Head or Tail ~Akashic Tennis Players~
第16話 反撃の咆哮

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<非撹拌事象に於ける叡智の結晶リザスタルウィズデムの申請を受理> 聖の意識、が虚空のアカシック・記憶レコードと繋がり、気付くと無数の書架が広がる空間に立っていた。聖の認識が追いつくと同時に1つの書架を残してその他が闇に消え、アンティーク調のテーブルと椅子が現れる。テーブルには一冊の本が置かれていた。聖は薄暗いワインレッドの装丁をしたその本に手を伸ばし、表紙を開く。 ・Andre Kirk Agassiアンドレ・アガシDiego Sebastiánディエゴ・ Schwartzmanシュワルツマン ぼんやりと光り輝く文字で2つの名が連なっている。 聖は指でシュワルツマンの名前をなぞった。名前の文字が輝きを放ち、周囲の風景が一瞬で消散していく。聖の認識が追いつかない速度で、脳裏に見知らぬ誰かの記憶が明滅する。恵まれた強靭な肉体を持つ圧倒的強者達が集う世界の頂点へ、その小柄な体躯で挑み続けた男の記憶。 南米はアルゼンチンで起こった金融危機の余波で生家の事業が破綻し、苦しい経済状況の中それでも少年は腕を磨いた。『君にプロは無理だよ』13歳の時、医師から自分の身長がこれ以上伸びないと宣告され一度はプロを諦めた。だが、家族を始めとした様々な人達が彼の夢を支え続け、遂にはプロとなった。己の肉体を極限まで研ぎ澄まし、不撓不屈の精神で数々の難敵を打ち破ってきた。 伝説の3日間を勝利した、戦端を蹴散らす者ビッグ・サーバー 英国77年の悲願を果たし、怪我を乗り越えた聖地のブリティッシュ・英雄ヒーロー 国の期待を背負い、多彩な技と自由な発想で戦う極東の島国から来た天才ラスト・サムライ 当世最強と謳われた偉大な4人ビッグ・フォーの1人にして、史上最強の赤土の王レッドクレー・キング その矮躯わいくに誰よりも大きな意志と勇気を宿し、例え自らが不利になる事であろうとフェアプレイの精神を忘れることなく、正々堂々と振舞ったその選手に敬意を込めて、人々は彼をこう呼ぶ。 ――アルゼンチンの小さな巨人リトル・ジャイアント 周りの風景が現実に戻ると、一時停止されていた動画が再び再生するように正常な世界へと認識のピントが合う。聖は身体の内側に力強い"何か"をまとったのを感じている。心なしか、以前使用した時よりも身体に馴染むような感覚がある。 シュワルツマンの身長は聖よりも低い。肉体強度によって能力のリサイズ率が変わる為、少しでも失徳の業カルマバープを軽減するために彼の能力を選んだ。素早く正確なフットワークは陸上競技経験者の聖と相性が良く、高い返球能力は蓮司の攻撃を凌ぐために有効と思えた。 <相手の陰キャチビはまだ本気じゃねェぞ。オメーが情けないせいで5割かそれ以下のプレーで相手してやがる。まずは本気になって貰わねェとな?> アドがボクシングのセコンドよろしく、口汚い言葉で聖に発破をかける。 「分かってる。反撃開始だ」 小さな巨人リトル・ジャイアントの加護を受け、戦意を新たに聖は相手を睨みつけた。 ★ ガッカリだ。 何に?若槻聖アイツに、そしてナメられてしまう自分自身に。 6先ノーアドというルールであったとはいえ、あの黒鉄徹磨を倒した相手と試合出来ることに蓮司は少なからず期待していた。数日前に目の当たりにした聖のプレーは目を見張るものがあった。あれほどの実力を持つ相手に、自分の力がどこまで通用するのかを試せる。徹磨の敵討ちとしてよりもむしろ本当はそちらの方が蓮司のモチベーションだった。当然、負ける気などさらさらない。 蓮司は聖が徹磨を倒せたのは一般人が試合ごっこする時に用いられる簡易ルールが最も大きな要因だったと考えている。あんなもので勝敗をつけ、あまつさえどちらの方が強いかなど計りようがない。