試合を終えコートからメンバーの元へ向かうミヤビと蓮司の様子を、聖はフェンス越しに眺めていた。ミヤビは口元を引き締め無表情を保ち、隣を歩く蓮司は長い前髪が目元にかかり表情は見えない。一見すると普段と変わらない足取りだが、聖には2人が降り積もった雪を蹴散らしながら強引に進むような雰囲気を感じた。敗北の報告という重い荷物を、彼らが背負っているように見えたからかもしれない。 戻ってきた2人に声をかけようとした聖だったが、なんと言ったものかと言い淀む。お疲れさま、惜しかったな、気にするなよ、どれもピンとこない。何か気の利いたセリフは無いものかと逡巡していると、背後から鈴奈が聖の両肩を掴んで飛び乗ってきた。後頭部に、何か柔らかいものが当たる。 「おつ~! 2人ともよくやった! あとはひじりんに任せよ~ぅ!」 明るい調子で、にししと笑う鈴奈。飛び掛かられた聖は咄嗟にバランスを取ろうと、よたついてしまう。何とか体勢を保ててほっとすると同時に、この頭にあたる感触はなんだという疑問が湧いてくる。 「オラ、降りろ」 聖に飛び乗った鈴奈の首根っこを掴んだ奏芽が、彼女をポイっと引っぺがす。 「なぁにが任せよ~ぅ、だ、オメーも試合だろが」 先輩に対する扱いにしては随分と雑だが、鈴奈は気にも留めずにヘッヘッヘ、悪戯っぽい笑みを浮かべている。 「あたしがバンビに勝てるわけないじゃん?」 「いや勝つ気でやれよ」 鈴奈があっけらかんと言ってのけ、すかさず奏芽がツッコミを入れる。 「ま、あと1つで勝ちじゃん! えっと、囲碁で王手って何ていうの?」 「あぁ? 囲碁に王手はねぇよ」 「神の一手はあるのに?」 敗北して戻ってきた2人を余所に始まったくだらないやり取りで、場の雰囲気がいつものようにゆるんでいく。ふと周りが明るくなるのを感じて、聖は空を見上げる。雲の切れ間から陽が差して、再び五月晴れの青空が顔を出した。ちらりとミヤビに視線を向けると、じゃれるチームメイトを見ながら苦笑いを浮かべている。聖と目が合うと少し恥ずかしそうに視線を逸らし、覚悟を決めるようにふーっと息を吐き出してから、ミヤビが口を開いた。 「すいません、あと1勝、お願いします!」 素早く頭を下げると、ミヤビは蓮司の方を振り返る。一瞬戸惑った様子の蓮司だったが、少々バツの悪い表情を浮かべながら渋々とミヤビに倣う。顔を上げると、聖に視線を向けて微かに頷く。「頼んだ」と、言われたような気がして、聖も同じように頷き返した。 今日は団体戦で、決着はまだついていない。よもや蓮司とミヤビのペアが負けるとは思いもしなかったが、勝負事に絶対はない。聖か鈴奈、どちらかが勝てば優勝が決まるわけだが、オーダーを決めた段階では、対戦相手となるバンビとの実力差を客観的に分析した鈴奈は自らを捨て石と言い切っていた。となれば、聖の勝敗がチームの命運を分けることになる。 腹を括りラケットバックを持ち上げる。 「よし、いってきます!」 荷物と共にチームメイトの期待を背負いながら、聖はコートへ向かった。 ★ <よォ〜やく主役のお出ましだなァ? 出番無さ過ぎて死ぬかと思ったぜ> (たかが1時間ちょっとじゃないか) <オレ様の体感的にゃあ1か月半ぐらいだナ。年も明けたワ> (あ、そ) アドの意味不明な軽口は今に始まった事ではないし、まともに相手にするだけ時間の無駄なので聖はさらっと無視する。試合を観戦しながら身体が固まらないようにちょくちょくとほぐしておいたので、準備運動は必要ない。すぐにでも動けそうだ。 コートへ入ると、対戦相手の西野が不敵な笑みを浮かべ腕組みしながらネットの前で待っていた。ダークブルーの長袖インナーシャツの上から白いタンクトップを着て、茶色いコルセットのようなものを腹に巻いている。腰の調子でも悪いのだろうか? 「クックック、ようやくオレの出番ってワケだな」 なにやら芝居のかかった口調でつぶやく西野。 「悪いが、女子の方はバンビが勝つ。ということは、オレとオマエの試合で優勝が決まるってワケだ。勝った方のチームが優勝する、実にシンプルだな」 プレッシャーを与えたいのか、西野は低い声で威圧する。確かに自分の試合にチームとしての勝敗がかかっていると意識すると、緊張感を覚えなくもない。