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菰野が間合いに近付くにつれ、久居が鋭く呻いた。 その瞳に懇願が映るのを、菰野は悲しく眺めた。 俺に距離を取って欲しがっている事なんて、重々分かっている。 「久居、落ち着け。まずは息を整えろ。……俺は、そう簡単にはやられない」 菰野が、息を荒げてしまった久居を宥めるように、ゆっくりと伝える。 「俺は、久居を失いたくないんだ。その浅はかな覚悟は、即刻捨てろ」 言われて、久居の瞳が大きく揺れる。 久居の動揺に、闇が踊った。 まるで、久居を乗っ取るのを邪魔する菰野を攻撃しようとするかのように。 闇は膨れ上がると二手に分かれ、風切り音を立てながら菰野へと伸びる。 「んんんんんっ!!」 久居の悲痛な叫び。 無理に動こうとした久居に、闇が一層深く食い込む。 リルは強く強く、菰野を守りたいと願った。 それは、久居の願いでもあるはずだから。 菰野は慌てる様子もなく、リルの炎に包まれた刀で、飛び付いてきた闇の筋を左右にいなす。 闇と炎はバチバチと激しい音を立ててぶつかり合い、弾けた。 「ほら、どうと言う事はない。分かったら、まずは落ち着け」 菰野が、久居の一つ残った眼を見つめて、優しく笑って見せる。 菰野の暖かく包み込むような眼差しに、ようやく久居は菰野の心に触れた。 「一人で難しいなら、俺も手伝おう」 こんな状況下でも、菰野は明るく言った。 「師の教えを思い出せ。呼吸は基礎だぞ?」 いつだってそうだった。 菰野は、心配させたくない誰かの前なら、たとえどんな時でも、笑える強さを持っていた。 (……っ! 菰野様に応えなければ!!) 久居の心はそれだけに埋め尽くされる。 闇への畏怖も、それを御せない事への恐怖も、主人の期待に沿えない恐怖の比ではなかった。 菰野は信じている。 久居がこの闇を収められると。 それに応えずして、何が臣下か。 口は塞がれていたが、久居は鼻から静かに呼吸を整える。 派手にもぞもぞと蠢いていた闇が、それだけで、どろりと動きを鈍らせた。 体の状況をよく確認すれば、闇の力は両手から漏れている。まずは握っていた刀を消してみる。それだけで、意外なほどあっさり両手が空いた。 両手を合わせてみるも、闇は溢れて止まらない。 両手に障壁を張ってみても、それは変わらなかった。 じわりと内心焦りを滲ませる久居を見透かすように、菰野が言った。 「止まらないなら、全部出してしまったらどうだ?」 久居が驚きを浮かべた瞳で菰野を見る。 「リル君、炎をこの辺りに置くことはできるかな?」 菰野は、まだ驚いたままの久居の隣に、リルの手を借りて簡易焼却炉を設けた。 「ほら、そこに出してみろ」 久居が言われた通りに闇を注ぎ込むと、炎がバチバチと派手な音を立てて弾ける。 「……花火みたいだな」 目を細めて呟く菰野の言葉に、リルが尋ねる。 「花火って何?」 「見た事ないかい? 今度一緒に買いに行こうか」 炎に包まれた菰野が、優しく答える。 どろどろと注がれる闇が、炎と触れ合い弾けて踊り、火花を纏ってふわふわと溶けてゆくのを、全員がしばらく無言で見ていた。 久居が体内に溢れていた闇を出し尽くす頃には、体に外から纏わり付いた闇も厚みを失い、僅かに澱みが周囲に残る程度となった。 「レイ、頼めるかな」 菰野の言葉に、レイがもう一度眩い光の奔流で久居を洗い流すと、闇はもう、どこにも残らなかった。 張り詰めていた糸が弛み、全員が、朝の清々しい空気に包まれる。 気付けば、淡い色をしていた空は、朝焼けの終わりを迎え始めていた。 「久居、調子はどうだ?」 菰野に問われて、久居が力の流れを点検して答える。 「問題ありません」 体のあちこちに、闇に絞め上げられた跡が痛々しく残っているが、それはこれから治すのだろう。 「リル君、炎をありがとう。長い事大変だったろう」 菰野が労わるように、リルに笑顔を向ける。 「ううん。全然。大丈夫だよ!」 リルがにっこり微笑み返す。 「レイもありがとう。助かったよ」 いつの間にか昇り切った朝日を背後に、菰野の爽やかな笑顔を向けられて、レイはまだ信じられないような気持ちでいっぱいだった。 「いや……。いやいや。なんだこれは。こんな……終わり方でいいのか?」 レイが、間違っているとばかりに頭を抱えてしゃがみ込む。 「闇の力が暴走するって言うのは、なんかこう、もっと凄惨な事になるやつじゃなかったか?  人も沢山死ぬし、下手すれば闇が土地に留まり、しばらくは草木も生えないような状態になったりするもんじゃないのか?」 レイは今まで天界で見てきた闇の者に関する事件報告書を、何件分も頭の中に思い浮かべながら、目の前の出来事と比べてみる。 これではまるで、不用品の焼却というか、不要な物を体外に出しただけというか。 排泄行為みたいなものじゃないか……?? 「レイ……大丈夫?」 リルが心底不憫そうに見下ろしてくる。 やめてくれ。そんな目で見るんじゃない。 別に俺は可哀想じゃないぞ。 久居が無事で、この土地が無事で、よかったじゃないか。 誰一人、犠牲を出すことなく。 時間的にもおそらく、遠い天界に気付かれるとは考え辛いし……。 「レイ、迷惑をかけて、すみませんでした」 久居が申し訳なさそうに謝罪してくる。 久居にも、レイが立場的に相当気を揉んだだろう事は、分かっていた。 「いや……いいんだ…………」 レイが俯いていた顔を上げると、リルと久居の心配そうな顔があった。 それを見て、レイは口端を緩ませて続ける。 「皆無事で、本当に良かった」 レイの背で、ぎゅっと縮こまっていた翼が、ふわっと緩む。 「ボクお腹空いちゃった……」 リルが両手でお腹押さえながら呟く。 「すみません、すぐ用意しますね」 朝食の準備を始めようと動き出す久居の後を、リルと菰野が追う。 「久居、痣だらけだよ、大丈夫?」 「無理するなよ」 そんな三人の後ろ姿を見送りながら、レイは立ち上がる気にもなれず、そのままその場に座り込む。 朝露に濡れた草が、ひやりと冷たい。 朝の光は、何事もなかったかのように古民家と田畑を照らしていた。 いつもと変わらない風景に、レイはようやく息をつく。 「ああ……。皆無事で……。本当に良かった……」 レイはもう一度呟くと、朝日を浴びて輝く真っ白な翼を、伸びをするように片方ずつ大きく広げてから、笑った。

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