デュースも無ければタイブレークも無い、そんなルールでしかも1セットのみ。世界のトッププロでさえ、初見の相手や大会の初戦では第1セットを格下に先行されることはままあるのだ。だがその劣勢を跳ね返す策や、それを成す為の布石を序盤に敷き詰めて最終的には実力で勝利を捥ぎ獲れる、それが本当の強者でありテニスという競技の戦い方だ。 6先ノーアドのルールで1セットなど遊びでしかない、と蓮司は思う。そのルールなら、自分だって徹磨からセットを奪うチャンスはある。だからヤツとの実力にそこまでの差はない。そう蓮司は考えていた。だから今日も可能なら正式ルールがよかった。だが、今日の試合は5月の連休に参加する団体戦メンバー選出が目的だ。出場する試合に合わせたルールで調整しろと、まとめ役の先輩から言われてしまえば従うより他ない。だから渋々ではあるが蓮司は今回のルールに納得し、だからこそ全力で叩き潰すつもりで臨んだ。 なのに、やつは明らかに、この試合で手を抜いている。 初めは調子が出ないだけか、何かしら理由があるのかと思った。しかし徹磨戦で見せたような超攻撃的なライジングや、常に相手の裏をかくようなサーブの配球は影も形も見られず、ただただ蓮司のボールを返すだけで良いようにやられっぱなしだった。 ――オマエ相手に本気なんか出してられるかよ 蓮司は半ば被害妄想的に、聖がそう思っているのだと感じた。 カウントは既に4-0で蓮司がリードしている。次は相手のサーブだが、このまま相手が本気を出さずにいるというなら、こんな時間は何の意味も無い。トレーニングをするなり、他のメンバーと試合をした方が遥かに有意義な時間を過ごせる。 とっとと終わらせる。 怒鳴ったせいか頭に昇った血は幾分が下がった。冷静さを取り戻した蓮司は、若干やる気を失いながらも戦意だけは損なわない。サーブのポジションについた対戦相手の聖をよく観察し、意識せずとも相手が打とうとするサーブのコースを分析、予測する。 トスが上がった瞬間、違和感に気付く。 さっきまでと違う――!? 急に襲った違和感が一体何なのか、考えるよりも早く集中力を高める。 さながら思い切りアクセルをベタ踏みして急発進するように、放たれるサーブに全神経を集中させた。 ボールがバウンドするまでの間に、視界の端で捉えた聖の様子がこれまでと全く異なっているのを蓮司は感じた。構え方、サーブのフォーム、トスの上げ方、スイングスピード、体重移動のバランス、そして打球音。先ほどまでの面影は多少あるものの、ほぼ別人のような挙動でサーブを打ってきた。 鋭く反応した蓮司は自分の位置からは最も遠い場所でバウンドしたボールに辛うじて食らいつく。なんとか体勢を崩すことなくリターンに成功し、聖の3球目に備えベースラインよりもやや後方に陣取る。利き手フォア側へと回り込んだ聖は逆クロスにボールを打ち流す。それを受けて蓮司は片手バックのスライスで来た方向へ切り返す。蓮司の打ったスライスは低く伸び、サイドライン手前でバウンドした後も失速せず滑るように伸びていく。バウンド後の失速率が低いボールほど、軌道との誤差から返球時本来のインパクトを外し易い。だが聖は難なく正確に芯で捉え、クロス方向へフラット気味に押し返す。 ――明らかに違う。さっきまでと 聖の打つボールの速度だけでなくフォームや身体の動きからそれを感じた蓮司は、危機感よりも期待感の方が強く湧き上がるのを自覚した。知らず、蓮司は牙を剝くように口角が吊り上がる。 ――ようやく、本気になったな 急激に戦意で血が沸き立つのを感じながら、蓮司はボールを打ち返す。ラリーはしばらく続き、エースを狙うように打った聖のボールがネットしてポイントが終わった。この試合ここまでで一番長いラリー戦となった為、ポイント後は聖も蓮司も同じように息を切らしたが、蓮司の方が先に呼吸を整え終わり聖を睨みつけた。未だ呼吸が乱れている聖は、その視線に威圧感を覚え、思わず奥歯を噛み締める。 ――最初から本気で来いっつーの。ナメた真似しやがって! 蓮司の中にある闘志がみるみるうちに燃え盛り、全身に力が漲ってくる。どういうつもりで今まで手を抜いていたのか知らないが、もはやそんなことはどうでも良い。理由はどうあれ全力で掛かってくるなら望むところだ。 程なくして息を整えたらしい聖がサーブのポジションにつく。その所作はどこか自信に満ち溢れ、やはり先ほどまでとは異なる印象を受ける。自分のミスでファーストポイントを失った後であるにも関わらず、その事について気にしている様子はない。 「ヘッ」 蓮司は小さく鼻を鳴らしポジションにつく。長いラリー戦を制するべく激しく走り回って乱れた呼吸は整ったが、心臓の鼓動はエンジンンのアイドリングのように耳の奥で脈動している。構えて動きを止めると、自身の体温が急上昇してくるを感じた。じわり、じわりと内側から熱が汗と共に放散され、ウェアを湿らせる。陽が傾き始めたことで幾分か気温も下がり、冷えた外気に晒された汗が蒸気となって立ち昇り始める。その様は、蓮司の中にある獰猛な戦意オーラのように見えた。 ――叩き潰してやる 小柄な蓮司が低く構えたにも関わらず、その姿は大きな威圧感を聖に与えた。 ★ 「お?なんか雲行き変わったぜ」 両頬にクッキリと真っ赤な手形の跡をつけた守治さねはるが、タブレットで聖と蓮司の試合を見ている。 後輩の女の子から存分に構ってもらった守治はどこか上機嫌だが、女子2人は黙々と勉強をしている。 「ねぇスズちゃん見ない?期待のルーキーが頑張ってるよ?」 話しかけられた鈴奈は、一瞬たりとも問題集から目を離さない。 「ねぇミヤちゃんうちのエースがピンチかもよ?」 暗記シートと睨めっこしているミヤビは忙しなく目だけを動かしている。徹底的な無視を食らっているものの、守治が怯む様子は無い。むしろその表情には段々と悪ノリの色を帯びてくる。さながら「コイツラ果たしてどこまで無視出来るか試してやるか」と言わんばかりだ。もっとも、仮に彼女たちの無視出来るラインを越えようものなら今度は両頬ビンタでは済むはずがないのだが、それはそれで守治は大歓迎だ。 さぁてどうしてくれようかと考えあぐねていた守治だったが、画面に映った蓮司のプレーを見て異変を察知した。 「レンのやつ、また悪いクセが出てるな」 急にチャラついた雰囲気から真剣さを帯びた守治の声色に、ミヤビの動きがはたと止まる。守治は画面を見ながら蓮司の様子を観察する。先ほどまでは程よくリラックスしたフォームだったが、一転して強打を中心に展開しているようだ。 「肘のサポーターつけてねーじゃん。ミヤ、持ってってやれよ」 そう言って守治はカバンからサポーターを取出し、ミヤビに投げて寄越す。受け取ったミヤビは少し迷ったものの、上着を羽織ると慌てた様子で自習室から出て行った。 「ったく、あの二人早いとこくっ付きゃ良いのに」 ミヤビの出て行った入口を眺めながら、出来の悪い妹を心配する兄のような口ぶりで呟く守治。その様子を鈴奈は頬杖をつきながら憮然とした表情で見つめている。なにカッコつけてんだコイツ、とでも言いたげだ。鈴奈の視線に気付いた守治は、前髪を指で気障ったらしくかき上げながら、わざと足音を立てながら鈴奈の傍に寄った。テーブルに手をつくと、小首を傾げながら幼い顔つきの鈴奈に顔を近付ける。 「さ、邪魔者はいなくなったぜ?」 鈴奈は顔を赤らめ、恥じらいながら視線を外す。しかしすぐ上目遣いで守治と視線を交わすと、ためらいがちに顎を上げる。しばらく見つめ合う二人。自分の顔が相手の瞳に映っているのが分かるくらいの距離で、堪らず鈴奈がか細い声で呟く。 「目、閉じて」 守治は鈴奈の表情を瞳に焼き付けるように、ゆっくりと瞼を閉じる。 「隙あり」 ゴツン!と鈍い音が響き、守治が銃で頭を打ち抜かれたように倒れた。その額から煙のように湯気が上がる。鈴奈の額もほんのり赤く染まっており、同じように湯気が上がっている。