<はっしれ~はっしれ~セイタロウ~♪本命穴馬かきわけてェ~♪> 時刻は18時を回ろうとしていた。陽は沈み、辺りは夕闇に染まっている。聖はラケットバックを抱え、着替えもせずに大急ぎで駐輪場に向けて走っていた。冷えた汗の染み付いたウェアが肌に張りつき気持ち悪かったが、そんなことを構っている場合ではない。 蓮司との試合で非撹拌事象における能力を使用したのが、確か17時を少し過ぎた頃。 そこからアドに撹拌事象を告げられたのが体感で15~20分後くらいだったろうか。 非撹拌事象から撹拌事象へ切り替わった事で、失徳の業が発生するタイムカウントは試合の最中にも進んでいたことになる。つまり、あの耐え難い代償が始まるまでもう一刻の猶予も無い。 「リピカ、あとどれぐらい?!」 <残り、11分です> 飛ばせばなんとか家に到着できるギリギリの時間だ。駐輪場につくと、急いで自転車のカギを探す。最近では当たり前になった携帯型デバイスとの連動型ロックにしていないのが悔やまれる。 「あれ!?無い!」 カギが見当たらない。いつも同じ場所に入れているはずが、入っていない。 <オイオイ~なにしてんだよ~。このままじゃ寒空の下でイモムシみてェにひっくり返って動けなくなるのがオチだぜ~?> 「ない、ない、ない!」 <パニくってる時の青ダヌキみてェだなァ> 必死に探すが見つからない。早くしないとアドの言う通りになって、見つけた誰かが救急車を呼び、また家族に心配をかけるハメになる。 「あ~、お忙しいところすまんが、キミ」 ラケットバックに詰め込んでいた荷物の大半をその場でひっくり返していると声をかけられた。顔を上げると、そこには妙な形をした眼鏡、というよりゴーグルのようなものをつけた、白髪で白衣を着た老人と、その横にはプラチナブロンドのまるで人形のように美しい外国人の少女が立っていた。 「総合受付はどこかね。沙粧女史に面会したいのだが」 ゆっくり穏やかな口調で話すその老紳士風の男は、不思議な凄味を感じる。話し方こそ好々爺のようだが、背筋はしゃんとしているし居住まいもどこか力強い。思ったよりも若いのかもしれない。 「すいません、道案内したいのは山々なんですが、僕ちょっと急いでて……」 普段なら道案内を買って出る聖だが、今はさすがに間が悪い。これ以上時間がかかるようなら、家族に連絡して迎えに来てもらうより他ない。だが、そうなると恐らく迎えが来る前にタイムオーバーだ。救急車は避けられてもそのまま病院に直行される可能性が高い。 「ひょっとして、君が探しているのはコレかね」 すると、老人は見覚えのあるキーホルダーのついた鍵をつまんで見せた。 「あれ!?」 「先ほどすぐ傍で拾ったんだ。いやいや良いタイミングだったようだね」 老人は聖に鍵を渡すと、良かった良かったとしみじみ言っている。 鍵は見つかったが、こうなると老人を無視するのは難しい。今いる場所からなら総合受付までは歩いて1,2分だが今の聖にその時間は無い。鍵の礼だけ言って今すぐ立ち去りたい衝動と戦いながら、どうしたものかと説明しあぐねている。そもそも、横に若い子がいるならその人に任せれば良いのに何故わざわざ僕に尋ねるのか。 「ありがとうございます、ただ、あの、申し訳ないんですが」 「君はここの選手かい?今日はもう練習終わりかね?」 聖が急いでいるのを諦めさせようとしているのか、老人は関係ないおしゃべりを始める。聖の性格がもっと強引であれば、老人を無視して自転車にまたがり大急ぎで自宅へ向かう事も出来ただろう。しかし生憎とそれは叶わず、無情にもリピカがタイムオーバーを告げた。 <時間です。失徳の業が発生します。使用時間は19分07秒。能力の最適調整率、および肉体強度差分から31時間43分の|失徳の業を算出。実行されます> 急激に地球の重力が十数倍になったかのような錯覚を覚えた。 全身の感覚が消え失せ、そのままよろけて倒れ込んだにも関わらず痛みすら感じない。だが、身体の内側からは耐え難い苦痛が染み出すように表れ、全ての内臓をゆっくり握り潰されるような不快感が聖を襲った。以前は発生と同時に意識がシャットダウンするように気を失ったが、徐々に堪えられるようになっているのが災いし、酷く苦しい時間が続く。 苦痛も耐え難いのだが、こんなところを他人に見られたのは実にまずい。