貰った香料は、袋を開けると忽ち激臭となって辺りに広がった。女達は急いでその香料を天眼の死体に塗り込め、布を取り替えた。しかし、墓穴の問題が解決したわけではない。アテもなく、一行は途方に暮れていた。それに、頭領が未だに死なず、十字架の上にいるのを、真槍が見張っているというのも気になる。しかし、ローマに戻った真槍に近づくことも恐ろしい。生きて降りる事のない十字架の上で苦しむ頭領に、付き添いたいという意見が無い訳ではなかった。寧ろそちらの方が多かった。だがローマ兵に掴まれば、十字架に張り付けられて身動きできない頭領の胸にまで釘を穿つ事になるだろう、と、皆涙を呑んで自粛した。それもあるだろうが、目の前で香料を塗ったとはいえ、腐って面影が無くなっていく天眼の傍を離れようとする者はいなかった。 「………。あ。」 天眼が死んで三日目、激しい地震に目を覚ました時、若頭は自身の頭にも地震が起きた。 「あ、あああああ! いる! いるよ、墓持ってそうなの!」 怯えていた女子供が、バッと顔を上げる。若頭は必死に記憶の蜂の巣を押しつぶしながら、希望の蜜を絞り出す。 「エルサレムに姫さんを探しに行った時、あっしは一度死んだと思われたんだ。それをアニィが蘇らせてくれた。それを奇跡だと言った、アリマタヤから来てる議員だ。あいつなら、アニィが奇跡を起こしたところを見てる。議員なら、墓穴も持っている筈だ!」 「でもそんな奴、まだエルサレムにいるか分からないわ。」 「いいや、あっしは十字架刑の時に、あの議員が真ん中の男を引き取ったのを見たぞ。罪人を入れる為の余分な墓を持ってるってこった。」 「そいつはどこにいるんだ?」 ずっと俯いて、存在感すらなかった柳和が、その時漸く口を開いた。 「議員やってんなら、エルサレムの上町のどこかにいる筈だ。あっしゃァ一っ走り行って来っぜ!」 若頭はそういって飛び出した。 アリマタヤの議員、というだけで、若頭が人探しをするには十分だった。若頭は真槍を襲った時のように、基本的には野盗だが、時に押し入り強盗もする。当然相手は祭司の家だ。祭司の家の構造や、彼等の特殊な対人関係は、少し話を盗み聞くだけで全て想像が出来る。朝に飛び出して、夕方前には、議員の家を特定することが出来た。議員の家は罪人を処刑したからなのか、今日は宴らしい。酔いが回った辺りに部屋に侵入し、墓を貰おう。強盗らしく誰かの墓を荒らして死体をすり替えてもいいのだが、何故か天眼が死んだ日から、墓場に番兵がいて、人の出入りさえ難しいのだ。番兵はいついなくなるのかわからないのだ。いつまでも待っていたら、天眼の死体は動かせない程腐ってしまう。その前に安置させたい。そのような若頭の急いた気持ちとは裏腹に、宴は夜遅くまで続き、満月が少し欠けた月が下りはじめたころ、漸く終わった。しかし議員は寝所には行かず、宴会場で飲み食いをしたまま眠ってしまっていた。ごろりと寝っころがりながら、葡萄酒か何かがこびりついた小汚い銀の皿を大切そうに胸に抱いている。面倒にならないように、初めから灯火を拾い、顔を照らして、議員を蹴り起こした。 「んが…? もう朝か?」 「おいおっさん。一年ぶりだが、あっしのことを覚えてるかい。エルサレムで死から蘇った破落戸よ。」 「………。」 議員は暫くじっと見ていたが、やがて目を輝かせた。 「おお! あの義人の! 覚えていますとも! いやあ、こんな良き日にまた出会えるとは、やはり貴方は神に愛された御方だ。」 しかし、その義人が十字架で死んだことは、分かっていないようだった。若頭はこめかみがひくつくのを堪えながら、本題を持ちかけた。 