一言も発しないまま昏倒している守治を椅子に腰かけたまま冷たい視線で見下ろす鈴奈が、やけに低い声で言い放つ。 「早く彼女作んなさい」 そう言って守治への一切の興味を失うと、自分の勉強を再開した。 ★ ミヤビが守治から渡されたサポーターを手にコートへ辿り着くと、丁度2人ともベンチに座っていた。 「蓮司!」 急いでコートへ入り、ミヤビは蓮司の元へ駆け寄る。試合に集中していたせいか、やけに険しい顔つきになっていた蓮司だったが、ミヤビの姿を確認すると驚きと共に表情が緩む。思わずミヤビの名を呼びそうになったものの、視界に聖の姿があるのに気付いて思わず飲み込んだ。 「ちょっと、なんでサポーターしてないの?」 息を切らして制服姿のまま入ってくるミヤビは、忘れ物を届けに追ってきた姉のようだ。蓮司にサポーターを差し出し、無理やり受け取らせる。まったくもう、などと小言を口にしている様子はますます蓮司の姉染みている。それを見ていた聖はなんとなくハルナのことを思い出す。 「ていうか、またムチャなプレーしてるでしょ。怪我が治ったからって油断しちゃダメ。ラケット、見せて」 「あ」 ミヤビはベンチに立てかけてあった蓮司のラケットを手に取った。蓮司はマズイものが見つかったと言わんばかりの表情を浮かべたまま固まってしまう。昨晩、今日の対戦に備えてラケットスペックを元に戻しておいたのだ。 「もう、やっぱりバランサー重りつけてる!」 テニスでは、ラケットの長さについて制限はあっても重さについての制限は無い。選手は各々のプレーを最適化させるために、数g単位でラケット自体の重さを調節する。蓮司は自分の身体が小さいハンデを、ラケット自体の重さを上げることでスイングパワーを得ようとしていた。だが、それはつまり身体にかかる負担を増大させてしまうことにも繋がる。 無駄遣いしていたのがバレた子供みたいにバツの悪そうな蓮司と、子供の悪戯を咎める母親みたいな様子のミヤビ。ミヤビとしては、本当なら今すぐにでもバランサーを外して蓮司の身体に負担のかからない重さのラケットでプレーをさせたかった。だが、既に試合が始まりそれも中盤を越えようという段階だ。こんなタイミングでラケットのスペックを変えられたら選手としては堪ったものではない。ミヤビは諦めるように溜息を吐く。 「肘は?痛くないの?」 ラケットを蓮司に返しながら、その腕をそっと掴んで撫でる。 自分より小さいくせに、いつも無理ばかりする。 「大丈夫、サポーターありがと」 ミヤビから受け取ったサポーターを装着し、具合を確かめる蓮司。タオルで顔の汗を拭うと、ベンチに置いてあった自分の上着をミヤビに押し付ける。 「ん」 ミヤビとしてはここまで走ってきたので、さほど寒くはない。汗をかいた訳でもないから必要ないのだが、ぶっきらぼうに上着を差し出した蓮司が可愛く思えて有難く受け取る。サポーターのお礼が言えただけでも、よしとしてやろうと思った。 「待たせたな」 蓮司は聖に声をかけると、審判台に備え付けられている電子スコアボードを操作する。表示板にはデジタル文字で「4-3」という数字が浮かんだ。 「4-3?」 ミヤビはその数字に目を見開く。確か、さきほど鈴奈が見ていた時は蓮司から見て4-0だった。つまりミヤビがコートに到着するまでの僅かな間に、聖が3ゲームを連取したことになる。いくら聖が強いとはいえ、こうも短時間で蓮司が連取されるとは。なんとなく不安を胸に抱きながら、ミヤビはベンチに腰掛ける。何にせよ、今ミヤビが出来るのは試合の行く末を見守ることだけだ。ミヤビは蓮司が聖に対してライバル心を持っているのは既に承知している。今は余計なことは言わず、とにかく蓮司が無理しないように注意しながら、一先ず静観することに決めた。 ★ ゲームカウントは聖から見て3-4。第8ゲームは蓮司のサービスゲーム。 <あーあー!!見ーせつけてくれちゃってよォ!肘は痛くないの?(裏声)だって。っかー!