どういう言い訳をすれば大騒ぎにならず済むか考えたかったが、聖の意識はどんどん遠くなっていく。残る力を振り絞って瞼を開くと、倒れたと思ったがどうやら老人が支えてくれたらしい。ゴーグルで表情は分からないが、老人は腕を組みながら聖の様子を観察している。 両腕を組んでいる? 聖を支えているのは、どうやら少女の方だ。ほぼ身体の感覚が無い聖だが、随分と強い力で身体を支えられているような感じがする。虚ろな目をしたままの聖は、意識を失う直前、確かに聞いた。 「脈拍、血圧、呼吸、その他バイタル異常無し。簡易スキャンによる結果を見ても疾病の類ではなさそうですね。うちの薬を使っている兆候もなければ詐病でも無さそうだ。それにも関わらず意識レベルが極めて低下。随分と苦しそうだ。ふむ、これは興味深い。先日といい今日の試合といい、この子は謎が多い。遺伝子データを採取するついでに色々調べてみるとしましょう。マリー、荷物と一緒にラボへ運んでおきなさい。目を覚ましそうなら拘束剤を投与して構わない。私が戻るまでに準備しておくように」 「畏まりまシタ。新星教授」 「日頃の行いでしょうかね、実験材料の方からチャンスをくれるとは」 新星と呼ばれた男は、上機嫌そうに呟きながら携帯端末をオンにする。 「あぁ、私だ。近くに来ているのだがね。総合受付へはどう行けば良い?」 ★ 悪夢を見た 内容は思い出せない 命を脅かされて恐怖に身が竦むような 存在意義を見失い途方に暮れてしまうような 出来ていたことが出来なくなる苛立ちのような 身体を蝕まれ抗えられぬ苦痛を与えられるような 或いは 憎悪で身を焼きたくなるほど怨めしい存在への執着 心と体がちぐはぐになってままならない焦燥 大切なものを失い打ち拉がれる絶望 追い求めた何かを得られない無力 ここは何故、こんなにも苦しみに満ちている場所なのだろう 外は死で溢れかえり暗黒に満ち満ちているというのに 幽かな温もりと僅かな光があるせいで、影は色濃くより心を凍てつかせる どうせいつか何かもが台無しになる 壊れて、朽ちて、腐って、崩れて、終わってしまう 生も死も、一切合切はやがて無へと還る こんなことなら、はじめから無ければ良かったのに それでも、なお――― ★ ゆっくりと、しかしやけにハッキリ聖の意識は覚醒した。 頭の中が冴えわたるようにどこか心地良く、最初から起きていたのではないかと錯覚するぐらい身体の感覚が明確に感じられる。辺りを見回すと、全体が目に優しい薄っすらとグリーンの明かりで満たされた部屋にいた。 (どこだここ……?) ベッドに横たわっていた聖はゆっくり身体を起こす。服を着ていない事に気付いてぎょっとするが、次第に記憶が甦ってくる。そうだ、能条蓮司と試合した後、帰る前に失徳の業が発生して気を失ったんだ。 「病院?」 それにしては、随分と殺風景というか静かすぎる。窓は無く、室内にあるのはベッドとキャスターのついたテーブルとロッカーくらいなもの。室温が調整されているのか寒くもなければ熱くもない。部屋全体がグリーンだと思ったのは照明のせいらしく、よくよく目を凝らすと壁も天井も真っ白だ。清潔感はあるものの、どこか無菌室的な雰囲気で人の温かみのようなものは感じられない。 ふと左手首に目をやると、ブレスレット型の携帯端末がつけられている。画面に指を触れると、細長いディスプレイに『Good morning!』と表示される。見慣れない端末なのでどう操作するのか思案していると、端末から声が聞こえてきた。 『気分は如何ですか、若槻くん』 聞き覚えのある声だ。その声を聞いて、それが倒れた時に駐輪場で自転車のカギを拾ってくれた老人のものであることを思い出す。白衣を着て妙なゴーグルをかけた人だった。 「あ、あの」 『君が倒れてから1日半が経過しています。ここは私の研究施設で、ATCからはクルマで20分ほどの所にあります。ご両親には連絡してあるので心配には及びません。勝手ながら君が眠っている間にあれこれ検査しましたが、特に身体から異常は見られませんでした。身支度を整えたら帰って結構です。君の自転車はありませんが、良ければ超伝磁導式浮遊板をお貸しします』 いっぺんに色々言われて戸惑ったが、どうやら聖が懸念していた事柄については概ね問題ないように思える。勿論、この声の主の言う事を全て信用するならば、なのだが。