黒い翼の少女は、夜更けにやってきた。 近付く羽音に気付いて、赤い髪の少年鬼は見張っていた人間の住む家から距離を取る。 こんな夜中に、バサバサと羽音を立ててくるのなんてあいつくらいのもんだろう。 梟は、もっとずっと静かに飛ぶ。 (けど、あいつは、あの男の側を離れないかと思ってたけどな……) なるべくしっかり減速したらしい少女が、それでも二、三歩勢い余ってこちらに来るのを、少年は半眼で見た。 天使達と、同じ動きだな。と思いながら。 「……」 変わりはないかと小さく尋ねてくる少女に、赤髪の少年鬼は知らぬふりで答える。 「お前も来るとは思わなかったな」 「……ラスだけだと、失敗しそうだから」 「……っ!」 なんでそれはハッキリ言うんだよ!! という叫びを、少年は胸へと飲み込んだ。 ここで張り込んでいても、天使がいつ環を持ってくるのかは分からない。 半月後かも、半年後かも、三年後かも。 そんなに、この少女はあの男と離れていられるのだろうか。 「っ、そんな長いこと、あいつ一人放っといていいのかよ」 思わず拗ねたような声色になってしまったが、心配だったのは本当だ。 ラスの言葉に、サラはぽつりと答える。 「父さんは、弱くないよ」 「……そうかよ」 そういう事じゃねぇよ!! という叫びは、またも少年の小さな胸へと仕舞われた。 まあ、寂しくなれば、こいつは途中でも一人帰るのかも知れねぇしな。 などと思いながらも、それまでの間だけでも一人で見張らずに済む事に、ラスはホッとしていた。 いや、寂しいとかじゃないぞ。 二人なら、交代で買い物にも情報収集にも行ける。それは大きい。 決して、寂しいとかじゃない。 どこか挙動不審な少年鬼を、サラは、胡散臭そうに眺めて尋ねた。 「何? ラス寂しかったの?」 「違ぇよ!!!」 思わず叫んだラスに、サラは思い切り嫌そうな顔で呟いた。 「煩い……」 ハッと少年が我に返って、ばつが悪そうに俯くと、ぶつぶつ言い訳をする。 「っ、悪ぃ。……ターゲットの家からは距離取ってっから、気付かれる事はねぇよ……」 「ふーん」 気のない返事に、少年は、自分が元から少なかった信用をすっかり失っていることに気付かされる。 「っ……、今度こそ、手に入れないとな」 ラスは赤い瞳に決意を宿して、言葉とともに拳を握り込む。 少年の燃えるような赤い髪からは、小さなツノが二本覗いている。 少女は、そんな小鬼を……自分よりひと回り以上年上なのに、自分よりもずっと幼い外見をした、頼りない小鬼をチラと見下ろしてから「うん」とだけ答えた。 ---------- カロッサの術の中。 幼い久居は、仲の良い両親と弟とともに穏やかな日々を送っていた。 父親は、毎日ほとんど家から出る事なく、家事をしたり久居と弟の邑久(ゆうひ)の面倒を見て過ごし、母親だけが外に稼ぎに行っていた。 そのためか、生活は実に実に慎ましやかではあった。 けれど、四人はとても幸せそうに見えた。 久居の視点からカロッサが見る限り、両親ともに術を使う様子は無い。 三つ下の弟は久居にとても懐いており、べたべたと甘えてくる弟を久居は邪険にする事なく、まめに世話を焼いていた。 不思議な点があるとすれば、久居の父が何故か常に丁寧語で話している事くらいだろうか。 そんな父親につられてか、久居も普段から丁寧語を話していた。 母親はそれを好ましく思っていたようだったが、父親はなぜか、それを酷く悲しんでいた。 そんな日々の中、久居の左肩、背中側にほんのりと紅い痣のようなものが浮いてくる。 それが濃くなる度、思い詰めた表情をしていた父親が、ある日突然、居なくなった。 寒い冬の出来事だった。 母親はそれから毎日父親を探し回るようになった。 当時七歳だった久居は、家で弟の世話をしながら両親の帰りを待つ日々となる。 元々よく手伝いをしていたためか、久居は苦戦しつつもなんとか弟の面倒を一人で見ていた。 そんな懸命な久居の隣で、母親は徐々精神を病んでいった。 もしかしたら、久居がもっと子どもらしければ。 もっと手のかかる子だったなら。 母親は子ども達の世話をするうちに心を立て直せたのかも知れない。 けれど久居は、父を探す母の邪魔をしないようにと、母を助けたい一心で、一人弟の面倒を見ることに懸命になってしまった。 結果、母親は一人の時間を大量に抱えて、心を壊してしまった。 母親は、今までと変わらぬ様子で優しく接してくれたかと思えば、突然、父によく似た久居に行き場のない激しい感情をぶつけて来た。 かと思えば、またわずかに正気に戻り、傷だらけの久居に泣いて詫びる。 久居はその度に、耐え難い恐怖と苦痛を感じていたが、この不憫な母を助けたい、元に戻ってほしいと願うばかりで、憎むことは無かった。 肩の紅い痣を執拗に斬り付ける母に、久居は、この痣が原因で父が居なくなったのなら、それはつまり、母がこうなったのは、自分のせいなのだと思う。 母に似た顔立ちの邑久が、母に責められなかったのも、やはり非があるのは自分だけなのだと久居に思わせた。 けれど、弟が傷付かずに済んだ事は、久居にはただただ有難い事だった。 痣は、どれだけ深く傷付けられても、傷口が塞がるに伴い、少しも消える事なく浮かんできた。 母親は家にいてもぼうっとしていたり、ただ何かを呟いていたりすることが多くなり、久居は、痛む身体を引き摺りながらも、お腹を空かせた弟と母に食事を用意していた。 母は仕事に行ったり行かなかったりの日々で、ほんの僅かの貯金は、あっという間に底をついた。 空腹は久居からも思考力を奪ってゆく。 この辺りの記憶がほとんどぼやけているのは、彼の体力的な限界なのだろう。 そんな日々がどのくらい続いただろうか。 季節はようやく春を迎え、外を吹く風も暖かくなってきた。 久居が八歳になったばかりの、やけに生あたたかい夜、母親は久居と邑久を連れて海へ来ていた。
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