「なあ、おっさん。確かあの十字架刑の時、真ん中の奴の死体を持ってったよな。てことはおっさん、墓持ってんのか?」 「ああ、そのことかね! いいとも、あの後起こった素晴らしい事について語り合おうじゃないか。さあそこに寝そべって、まだパンがあったはず…。」 「いやいや、そんなんじゃなくてさ。あっしらも墓に入れてやりてぇ、立派な死体があんだけどよ。おっさん、あっしに免じて墓貸してくんねえか? 一年前、奇跡を見た駄賃だと思ってさ。」 真槍、否神槍が居れば、どんな理屈だ、と、窘め、その滅茶苦茶な自分本位の考えを正せただろうが、ここに彼はいない。議員はしかしそんなことはどうでもいいようで、起き上がり、甕やら皿やらを集め始めた。 「貴方でも他の弟子の皆さんと同じような事を仰るのですね。少し安心しました。しかし私達が言う事は同じです。何故生きている方を死者の中に探すのか、と。」 どうも酔いが醒めて無いようだ。 「いや、あっしらが死体を持ってるンでえ。だから墓が必要なのよ。もう三日前の死体だ、これ以上は腐って動かせなくなる。」 「おや、貴方は復活したあの方を、まだご覧になっていないので?」 「復活も何も、まだこの世の終わりは来てねえよ。」 苛々しながら、若頭は答えた。議員はぱっと、抱いていた皿を見せた。遠目には葡萄酒に見えたが、近くで見るとそれは、血で汚れている。 「これがその証拠です! │神と共に居られる御子は蘇られたのです、約束の如く! だから生きておられます、これを讃美せずに何を讃美しましょうか!」 苛々、苛々。いらいらいらいらイライライライラ………。 議員は続けて何か喋っていたが、若頭はとてもじゃないが聞いていられなかった。 「私はこの皿を、高弟十一人の頭になった御方に献上する心算なのですが、その時に血を洗い流すか流さないか、真剣に迷っていまして。」 「嘗めンじゃねぇやァ!!!」 ついに怒髪天を突き、若頭は議員の持っていた皿を奪い取り、それを頭に叩きつけた。銀の皿は凹まなかったが、傷はついたかもしれない。突然の強盗の気配に、客人達が飛び起きる。 「てめぇが魔術師をどう拝んでようと知ったことかい! あっしゃァ正しい人の死体を入れる墓が欲しいんでぇ! 何も新しい真っ新な墓じゃなくたっていい。今エルサレムの墓場には番兵が居て、墓荒らしも出来ねえんだ! てめぇが持ってる墓に連れてってくンなきゃ、アニィが腐っちまう!!!」 「なんだ、なんだお前は! 強盗か!」 「強盗だ強盗だ! 人を呼べ!」 若頭は涙目になりながら、議員が全く話を取り合わない事に腹を立て、灯火を投げつける。誰かがその灯火を踏みけし、別の灯火を用意する。人が集まってきて、若頭は泣き叫ぶように怒鳴った。 「墓を寄越せ!! 墓が必要なんだよ!!」 「皆さん、おやめになって!!」 その時、若頭の知った声が、懐かしい声が部屋に響いた。騒ぎを聞きつけた女達の一人だった。若頭は自分がどんな顔をしているのかも気にせず、振り向いた。 瑠璃妃だった。 若頭は頭が真っ白になり、呆然とした。何か言わなければ、と思うのに、何も言葉が出ず、ぱくぱくと口だけが動く。 「すみません、この人は悪い強盗ではないんです。ちょっと口下手で人よりあまり思慮深くないから…。彼の言い分を私が聞きますので、どうか他の方は出てください。この方はわたくしを傷つけませんし、殺しませんから。」 「瑠璃殿がそうおっしゃられるのなら…。ですが、扉の向こうに居ますので、何かあったらすぐ声を上げるのですよ!」 議員も出て行こうとしたので、流石に若頭は呼び止めた。