とはいえ今の聖には事の真偽を確かめる手段は無い。一旦頭の中を整理して、質問を口にしようとしたその時、ドアが開いた。 ドアの前には、先日老人と一緒にいたプラチナブロンドの人形然とした少女がトレーを手に立っている。漂ってきた匂いから、どうやら食事を運んできてくれたらしい。真っ黒でシンプルなキャミソールを着た少女は、大きな瞳で聖を捉えながら微動だにしない。 『マリー、入りなさい。彼に食事を』 老人の声がすると、マリーと呼ばれた少女はゆっくりと入室する。ベッドの横にあるテーブルにトレーを置く際、かがんだ拍子に彼女の胸元がチラリと覗き、聖は思わず目を背ける。 「お召し物ハ、そちラの、ろっかー、ニ。クリーニング及ビ、除菌済ミでス」 やけにイントネーションに特徴がある。一昔前のロボット音声みたいな喋り方だ。外国人のせいか年齢が分かり難いが、声の感じからして年下だと思う。そういう年頃にありがちな一種のキャラづくりだろうかとつい邪推する。そしてふと、聖が気を失う直後の記憶が過った。 「君が運んでくれたの?」 恐る恐る聞いてみると、少女は妙な口調のまま答える。 「お食事ハ、私が運びまシタ」 「あ、それはありがとう。じゃなくて、僕をこの研究施設に運んだのは」 「イエス、実験材料を、研究施設へ運ンダのは、私デス」 サンプル?質問の意図が伝わってないのか良く分からない事をいう。というか、キャラ作りにしてはやり過ぎな気がする。もう少し彼女に何か質問をしようと思ったが、テーブルに置かれた食事の匂いが鼻をくすぐったせいで急に空腹を感じた。ひと先ずありがたく頂戴しようとベッドから降りようとしたところで、自分が何も身に付けていない事を思い出し辛うじて踏みとどまる。 「あのさ、えぇっと、マリーさん?着替えたいからちょっとその……」 「お召し物ハ、そちラの、ろっかー、ニ。クリーニング及ビ、除菌済ミでス」 マリーは聖を見据えたまま動じない。退室する気配もないので聖はどうしたものかと考えあぐねてしまう。 「彼女に対する羞恥心は無意味ですよ」 すると、先ほどの声の主である老人が姿を見せた。 「まぁ、思春期の男の子は気にしてしまいますか。マリー、退室しなさい」 「畏まりまシタ。新星教授」 そういうとマリーはすぐさま退室し、部屋には全裸の聖と新星教授と呼ばれた老人が残った。気まずい沈黙が流れ、聖が新星に視線を送ると、首をすくめておどけるようにしてから新星が後ろを向く。その隙にそそくさとロッカーから聖の服を取り出し着替える。新品みたいに綺麗になっていたのには驚いた。 「食事をしたままで結構。自己紹介をしておきましょう。私の名は新星。しがない科学者の端くれです。ATCの沙粧女史とはビジネスパートナー、といった所です。先日彼女と直接お話をする必要があって伺った際、偶然君を見掛け道を尋ねたところ、君は私の目の前で意識を失いました。幸い深刻な状態ではなさそうだったので病院ではなく私の研究施設へ運びました。スタッフには優秀な医師もいますから、ご安心を。しかし検査したものの、君の身体にはこれといった異常は検出されませんでした。とはいえ、意識が戻らなかった為、お節介とは思いましたがATCの沙粧女史を通じてご両親に連絡、ご了解を頂いた上で丁重にお預かりし、経過観察させて頂いた次第です。ここまでで質問は?」 聖は一度食べ始めると食欲が沸いてしまい、新星が話している間もひたすら手を止めずに食べた。簡素なトレーに盛られていたので味気ないものかと思いきや、思いのほか食が進んでペロリと平らげた。 食事を済ませ、水をぐいっと飲んでひと心地付いた聖は、まずは新星に礼を言った。あわや救急車を呼ばれて大騒ぎ、という事態を避けられたのは非常に大きい。突然見知らぬ他人から連絡があった上、あれこれと面倒を見て貰ったことについては両親からあとで口煩く言われそうだが、本人の無事さえ確認出来ればどうにかなるだろう。親の説教一つで大事を避けられるなら安いものだ。 「ところで、君はテニス選手を目指しているということらしいですが」 突然、話題が変わる。 「何故君はアンドレ・アガシやレイトン・ヒューイットのようなプレイが出来るのです?」 頭を後ろから殴られたような衝撃が聖を襲う。 なんで、それを? 「実は沙粧女史から君が選手育成クラスに入会を決めた時の試合について情報共有がありましてね。