ただ、プレッシャーを感じるよりも、西野の振る舞いにATC勢の3バカと似通っている何かを感じた聖はかえって冷静になれた。平たく言えば「なんだこのオッサン」といったところだ。 「さぁ! 表か、裏か!」 ラケットを地面に立てて回転させながら西野が尋ねてくる。聖は表と答えたが、生憎と結果は裏だった。西野がサーブを選択し、聖は自分の立っている側のコートを選択する。お互いがポジションにつくと、すぐに試合が始まった。 「ゆくぞ、アリアミスッ!」 大声で宣言すると、ゆったりしたフォームでトスを放る西野。ボールはかなり高くあがり、それと反比例するように西野の身体が低く沈む。ATCのメンバーの誰とも似ていない独特なモーション。重力に引かれて落下するボールと、地面を蹴りあげることで勢いよく加速したラケットが衝突する。 「ちぇえいッ!」 西野がインパクトと同時に大きな声を上げ、順回転狙撃球が飛んできた。 (回転が強い、けど速くは無い) 聖は冷静にボールを補足し、迎撃打。打ち損じる事もなく、きちんとスイートスポットで捉えた。まずは定石のセンターへ。サーブを打ち終わった西野は素早く構え直しており、しっかりスピンをかけた利き手で応戦。ボールの軌道は高く、聖側のコートの深い所へ収まるように飛ぶ。 一瞬下がろうか迷った聖だったが、ボールをよく見て瞬跳打で打ち返す。少しテンポの上がったボールを、西野はまたもゆっくりしたスピンロブで返球する。激しい打ち合いというより、キャッチボールのようにややスローなテンポでラリーが続く。 (雰囲気の割りに、打ってこないな。それなら――) ラリーが10往復ほどした辺りで、聖は相手のゆっくりしたボールを攻撃的に強打。しかし、 「アウッ!!」 当たりが良過ぎてコートの中へ収まらずにアウトになった。 西野がハンドサインと共に大きな声でジャッジコールをする。 (っと、力み過ぎたかな) 素振りをして力加減を確かめる聖。 (でも、この程度のテンポなら叡智の結晶を使わなくても問題無さそうだ。ていうか、今の僕のレベルと丁度良いかも。なるべく素の状態での経験も積まなきゃ) 続く第2ポイントも、ゆっくりしたラリー戦になった。西野はじっくりと返球し続けるだけで、強打はおろか際どいコースを狙うようなこともしない。あくまで、丁寧にミスなく聖のボールを返し続ける。 (ずっとこのテンポでラリーするのか?) 長く、ゆったりとしたテンポで続くラリーに、じれったさを感じる聖。 すると、西野のボールが、僅かに浅くなった。 (ここ!) 聖は素早くモーションに入り、再び利き手の強打。 コート中央付近からクロス方向へ、内側から外側気味に鋭いボールが飛ぶ。ボールは見事にライン手前に着弾。西野が機敏な反応を見せ、なんとか追いつく。だがバランスを崩しており、辛うじて山なりのボールを返球しただけだ。 (高い、けど浅い) 先ほど以上のチャンスボールな上に、無防備な領域が出来ている。 (いけッ!) 西野が戻るよりも早く、聖はとどめの一撃を打ち込む。 だが、今度はボールをネットにかけてしまった。 (ちょ! なにしてるんだ、まったく) 聖は自分のミスに呆れてしまう。冷静に考えれば、今のは相手コートへ返すだけでポイントが決まっていただろう。わざわざ自らチャンスを潰してしまった。 続く第3ポイント。 (いい加減、ちゃんとやらないと) 西野のサーブを丁寧にリターンし、三度長くゆっくりしたラリーが始まる。日本ナンバー1の黒鉄徹磨や、ATCジュニア勢で上位の実力を持つ能条蓮司と試合した時に感じた、一瞬の油断が命取りになるような緊張感は無い。どのボールに対しても余裕をもって追いつけるし、なんならいつでも攻撃できそうな気さえする。 (要するにこの人は、自分のミスを徹底的に排除したスタイルなんだな) 言動から受ける印象としては少し意外だったが、年齢を考えれば合点がいく。スピードもパワーもある若者を相手に、同じようなやり方で張り合うのは分が悪い。野球でいうならば、西野は変化球やコントロールを駆使して打たせて取るタイプなのだろうと想像した。 (それなら、遠慮なく攻撃させてもらおう) 相手のスローペースに付き合っていても、ラリーが長引くだけだ。それなりにスタミナにも自信のある聖としては、我慢比べをするのもやぶさかではない。