議員の眼は、もうどちらかというと軽蔑に近かったが、それで怯む若頭ではない。だが瑠璃妃は、交渉が出来るように、やんわりと議員に頼んでくれた。広い宴会場に、瑠璃妃と、議員と、若頭だけが座る。 「お墓、ということでしたけど、どうしましたの?」 「………。アニィが、ベン・ヒンノムの谷に棄てられないように、死体を持って来たのはいいんだけど…。香油も何もなかったから、腐るのが早いんだ。そろそろ墓に入れねえと、腐って崩れてぐちゃぐちゃになっちまう。」 「どうしてこの議員さんのお墓が欲しいのですか?」 「一年前、アニィがエルサレムで奇跡を起こした時、このおっさんが居合わせたんだ。アニィがあっしを蘇らせたって、このおっさんがあっしに教えてくれたんだ。だからアニィがベン・ヒンノムの谷に棄てられなくて良い事を知ってる。」 すると瑠璃妃は難しい顔をした。 「………。天眼様の事を仰ってるのね?」 「そう。」 「でもね、若頭さん、それは在り得ないのよ。天眼様が死者を生き返らせたなんて…。在り得ない。」 「なんで? アニィが正しい人だった事も、大王の子孫のことも知ってんだろ? 父親がじゃない、正真正銘、アニィを産んだおっかさんが大王の子孫だったんだ。それに、あの眼の力だってある。あの人は水を湧き出させたり、怪我人を治したり、病気の子供を助けたりだってしたんだぜ。」 「ええ、そうなのだけど…。その、その力はね、あの御方にしかない筈…いえ、ないと、わたくし達は信じてるの。」 「何で? 妃さんも何度も見ただろ? あっしァ嘘言ってねえだろ?」 「勿論よ。天眼様の素晴らしさも、頭領の度量の深さも、わたくしは覚えています。でも、その、本物ではないの。」 「ほんもの?」 実際に見聞きしたものに、偽物も本物もあるだろうか。 「今回、三人が十字架上で亡くなったけど、あの方たちの罪状書きを読みました?」 「遠くてよく見えなかったし、難しい言葉が書いてあったからよく覚えてねえ。」 「罪状書きには無かったのですけど、主訴…訴えの上では、三人とも『瀆神の魔術師』として処刑されたのです。それはご存知?」 「とくしん???」 「つまり、神を冒涜したということです。」 「ああ、それなら知ってる。あっしが解放される時にも有象無象が怒鳴ってたの聞いた。」 「でも実際はそうではなかったのです。」 まあそうだろうな、と、若頭は頷いた。 「中央の十字架にかかった方こそが、私達が待ち望んでいた預言の王だったことが分かったのです。その根拠に、今朝、その人は蘭姫たちの前に現れて、ここにも表れて、霊ではない証拠に身体の傷を見せて触らせたのです。」 「姫さんがここにいるのか!?」 思わず前のめりになった若頭を制して、瑠璃妃は続けた。 「蘭姫は、あの別れた後に、大勢の前で姦通の女として裁かれそうになったのを、この王―――│,神と共に居られる御子に助けられて、それから私も一緒に付き従っています。この方は、神から来られた唯一の方なので、私達は唯一の方であるあの方に慰められ、助けられます。」 「…??? 妃さん、あっしゃそんなに難しい事が聞きたいんじゃねえ。墓が欲しいって話でさ。番兵がいるから、この議員のおっさんにいてもらわねえとなんねえんだ。」 瑠璃妃は難しい顔をして、おずおずと、しかし堂々と答えた。 「…主以外の方を、崇拝する行為に加担することは出来ません。」 それは、決定的な決別の言葉だった。だが若頭は、『崇拝』の意味が分からなかったので、一縷の望みをかけて、口を開いた。 「すうはいって…そりゃ、そんけいとは違うのか? あっしらは、アニィが…死体捨て場には相応しくないから、大好きだから、いつでも優しくて助けてくれたから、だからちゃんとした墓に入って欲しいだけだ。