ローマ人達は頭領―――音声を直ぐに総督の下へ連れて行こうとしたが、その前に律法学者たちが現れて、に問い質した。 「お前はこの辺りを塒にしている山賊の頭か。」 「然り。」 「では、お前は三年前に祭りを穢した、『バルハヴァ・インマヌエル』と名乗る山賊を知っているか。」 音声は答えた。 「それは俺だ。俺は先代の大祭司、今は引退したあの老翁の傍で十八まで育ち、妾が男児を産んだことで追い出された。奴には、『馬の子』と言えば分かる。」 それを聞くと、律法学者たちは両手を挙げて喜んだ。抵抗していない音声を後ろ手に縄を掛け、引き連れて行った。夜は深く、往来で騒ぎを起こすと、逆に妙な同情を誘いそうだったので、彼等は何も言わなかったし、音声も何も言わず、口の中で祈り続けていた。 「人面獣心、覚悟ッ!」 だが、知った声がしてハッと顔を挙げる。迫る気配に、『声』が響いた。 『止まれ!!!』 「ぎゃああああああッ!!」 だが、彼は止まらなかった。産まれて初めて人を殺めた事実よりも恐ろしい事実から逃げまいと、彼は再び、音声の前に現れたのだ。 「―――これで、私も罪人だ、音声。…お前の預言を受け入れよう。どうか私を傍においてくれ。」 お前が死を宣告され、死を受け入れるのなら。私は死を選び、お前の道を共にいこう。さすればあの子は救われると、私は知っているから。 夜中だと言うのに、学者たちは大祭司の家に二人を連れて行った。十数年、音声が近づく事の無かった、音声の生家だと思っていた、今は老翁のみが住む家だ。今は行方の知らない瑠璃妃の生家であり、彼女を捨てた家でもある。音声の人生にとっては、瑠璃妃は捨てられて他人として逢った方が良かったのだろうが、音声も結局大祭司の息子ではなかった。ならば、瑠璃妃は、何のために『他人』になる事があったろうか。二人は姉弟ではなかったというのに。この屋敷には、瑠璃妃も、蘭姫もいなかった。だが今は、それでいいのだろう。 「よう、親父殿。生きてたか。」 老翁の前に引っ立てられ、音声は鼻で目の前の老人を嘲笑った。 「御託はどうでも良い。あの娘を返せ。お前が妻にした、あの娘だ!」 「悪いね、俺の妻は一人や二人じゃなくって、お前さんがどいつを指しているのかわかんないよ。」 「御託は良いと言った!!!」 「音声!」 シャッと蛇が噛みつくように投げられた葡萄酒の入った杯を、天眼が見切って押し出す。杯は天眼の髪の生え際に当たって砕け、血と葡萄酒が混じった。音声はそれには目もくれず、老翁を哀れむ様に睨みつける。 「この瞎は、お前の娼婦か何かか? 悍ましい眼をしよる!」 「こいつが俺の娼婦だというのなら、アンタの娘と糵は癩のイヌだな。」 「大祭司様に向かって何たることを!!」 狂信者かそれとも演出家か、律法学者の一人が、強かに音声を殴り飛ばした。後ろ手に縛られ体勢を崩し、派手に転がる。その上に、別の律法学者たちが群がり、子供がするかのように地団駄を踏み出した。天眼が彼等の一人の膝に体当たりし、文字通り身体を張って、音声を庇う。 「お前達こそ開き瞎か? 私のこの髪や鼻を見て何も分からないのか?」 律法学者の一人が言った。 「さっさと歯を折っちまえ、私達の瞳が潰れる!」 「私は国王の妾腹だぞ!!! 母はローマ人の娘だ!!! 私はローマの市民権を請求できる!!! お前達よりもローマ皇帝に近いのだ!!!」 ローマ皇帝、という言葉に、波打つように一同が怯む。が、老翁が叫んだ。 