ひどく眩しい恋をした
人魚姫の気持ち

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 早朝五時。  部屋に降る陽射しも穏やかで、風も穏やか、ついでに言うとママとパパも穏やかに眠っている(はず)。  私はいつものようにこっそり水着と着替えを持つと気づかれないように学校へ向かった。 「おお雫、今日は早起きだな。散歩か?」  ああしまった。  校門前、パパと真新しいスーツを着込む若い男の人を見て私は両手を後ろに着替えの入ったポーチを隠す。 「前にも話していた教育実習の苑瀬くんだ。これからしばらくの間うちで暮らすことになる」 「教授には大学の頃から良くしてもらっていて……雫さん、ですよね? よろしくお願いします」  若い男の人は握手を求めてきた。 「どうも……」  でも私はテキトーに会釈してその場を去ろうとした。別にこの人に悪い感情があるわけじゃない、でも握手に応じてしまったらせっかく隠していたポーチがまろび出てしまう。 「どうした雫……ってお前、またか!?」 「別に。今日授業で使うだけだし」  私はぶっきらぼうに握手した。今更男の手でドキドキすることなんてないけど、なんとなく薬指に光る指輪が印象に残った。  ♠♡♢♣♤♥♦♧ 「はじめまして教育実習生の苑瀬カイトです」  そう言って深々とお辞儀をする。朝はつけてなかった黒縁のメガネがきらりと反射、それから新品の印刷機みたいに黒板へ大きく名前を書いていく。 「先生、質問です」 「なんでしょう、渋川雫さん」 「私しか居ないのに〝はじめまして〟はおかしくないですか?」 「……まさか渋川さん一人だと思わなくてね。せっかく練習してきたのに残念だよ」  ひどく肩を落とす姿を見て私は小さく吹き出した。だって大人の人が子供みたいな反応をするんだもん、なんだか不思議な気持ちになる。  私の住んでいる島は往年の過疎化のせいで高校生は私一人、校舎も全学年と共有だ。 「もう一つ質問いいですか?」 「なんだい?」 「どうして私を庇ったんですか?」 「……なんでそう思うのかな?」  なんとも含みのある返しだ。きっと私が子供っぽく可愛らしい感謝をしてくると思っているのだろう。  ちょっと意地悪してみたいと思った。 「朝、パパの機嫌が治ってました。あと今日プールの授業はありません。それと先生は高等部が一人しか居ないことすら知らないやる気のない先生です。なのにパパの機嫌が治ってました、先生何かしましたね?」 「酷い言われようだ……」  これは手厳しい、と黒板消しを持ちながら先生はさらに肩を落とした。黒板の方を向いているせいで先生がどんな顔をしているのか分からないのはちょっと残念。 「単に罪滅ぼしだよ。僕のせいでなにか隠し事がバレちゃったみたいだしね」 「別に隠してなんかないですよ」 「競泳の選手なの?」 「飛び込み、です。でも膝を壊したんで今はただの生徒ですね」 「そうなんだ」  この話題はここで終わった。  先生は黒板を消し終わると早速教科書を開くよう促す。内容は国語の読解だ。タイトルは人魚姫。 「ひとまず読もっか」  その日の授業は二人きりで交互に音読するだけで終わった。普段は一人で自習する時間だったからかな、ほんの少しだけ心が賑やかになった。  でも最後に課題を渡された、ちょっとムカつく。  ♠♡♢♣♤♥♦♧ 「ふぁあ……」  日が落ちた放課後、課題があることを思い出した私はやりたくないなぁと思いながら課題を取りに戻っていた。  教室に着いてさっさと課題を回収する。ふと窓から息苦しくなる匂いがした。   「ここ禁煙ですよ」 「あれ、まだ帰らないの?」 「先生の課題のせいで戻ってきたんです」 「それ僕のせいなの……?」  用事があった訳でもない。