だが聖としては、自分の実力の最大値がどの程度なのかを見極めたい気持ちがあった。短い期間とはいえ、ATCで練習をしているし、トレーニングもしっかりやっている。こう言っては失礼かもしれないが、こんなオジサン相手に強気のプレーが出来ないようでは先が思いやられてしまう。聖はそう考えていた。 だが、それこそが最大の間違いだった。 ★ 腕を組んで難しい顔をしながら、奏芽は聖の試合を観戦していた。取り合えず今日の自分の役目は無事果たすことができ、やれやれというところだ。危うく素人の中学生2人、というより味方の乱れに足元をすくわれるところだったが、過程は問題ではない。結果としてどうだったか、重要なのはそこである。 「なんか、苦戦してね?」 不意に後ろからブンが話しかけてくる。試合が終わった後もしばらくは思いつめたような顔つきだったが、ようやくひと心地付いたのだろう。普段と変わらない調子に戻っていた。 「あぁ、相手が典型的な専守防衛型だからな」 「正直やりたくねぇタイプだわ」 専守防衛型。 自分からは攻撃的なショットを打たず極力守りに徹し、自らのミスを抑えてひたすらボールを返球し続けるプレースタイルをそう呼ぶ。海外では返球特化型などとも呼ばれており、日本国内では侮蔑の意味を込めてシコラーなどと揶揄されることがある。 「見た目とか雰囲気は強打主体型っぽいのにな」 「それにしたって、聖のやつ攻め切れてねぇのな。ガネさんとやった時はやべぇぐらいライジングでぶっ叩いてたのにさ」 確かにそうだ。ブンの言うことは奏芽も感じていることでもある。徹磨とあれだけ打ち合える聖が、この程度の専守防衛型相手に攻め切れないどころか、自滅を招く失敗を連発している。やり辛いのは分かるが、こうまで優勢を取られるものだろうか? 「聖くんの苦手なリズムなんじゃな~い」 「足の調子がどうとかって言ってたよ~」 軽い調子で言いながら、桐澤姉妹が割り込んできた。そういえば、最初にオーダーを決めるときそんなようなことを言っていた気もする。聖の動きに不自然な点は無いが、ひょっとすると抑えてプレーしているのかもしれない。 「あのオジさん、シニアのJOPでそこそこやるみたい」 「シニアって大体みんな専守防衛型だよね~」 「え、そうなん?」 桐澤姉妹の言うことが意外だったらしい。ブンは奏芽に「知ってた?」というような表情を向ける。 「大体みんなってのは言い過ぎにせよ、そういう傾向はある。打っても決まらねぇからな」 テニスといえば、プロ同士が見せる激しい打ち合い戦を思い浮かべる人も多いだろう。互いに高速のボールを打ち合い、コートを駆け回りながら、最後は相手に触れさせない強烈な一撃で仕留める。そういう劇的でドラマチックなプレーが、テニスという競技の持つ一般的なイメージだ。 だがしかし実際には、テニスという競技は極めて地味な作業の繰り返しだ。テニスには野球のような満塁ホームランや、ボクシングのような一発KOは無い。4ポイントから成る1ゲームを6回、相手より先に獲得することが勝利条件。どれほど良いプレーをしようとも、1プレイにつき得られるポイントも獲られるポイントも1ポイントずつ。 プロは基本的にそれを3セット、男子に至っては時に5セット行う。つまり単純計算で、最少でも1セット24ポイントが必要となる。無論、対戦相手のレベルが近くなるほど、相手と競うポイントの数は増えていく。その全てのポイントが激しい打ち合いの末の一撃で決まる、ということなど有り得ない。 「ブンだって経験あるだろ?市民大会とかでオレ等みたいな学生が、50代ぐらいのオッサンにコロっと負けるなんてザラにある。いつも練習してる連中とはテンポが違うとか、ノーアドのルールに足元すくわれるとかそういうのもあるが、大体が自分が攻め切れず、相手に守り切られてやられるパターンだ」 そう言われ、ブンは酷く嫌そうな顔をする。思い当たる節があるのだろう。 「テニスはミスのスポーツ、とも言う。エースを奪うよりも重要なのは、いかにミスをしないか、いかに相手にミスしてもらうか。エースもミスも同じ1ポイント。エースを狙うリスクを負うぐらいなら、ミスしないように気を付けた方が割に合うからな」 若い人やテニスへの理解が浅い人ほど、プロのような痛快な一撃に憧れる。