「出鱈目だ! お前は唯の、ローマに操を売った売女の息子に過ぎん! だから瞎なのだ、この大罪人!! 汚らわしい!」 「私への侮辱は、私を母に宿らせ給うた神への侮辱だ! お前の罪を、今ここで視てやろうか!! お前が私よりも罪人でないと言うのなら、お前が真に憐み深く寡に施すのなら、私がお前に感謝した全ての過去の人物を言い当ててやってもいい!!」 「言ったな大嘘付き! 神に選ばれた大祭司の家に生まれたこの御方が、神の前に正しくない筈がない! さあ、言い並べてみろ!!」 「ええい、止めんか! 気分が悪い、こやつらは娘婿に任せる! わしが口添えしなくとも、あの婿は上手くやるであろう。馬の子ではないからのう!!」 すると音声が言った。 「天眼、俺の母上が誰か、こいつに冥途の土産をくれてやれ。」 音声の意図を汲んだ天眼が、大声で叫んだ。 「見るがいい、罪深き大祭司よ。お前が護らなかった童女の末路を!! 彼女が産んだ無辜の魂を罪に定めた呪いを受けるがいい!! お前に仕えた乙女が産んだ子が、このイスラエルの王だ! お前は、預言書を読みながら預言された王を殺すのだ!!」 「俺は王じゃねえよ、天眼。取りあえず落ち着け、思ったより言い過ぎだ。」 両手が塞がっていたので、音声は天眼の額に頬を擦り付けて落ち着かせた。それを見て、老翁が狂ったように叫ぶ。 「悍ましい!! 悍ましい悍ましい悍ましい!!! そんなにも肌をすり合わせて、悪魔! 悪魔!! 悪魔がおる!!! 悪魔にわしの家が穢される!!! 奴の髭を頬ごと削ぎ落としておけ!!」 老翁がそう言ったので、家の外、鴨居の外まで引きずられて行った所で、音声は上唇に生えた髭と、耳の横から反対の耳の横までの全ての髭を、ナイフで削ぎ落とされた。その過程で、顔の輪郭がぎざぎざに割り開かれ、細かい血が幾つも幾つも流れた。薄く剥ぎ取られた皮は、水と血をたっぷりと含んで震える。音声は時折足並みを崩したが、深呼吸をすると直ぐに情調に歩き出した。日は勿論、どこかに篝火がある訳でもないのに、音声の額は銅色に鈍く光っていた。 「音声、大丈夫か。その…私は、間違ったことを言ったか? ―――いたっ!」 「勝手に喋るな、この片腕が!」 周囲を探る手段が大幅に削がれ、天眼は受け身を取れずに派手に転がった。これ幸いと、ここでも地団駄を踏もうとしたので、音声は言った。 「おいおい、糵ンとこに連れてってくれンじゃねえのか?」 先程音声を叩いた律法学者が、肌の剥けた頬を引っ掻くように殴り、凄んだ。爪が筋肉の筋に入り込み、全身から赤銅色の汗が滲む。 「大祭司様への数々の侮辱、鞭打ちの数は覚悟しておけよ!」 「音声! 凄い悲鳴が聞こえたぞ、大丈夫か!」 「勝手に喋るなというのに!」 「もういい、さっさと連れて行って、磔にでも鞭打ちにでもしてもらおう。こいつらをいつまでも縛ってたら、俺らの娘を嫁がせられなくなる!」 「罪が移るぞ、とっとと片づけちまえ。」 天眼が心配そうにきょろきょろと音声の声を探そうとするので、音声は『大丈夫だ』と、答えた。 大祭司について音声が思う所と言えば、娘である蘭姫が、近親相姦の結婚相手になるところだった事くらいしかない。彼自身はそれを恐らく知らなかったのだろうから、それについて調べるまでもない。彼が婿養子になったということは、彼の妻は音声の姉に当たる女になるが、彼女から別段良くしてもらった記憶もなければ、話した記憶もそれほどない。音声が後継者だった頃には、姉達も妹達も自分を敬い、いつでも頭を下げていたが、妾が男の子を産んだあの日から、一度も会っていないし、探されもしなかった。