私たちはなにか話すわけでもなく低い仕切りを挟んで外の景色を眺めていた。 「キレイだよな」 「都会の人ってみんなそう言いますよね」 「そうなの?」  別に都会でもここと同じくらい星は見える。でも見上げようとしないだけだ。 「ええ、都会は眩しすぎるって言います」 「ふぅん」  星明かりが弱いからかもしれないけど。 「……先生」 「別に先生じゃなくていいよ、まだ実習だし」 「〝先生〟質問でーす!」 「…………はい、なんでしょうか雫くん」 「なんで此処へ教育実習に来たんですか?」  なんだかこの時の先生は、少し陰のある顔を浮かべていた。  この町に若い大人の人は居ない。それはきっとわざわざここに居る理由がないからだ。じゃあなんで先生はここに来たんだろう。 「さあどうなんだろうね……」  その表情の意味を私はまだ知らない。  ♠♡♢♣♤♥♦♧  翌日の国語の授業。課題は採点されて一つだけバッテンをつけられて帰ってきた。 「先生、抗議しまーす!」 「とうとう質問ですら無くなった……なんですか雫さん」 「人魚姫の最後の心情、なんでバツなんですかー?」 「教科書ガイドにそう書いてるからですね」 「……それ教育者としてどうかと思いません?」 「君の態度も生徒としてどうかと思うよ……」  先生は眼鏡をとると苦慮の表情を隠すように目頭をおさえた。家でよく見る姿なのに胸がどきんと下からつき上げた。 「そういえば先生って学校だとメガネかけてますよね」 「えっ…うん。仕事モードに入るつもりでつけてるからね」 「取ってるじゃないですか」 「雫さんだからね」  諦めたように眉を下げる先生。反射的に「それってどういう意味?」と訊きたくなったけど、その前に終了のチャイムが鳴った。  次は体育、名ばかりのプールの時間だ。  ♠♡♢♣♤♥♦♧ 「なんで先生が?」 「体育の吉鍋さん、ぎっくり腰でおやすみだってさ」 「……ちょっと上着忘れました」 「えっうん……、分かった?」  更衣室で私は自分の頬っぺたが上気していることに気づいた。 (すごく熱い……)  外が暑いからじゃない、身体の芯から私自身が火照ってる。耳まで真っ赤だ。 (さっきの言葉のせいだ)  顔を洗ってから戻ると先生がプールサイドで黄昏ていた。「先生、戻りましたよ」って言おうと思ったけれど喉元にでかかったところで止まる。 (またあの顔)  昨日の放課後見せていたあの表情……。 「えいっ」 「うわちょ」  なんとなく私は先生の背中を押していた。ざぶんと派手な音と飛沫が上がる。きっと飛び込み競技だったら0点の演技だ。 「いきなり何するんだよ雫さん!」 「なんか眠そうな顔だったんで!」  まったく……、と先生はプールから上がろうとしてきた。訳もなくその進路を塞ぐ。  先生はぶつからないように避けようとするけどそこも私は塞ぐ。  そしたら先生は反対側へ。  そうはさせない、プールサイドを走って先回りしようとした時――私は足を滑らせた。 「わっ」  足が地面から離れた。視界が目まぐるしく廻りだす。自分がどこにいるか分からない。  怪我した脚が見えた。細く滑らかな肢体に消えないトラウマ。急に、腹の奥底から目の眩むようなものが迫り上がってくる。光が真っ白に弾けて、自分の身体が知らない生き物のようにうごめいて、怖い。嫌っ。私はまだ――。 「目を閉じて!」  瞬間、不思議な力に引っ張られた私は風と共に着水した。濁った水を隔てて澄んだ真夏の空が光っている。  私はほんの少しの間、昔の事を思い出した。  別に私は飛び込みが好きなわけじゃなかった。でも才能はあった。その才能で東京に行きたかった。  私にとってここの星空は暗すぎる。こんな星空が見えなくなるくらい、霞んでしまうくらい、眩しい世界の中で生きてみたかった。 (だから私は……)  それからどれくらい経ったんだろう。 「さん……! 