姐さん女房気取りかよ羨ましいなァクソがあんな美人によォ!許せねェ!オレが許可してやるからフェデラー使って1ポイントも与えずにボコボコにしちまえ!!> 「可能ならまず僕はお前をボコボコにしたいんだけど」 アドの軽口に辛辣な返事をする聖。 能力を発動した最初のポイントの時点で、蓮司は聖の様子が急変したことに気付いたようだ。能力のお陰で先の4ゲームのように一方的な展開にはならなかったものの、ゲームを3連取出来たのはほぼ偶然に近い。 序盤まで、聖のプレーが蓮司に対してまるで釣り合っていなかったことを差し引いても、蓮司はそこまで強引なエースを狙いにきたりはしなかった。だが、能力を使用した途端、かなり強引に自分から不触の一撃ノータッチエースを狙うようになってきた。 幸いなことに、そうした蓮司のプレーはシュワルツマンの能力と相性が良く、ひたすらフットワークを駆使して返球しているうちに、蓮司が先にミスをするような展開となった。サーブの質も少なからず向上したことが影響し、危ない場面はあったが辛うじてキープすることが出来た。 蓮司のサービスゲームをブレイク出来たのも、まるでダブルファーストのようなサーブを続けて放ってきた結果、蓮司がダブルフォルトをした為だ。聖からは特に仕掛けたつもりは無い。能力の出力が制限されているとはいえ、このままの流れが続けば逆転の目は出てくる。 だが、既に非撹拌事象による能力の発動から10分近くが経とうとしている。確かにこのまま粘れば勝てるかもしれないが、ここから逆転して勝つにはどんなに早くてもあと20分近く、あるいはもっとかかりそうな気配だ。 (いや、今は代償のことは考えるな) この試合、聖が勝っても功徳の業カルマグレース以外に得られるものは無い。むしろ能力を使ったことによって発生する代償の方が大きい可能性が高い。だが、そういう損得勘定を排除し、聖は自分のすべき振舞いに徹しようと決めた。 別に、練習だから負けたっていい。 そんな姿勢で試合に臨むのは、練習であろうと真剣勝負に対する冒涜だ。そう思ったからこそ、覚悟を決め勝つ為にリスクを負って能力を発動させた。逆転までに時間がかかるのは、さっさと腹をくくれなかった自業自得。そのことは聖も納得しているつもりだが、思うように突き放せないことへの焦りから少しずつ決心が揺らぎ始める。内心に僅かな焦燥感を覚えながらも、聖はリターンのポジションにつく。今の僕にやれるだけのことをやる、そう心の中で呟きながら。 ★ しかし、展開は聖の決意を余所に蓮司に傾いた。 先ほどまで強打を連発してきた蓮司だったが、今度は打って変わって堅実なプレーをするようになった。無闇やたらな攻撃はせず、確実に有利な状況を作ってからリスクを負わないショットで聖を追い詰める。コース、球種、タイミング、複数の要素を組み合わせて徹底的に主導権を握り続ける。 蓮司は小柄ながらも、全方位万能型オールラウンダーのプレイスタイルを高い水準で自分のものにしていた。恐らくは、これこそが蓮司の最も得意とする戦い方なのだ。こうなると、叡智の結晶リザスタルウィズデムを使っているとはいえ能力に制限のある聖は厳しい。一撃でやられるリスクはあるが、先ほどまでの強打主体の攻撃の方がまだ戦い易かった。 1ポイントの時間が長くなったものの、蓮司はこのゲームをラブ・ゲームでキープした。 これでゲームカウントは聖から見て3-5となった。もう後が無い。 <勝利の女神様は、残念ながらアイツにだけチュウするみてェだな> アドが軽口をたたく。ベンチに座っているミヤビは真剣な面持ちで試合を見ている。先ほどまでは蓮司の姉のようであったり母親のようであったりと、ただの先輩後輩の関係とは思えない親密さだった。蓮司にとって彼女が何かしら特別な存在であることはすぐに分かった。 数年ぶりにATCを訪れた時、偶然から顔見知りとなった雪咲雅。人当たりが良く彼女とはすぐに打ち解けられたし、ハルナと同い年ということもあってどこか彼女にハルナの面影を見た。