老翁が『馬と売女の合いの子』と言って捨てたというのも大きいだろう。大祭司を糵と、地位のあった頃に呼んだことも無かったので、音声にとってはどこまで言っても、ただの傀儡だ。 夜中にも関わらず、大祭司は二人の強盗の裁きを受け入れた。その内の一人が、音声だと分かっていたからだろう。 「訴状は来ている。その瞎は殺人だが、お前はどの名目での処刑がいいかね。」 「あん? 選択肢があるのか?」 音声が挑発するように応えると、またあの手癖の悪い律法学者が殴りかかろうとするので、別の学者がそれを押さえた。話が進まないからだろう。 「一番の罪は、神殿に対する罪だろう。三年前、『バルハヴァ』などと名乗る山賊が、エルサレム神殿に仕える祭司達を侮辱し、商人達を追い出して、過越祭を穢したのだ。」 「ああ、確かにそりゃ俺だ。うちのに手を出す血の気の多い愚民がいたんでな、追い出した。」 大祭司は顔を歪めて問い詰めた。 「『うちの』というのは、お前には家族がいるのか? 奴らも悪事に加担したんだな?」 「うちの家族が罪人だと言うのなら、お前の家族はさしずめ畜生小屋の悪魔憑きだ。」 「言い訳は良い。事実であるならば、お前はその時起きた強盗や姦淫の罪も手引きしたのだ。」 「強盗の濡れ衣はいいが、姦淫の濡れ衣は止めてくれ。俺達は姦淫の末に生まれた孤児の集まりだ。乳を貰えずに死んだ子もいる。」 「おい書記、不敬罪と、強盗と、姦淫だ。姦淫の相手には男と、ついでに犬も入れておけ。是だけあれば国家転覆罪に匹敵できよう。十字架に掛けよ、後続が復讐のためにこの家に押しかけんよう、みせしめるのだ。」 びくりと天眼が震えたが、音声は冷静だった。 「おいおい、そう簡単に十字架刑が一度に二人も三人も出来るのか? 俺ァ頭領だ、余罪があるとすれば家族の罪がそうだわな。だがこの瞎一人にどんな罪が犯せる? 殺してみせたのはまぐれだろうに、たった一人祭司を殺しただけで国家転覆罪か?」 遠回しに音声が天眼の助命を請うたのだと気が付き、天眼は抗議しようとしたが、音声は『黙ってろ。』と、言った。 「祭司を一人殺すより、十二人の羊飼いを殺す事の方が軽いのだ。お前は家長の癖に、そんなこの社会の仕組みも教えなんだ。」 「そりゃ、俺の家族はお前達の社会の仕組みとやらに追い出されたからな。護る義務も伝える義理もない。」 「ならば、そやつらは我々イスラエルを選び給うた神の律法の中に生きていない、畜生と同じよ。畜生に態々、ゴルゴダという死に場所を与えてやろうと言うのだから、感謝して貰いたいくらいだ。」 「おう、高台からお前ら一族が呪われて地獄に堕ちるのを見させてもらうぜ。」 いくら言っても全く怯えるどころか、逆に軽口を叩く有様に、そして一度たりとも自分を大祭司とすら呼ばない事に、彼は大いに腹を立て、書記から訴状を奪い取った。 「義父上曰く、こやつは馬と寝た女から生まれたそうだ。ならば獣のように扱っても死にはすまい。瞎はすぐに駄目になる、身体を強く創られていないからだ。だから貴様が、二人分の刑罰を受けるがいい! 鞭打ち四十回を二人分、十字架の横木は二人合わせて二本担いで行け。瞎の着物はここで剥がせ、どうせ恥らう為の眼も持たぬ獣よ! 獣の子と獣、二人を一つに縛って放り込め! 今日の朝、すぐに総督に裁いてもらえ!!」
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