別に議員の墓に拘ってる訳じゃねえ。ただあっしが、墓を持ってそうな奴を、こいつしか知らなかったってだけでさ。なんでそんな…。そんな………。」 そんな、××い事を。 その言葉がどうしても言えなかった。言って、肯定されたら、この場で暴れないでいる自信が無い。怒りよりも絶望よりも、理不尽に泣き出したい気持ちをなんとか押さえながら、若頭は尚も瑠璃妃に語りかけた。 「…でも、真っ新なお墓じゃなくていいのなら、主がお使いになってたあのお墓、今誰も入っていない筈だから、そこを使いますか?」 「いや、瑠璃殿。それはお断りする。」 それまで黙っていた議員が、口を開いた。瑠璃妃の手前、若頭が手を挙げないと確信したのだろう。 「主の御遺体を墓に納めたのだ。その墓は聖墳墓となるべきで、主以外の御方を納めるのは、聖所が穢れます。況して相手は魔術師なのでしょう?」 それは流石に黙っていられず、若頭は立ち上がって議員の口を手でふさぎ、もう一度銀の皿で殴りつけようとした。瑠璃妃がなんとかそれを押しとどめ、説得する。 「でもね、死に関する権威は、主しか持っておられないの。もし天眼様が死んだ貴方を生き返らせたのなら、その力は神から来ている筈ですわ。」 「そらそうだ! アニィは悪魔崇拝なんかしてねえ!」 「ええ、きっと天眼様はそんなつもりはなかったと思うわ。でも、悪魔は狡猾よ。どんなところに潜んでいるか分からない。だから―――最愛の弟が死んでるのを見て、天眼様がその時だけ、悪魔の力を借りたのかもしれない。その罪を、主はきっと赦してくださったけど、でも天眼様はもうおなくなりになったから…。」 「無くなってなんかねえ! アニィの全部ぜんぶ、残ってらァ! それをきちんと墓に納めて、頭領の言ってた日に備えてェんが―――そんなに、悪いことなもんかァッ!!」 これ以上聞いていられず、若頭は窓から飛び出した。 瑠璃妃と頭領の関係を、若頭は知らない。彼女が天眼を拒否することが、転じて生涯で唯一人愛した夫であり、産んだ娘の父の信仰を否定する苦しみを伴っていることなど、知る由もない。ただ若頭はその時、ただ悲しいという事だけに満たされて、怒りも何もなかった。 あんなに天眼を、頭領を慕っていた人が、誰かに盗られた。そして、否定されて、拒絶され、嘲笑う者共の傍にいる。それが悲しくて悲しくて堪らない。若頭は何も出来ず、ゲッセマネに戻った。 この国には、もう、天眼と頭領の人柄を理解してくれる者はいない。 全て別の『魔術師』の前にかすんでしまった。 彼等は結局四日目になると、とうとう腐敗し人の形を喪い、悪魔のようになっていく姿に耐えられなくなった。それでも若頭が抵抗したが、五日目になると、小屋から出されてしまった。六日目になると、虫どころか獣まで寄って来た。狼が来るかもしれない、と、皆が怯えるので、若頭は仕方なく、ばらけかけた死体をしっかりと結び、ベン・ヒンノムの谷まで歩いた。ところがあまりにも不安定な死体だった為、何度も崩れ落ちる身体を直しながら歩いたので、七日目に若頭は谷の近くで倒れてしまった。若頭が目を覚ましたのは八日目で、その一日の間に、誰が処理したのか、背中に背負っていた筈の天眼の死体は無くなり、すぐ傍の谷に、真新しい死体を啄む鴉達が群を成していた。若頭は絶叫し、そのままゲッセマネは勿論、塒にも帰らなかった。 この国に、自分の家はない。
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