もしハルナに自分の決意を宣言せず、時間が止まったまま別れたままミヤビに出会っていたら、聖は彼女に強く惹かれていたかもしれないと思う。 チラリとミヤビに視線を向ける聖。 ハルナとは似ていないのに、何故か面影を感じる。2人は魂の在り方が似ているのだろうか?虚空のアカシック・記憶レコードなどという超常的なものに関わっているせいか、ふとそんなことを考えてしまう。 <だが、こっちは生憎と全知全能だ。勝利も敗北も酸いも甘いも、遍く全てを網羅した宇宙の意志だ。その加護を受けるおめェが相手なんだから、勝利の女神の一人や二人連れてこねェと張り合いがねェぜ> 「アド、そろそろ黙っ」 <撹拌事象ショータイムだ。イチャついてるバカップルに制裁のお時間だぜ> え、と驚く間もなく、世界の時が止まる。 一瞬のうちに色が消え、音を失い、あらゆる外界の情報が滅した。 先ほど能力を使用すると決めた時と同じように、聖は書架にいる。 風景は変わらず、アンティーク調のテーブルの上に先ほど開いた本が置かれたまま。違うのは、一つだけある書棚の一冊が輝きを放っていること。聖はその本を取り出し、テーブルに置いて表紙をめくる。 ――Lleyton Glynn Hewitt―― レイトン・グリン・ヒューイット。 かつて、史上最年少で男子世界ランキング1位に辿り着いたオーストラリアの選手ファイター。誰よりも闘志に満ち溢れ、堅忍不抜の精神でもって逆境を跳ね返す。優れた守備力、1秒先を見通す圧倒的精度の予測力をもって、誰もが諦める必殺の一撃に喰らい付き逆襲の一打カウンターショットを叩き込む。その反撃の咆哮は、観る者の闘争心に火を点ける。テニスにおける一つの時代に終止符を打った、最速の反撃の名手カウンターパンチャー。 <本番はここからペイ・バック・タイムだ、撹拌者スターリンガー> 身体の最も奥底から、マグマのように熱い何かが沸き上がる。 魂の色が朱く染まるような感覚。武者震いで身体が戦慄わななき、血液の温度が急上昇するのを感じる。熱して溶かされ赫々かっかくと燃え滾る鉄が全身の血管に流れているような錯覚さえ覚えた。 ★ 送られてきたボールを受け取ると、聖はその内に宿す猛烈な闘志をおくびにも出すことなく、サーブを打った。そのフォームがまたも大幅に変わっていることに、蓮司とミヤビが同時に気付く。 変わったのはフォームだけではない。サーブの威力も先ほどまでとは大きく変わった。しかし蓮司は動じることなく、冷静に反応してリターンする。リズムが変わったことでやや当たり損ねたが、それが幸いして聖を大きく外に追い出す形となる。 そのチャンスに乗じて、蓮司はコートの内側へポジションを移す。聖が俊敏なフットワークで蓮司のリターンを返すが、蓮司は聖が守備範囲のリカバーをする暇を与えないタイミングで、がら空きのオープンコートへ打ち流した。 ――だが 大きく外へ追い出されたハズの聖は、猛然たる走力でボールを追い駆ける。それどころか、走るのを止めず一気に駆け抜けながらそのまま打ち抜いてきた。ボールは蓮司の脇を通り、サイドライン手前数センチでバウンドしてそのまま後ろへ抜けて転がった。 鮮やかな迅速なる駆打ランニングショット。 「カモォォォンッ!!」 ポイントを決めた聖は、拳を握り締め咆哮した。 必殺の一撃を返されたこと以上に、蓮司はその聖の変貌ぶりに驚きを隠せなかった。観戦していたミヤビも、大人しそうで優し気な雰囲気のある聖が、好戦的を通り越して挑発的にその闘志を爆発させたことに目を見張った。あの子はこんな激しい気性だっただろうか? コートを蹴り上げ猛烈な速度で駆け抜けた聖のシューズからは、摩擦熱によって幽かな煙が上がっている。逆境に怯むことなく立ち向かう闘志が見せる、反撃の狼煙のようだった。 続く

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