雫さんっ!」  ようやく私は自分がぼんやりと空を眺めていたことに気づいた。既にプールから引き揚げられていて、身体にはタオルがかけられている。 「……先生、質問です」  私はおもむろに起き上がった。先生はまだ安静にしていたほうがいいと手を伸ばしてきたけど、私はその手を縋るように握った。 「どこまで聞きました?」 「それは――」 「怪我のことです」  先生は眉間に皺を寄せて、困ったように唸った。しばらく言って良いのか悪いのか考えあぐねるように視線をさまよわせていたけど、やがて私のほうへ戻ってきた。 「…………全部聞いたよ。調べもした。君が大会で入水に失敗したことも、それ以降……一度もプールに入れないことも」 「やる気のない先生にしては意欲的ですね」 「そういう問題じゃないだろ!」  初めて先生が怒鳴り声を上げた。そういえば昔パパも似たようなシチュエーションで怒鳴ったけ?  でもその時と今の気持ちは何か違う。 「ならなにが問題なんですか?」 「なにがって……」 「苑瀬さん」  私の意図に気づいて苑瀬さんがそっぽを向く。  私は構わずその顔を覗き込んだ。  浅黒い、端正な、彫りの深い顔。その瞳は深いプールのように真っ暗で、でも深いプールのように何もかも包み込んでくれそうで……。  ひどく眩しかった。 「問題なんてあるんですか?」  この言葉の意味は私にも分からない。  ♠♡♢♣♤♥♦♧  ――死ぬ間際、人魚姫はどんな気持ちだったんだろう。  その日を境に私は先生のことを苑瀬さんと呼ぶようになった。パパが目上を敬いなさいと怒ったけれど苑瀬さんはそう呼ぶことを止めなかった。  あの日から数ヶ月。私と苑瀬さんの距離に変化はない。  そして今日は実習の最後の日だ。午後に開かれた全校集会でその事が伝えられた。たくさんの子供たちと交流していた苑瀬さんだから、小学生くらいの子達は本当に別れを悲しんでいた。  でもそれだけだった。  ♠♡♢♣♤♥♦♧  その日の放課後。  私は実習のレポートを書いている苑瀬さんの元を訪れた。 「苑瀬さん」 「なんだい」 「教えて欲しいことがあります」 「……答えられることなら」 「苑瀬さんは、人魚姫の最期の気持ちってなんだったと思いますか?」  授業のとき、苑瀬さんはガイドにある答えしか言わなかった。  だからきっと苑瀬さんにも彼なりの答えがあるはずなんだ。 「……そうだね」  苑瀬さんが眼鏡を外す。 「正直、どんな気持ちなのかは分からない。でも少なくとも……」  淡いダークブラウンの瞳が私を映した。 「好きな人を追いかけて、その人と一緒にいて、その上でその人の幸せのために生きられたことに、納得した気持ちはあったと思うよ」 「――っ」  気づくと私は、駆けていた。そしてぶつかるように身をあずけた。  いつもなら驚いた反応とかするのに、そのときの苑瀬さんは驚くこともなく私を優しく抱きとめた。 「雫さん……」 「さん、なんてつけないでください。もう私は生徒じゃないです」  視界がぼやけるくらいに近い。おでこに当たる吐息がくすぐったい。お互いの鼓動が、どくん、どくん、ゆっくり聞こえてくる。 「好きです、苑瀬さん」  私たちはこうなることが分かっていたかのように唇を合わせた。  人魚姫の物語は、自死という凄惨な終わりで幕を引く。  この先、苑瀬さんの言ったような納得の気持ちがあるのか分からない。むしろシナリオ通りの破滅しかないのかもしれない。  でも、それでも。 (人魚姫さん。あなたもこういう気持ちだったんですか?)  手が届きそうで届かなくて、それでも触れたい。そんなまばゆい光に恋をした貴女は、こんな気持ちで王子様にキスをしたんですか?

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