小細工無しの160㎞を越える剛速球のストレートや、どんな劣勢であろうとひっくり返す一撃必殺の右ストレートが魅力的であるのと同じように、相手を力で捻じ伏せる強力な一撃というものは人の心を魅了する。だがそれ故に、そうした憧れは人を本来の目的から遠ざける。 「気持ちよくボールが打ちたいだけなら、好きにやりゃあ良い。けど、勝ちたいならそれじゃダメだ。強打して攻めるのも、ひたすら守り続けるのも、勝つための手段に過ぎない。試合で勝ちたいなら、そういうのはあくまで選択肢の一つでしかないって割り切らないとな」 コートではまたも長いラリーの末に、際どいコースを狙った聖のボールがアウトする。どうやら聖も、西野のプレーに対して攻撃的な戦い方で挑んでいるようだ。苦戦の原因は、技術的なことよりもプレースタイルの相性、そしてなにより、聖が戦い方に拘っているせいだろうと奏芽は察した。 「ま、チンタラとゆるい球をぽ~んとただ返され続けるのはイライラする。そりゃ分かる。だから昔はシコラーなんて呼ばれ方してたらしいけど、そんなのは正直、ただの負け惜しみだわな。専守防衛型って呼び方が定着したのなんて、割と最近なんじゃねーの?」 気持ちよくボールを打ち、カッコよくポイントを決めたがる似非ハードヒッターにとって、打てども打てども返してくる専守防衛型との試合は、極めてストレスの溜まるシチュエーションだ。奏芽自身にも経験があるのか、言葉にはどこか苦々しさが混じっていた。 ★ <ヘイ少年~! アカレコ様の管理者であるこのオレ様による素晴らしいアドバイス、聞きたくな〜い〜? 今なら安くしとくぜ~?> 最初のコートチェンジの際、アドが完全に人を馬鹿にしたような声色で囁いてくる。 (試合中のコーチングは違反だろ。そういうのはやめてくれ) <おカタイねェ~? イイじゃねェか~。バレるもんでもナシに~。ンま、欲しくなったらいつでも言いナ> 聖は虚空の記憶から担わされた役目を果たすことで、通常なら有り得ない速度でテニスの腕前が上達する功徳の業を手にしている。実際どの程度の上達率なのかは不明だが、少なくとも一般人なら3年~5年はかかるであろうテニスの熟練度に、僅か1ヵ月弱で到達しているのだ。子供の頃の経験があるとはいうものの、5年以上テニスから離れていた聖の腕前は、本来ならまだ中級者に手が届くかどうか、という所だったはずである。それが、何度かの功徳の業を手に入れる事で一般的なジュニア選手に近いところまできていた。 (色々制約はあるけど、プロの力を借りられる上に、素の実力が普通の人より早く上がるんだ。それだけでも充分ずるいのに、そこから更にアドバイス受けるなんていくらなんでもやり過ぎだ) <毒を食らわば皿まで、ともいうぜ~?> (うっさい!) 聖はアドとのリンクを一時的にカットする。 (相手はただの一般人なんだ。プロを目指そうって僕が、そんな程度の人達を相手に叡智の結晶だのコーチングだの卑怯な真似してたまるか。やるなら正々堂々やらなきゃ) タオルで乱暴に汗を拭い、聖はさっさとポジションに向かう。 (実力で勝つんだ。繋いでくるだけの相手なんか、捻じ伏せなきゃ!) ベンチに座ってゆっくりと水分補給していた西野は、横目でチラリと対戦相手の顔を伺う。優し気で穏やかそうな顔立ちをしている相手の表情には、苛立ちと焦り、そして決意のようなものが浮かんでいる。否、あれは決意などではない。自分のやり方に執着し、正しく物事を見れなくなった頑固さ、或いは、自分の力を過信している人間の傲慢だろう。 (ゆっくり返して繋いでくるだけの相手に負けてたまるか、とでも思っているんだろう) 第2ゲーム、聖のサービス。 どんなサーブを打ってくるのかと身構えていた西野だったが、最初のポイントは聖のダブルフォルトで何もせず終わってしまう。 (なんだ、黒鉄選手に勝ったらしいというから期待したが、もう崩れたか) 人知れず僅かに口元を歪める西野。なんとも呆気ない。しかしこれで良い。可能な限りひたすら返し続ければそれで良い。そうしていればこちらから仕掛けずとも、ヤツの方から―― ――勝手に自滅してくれる 熟練のステイヤーは、不気味に微笑うのだった。 続く
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