「危ないよ?」 「気を付けます」 笑って答えた久居が、細心の注意を払って、なるべく大きめの葉を渡す。 「燃えないね」 「ええ、リルが受け取るつもりでいる物ならまず大丈夫そうですね。いざと言う時はお願いするかも知れません」 久居の言葉に、リルは瞳を輝かせて頷いた。 「うん! ボク頑張る!」 ---------- 一方、小さな城ほどもある、広い石造りの屋敷の一室では、カエンがソファに寝そべったまま雪の腕輪を手の中で弄んでいた。 受けたばかりの今日の報告に、カエンはすっかり満足していた。 カエンの手の中にある雪の腕輪。 その表面に細かく刻まれた雪の結晶を模した装飾を、カエンは部屋の明かりにかざして、煌きを楽しんでいた。 カエンが目を細めて眺めるそれが気になったのか、開け放たれていた部屋の前を通りかかった女性が足を止める。 「あらぁ? なぁに? その腕輪〜」 不意にかけられた女性の声に、カエンは振り返る事なく答える。 「母さんは見るのは初めてですか? いわゆる人専用の神器というやつですよ」 「神器ぃ〜? そんな凄そうにはみえないけどぉ?」 ゆるゆると話しながら、深緋色の長い髪を肩下から腰までゆるくカールさせた女性が、カエンの手からするりと腕輪をさらう。 たっぷりの布を使って、ゆったりと裾が広がったデザインのドレスは、彼女のゆるさにぴたりと合っているようだった。 カエンは手の内に無くなった腕輪を気にする風もなく、すらすらと答える。 「四つ揃うと凄いらしいですよ。まあ、ここには二つだけですが。地の者も天の者も、人から奪ってはならない。なんて決まりまであるいわくつきのものなんですから」 息子の解説に、母と呼ばれた女性が嫌そうな顔を見せる。 一見、女性の年齢は、まだ二十歳過ぎほどにしか見えなかった。 「そんなの、どうせ天使達が勝手に作った決まりなんでしょ〜?」 「そうでしょうね」 さらりと興味も無さそうに返事をしたカエンが、もう一本の腕輪に想いを巡らせる。 陽の方は、まだあの三男が持っている。 あの腕輪の力があれば、今日と同じように明日も沢山の命を奪えるだろう。 そう確信して、カエンの口元が弛む。 「なぁに? 楽しそうな顔して」 「いいえ、何も?」 「こんなの持ってるの、あの人にバレたらどうすんのよぅ」 女性は眉を顰めると、カエンの手に環を乱暴に突っ返す。 「ああ、それならご心配無く。濡れ衣を着せてもまったく不自然じゃない、むしろ、濡れた着物が最高に似合いそうな小鬼君を見つけたんですよ」 「小鬼ぃ〜?」 「まだ生きてたとは、実に不憫ですね。僕はてっきり、あの頃死んだものと思ってましたよ」 そう言いつつ、カエンは心から楽しげに笑う。 「同族殺しはやめてよねぇ? あの人、怒ると恐いんだからぁ」 「あの小鬼はいいんですよ。とっくの昔に見捨てられてるんですから」 「どういうことぉ?」 カエンは内心で頭の弱い母親を蔑みながら答える。 「母さんも喜んでたじゃないですか。アイツが獄界を出て行ったきっかけの、実験体の小鬼ですよ」 「ああ〜、そんなのもいたわねぇ。もう忘れてたわぁ」 いつも気楽な母親を、カエンは冷たく一瞥すると、また手元に戻ってきた雪に視線を落とす。 部下の報告によれば、村の近くで一度正体不明の炎が上がったらしい。 あの小鬼が環を取り返しにきたのだとすれば、それは好都合だった。 思う存分死者を増やした後、全て小鬼の仕業にしてしまえばいい。 この私が、いつまでもこんな田舎の管理者でいいはずがない。 カエンは、獄界の中心にある巨城に想いを馳せる。どこまでも続く長い廊下。果ての見えない庭園。豪奢な内装を眺めながら、母に連れられて夢心地で歩いたあの城。自分が居るべきなのはそこのはずだと、彼はいつも思っていた。 この計画はきっとうまくいくだろう。 たとえ、あの小鬼が見当たらずとも、ここにもう一人、ちょうど良い者がいる。 カエンは、用も無いくせにまだ自分の部屋に留まっている母をチラリと見た。息子の昇格を望まず、こんな暮らしで満足している母もまた、彼にとっては不要な物の一つだった。

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