更に偶々君と会ったあの日、私はジュニア選手の練習内容を閲覧していました。私は研究の一環として沙粧女史からトレーニング効果の最適化を行うための研究をする名目で、ATCの9割近いWEBカメラにアクセスする権利を与えて貰っているのです。お陰で君と能条君の試合を見ることが出来ました」 ずっと見られていた? 聖の鼓動が早くなる。秘密がバレるのではないかという焦燥感が聖を襲い、水を飲んだばかりだというのに口の中から水分がなくなる。冷静に考えればバレようはずもないことだが、現にこの老人は真実の一端に触れている。 「正直大変驚いています。もしかして君は別の研究機関で何かしら特殊なトレーニングを受けているのではないかと思いましてね。でなければあんな風に完璧にプロ選手のプレーを再現出来るはずがない。模倣や真似事といったレベルを遥かに超えていた。実に素晴らしい!大変興味深ァい!」 新星は感慨にふけりながら楽しそうに喋っている。 「スポーツを通して人類は新たなステージに立てるというのが私の公向けの信条ですが、それには最先端の科学技術を用いて常に常識を更新して行くと共に、過去の名選手たちが残した実績から多くを学ぶことも同じように肝要なのです。私自身はテニスに関して素人ですが、集積したデータベースを元に日々研究を行っています。沙粧女史が寄越した君と黒鉄選手との試合で見せた君の動きはまさしくアンドレ・アガシそのもの!フォームを真似たとかそういう次元を超越したまさに再現でした!あれは君独自の練習による成果ですか?それとも」 ゴーグルをつけたままの新星教授は、心底興味深そうに尋ねる。 「君自身がアンドレ・アガシとか?」 ゴーグルで隠された新星教授の目にどんな表情が浮かんでいるのか、聖には分かろうはずもない。だが、確信できる。この男の目には、単純な好奇心だけが浮かんでいる。それも、まるでカゴに入れた虫を観察するような、出来たばかりの薬を注射されたラットの反応を記録するような、どこの筋肉をいじればどこが動くのかを死体で試すような、冷酷で無機質な研究者の視線であるに違いなかった。 「ヒャハハハ!!」 聖が何も言えず新星教授の様子に圧倒されていると、彼は突然笑い出した。 「などという事は有り得ないのです!彼はまだ存命ですしラスベガスで優雅に過ごしておられる。それに君は先日、ヒューイットのような戦いぶりも見せていました。あとはそうですねぇ、2人ほどではないにせよ、シュワルツマンとも似たプレーも見せていました。こちらは少々再現率が低かったのでなんとも言えませんがね。君がどのようにしてプロのプレーを再現するに至ったかは謎ですが、それについて調べる為にリソースを割く余裕が今は無いのでね。それにテニスの技術は進化し続けています。過去の名選手のプレーを再現出来るのは驚異的な事ではありますが、所詮は過去は過去。学ぶべき部分があるというだけで最先端には成り得ない。個人的興味は尽きませんが研究対象としては優先順位は高くないのです。ともあれ――」 捲し立てるように話す新星は一度言葉を切り、言った。 「そのうち、解き明かしてみせましょう」 ★ 結局、聖は自宅まで歩いて帰った。倒れた日と、その翌日丸一日と2日間も外泊することとなり、帰宅後は母親からかなりネチネチと説教されてしまった。幸い外泊の理由については、聖の体調不良ではなく急遽決まった泊りがけのトレーニングに参加する、と説明されていたお陰で深く追求されなかった。 自室につくなりベッドに倒れ込んだ聖は、心の底から呟いた。 「すンげ~恐かった。あの人」 <得体の知れねェ迫力はあったな?> アドは、新星教授の研究施設では話しかけてこなかった。 人間は普通、自分が気を失っている間の出来事についてあれこれ知る術を持たねェ。目が覚めたンなら自力で状況の確認をして事の真偽を確かめるのもてめェの責任でやるのが当然、というのがその理由だった。つまり、彼らは能力を与える為のサポートはしてくれるが、それ以外の部分について聖に手を貸すのはルール違反、ということらしい。 <とはいえコッチの都合でオマエを取り巻く環境が変わってきてるからな。一切協力しねェ、なんて意地悪は言わねェよ。ただ、なんでもかんでも頼られるわけにはいかねェからな。極力てめェの世話はてめェで焼けってこった。良い子にしてりゃ、たまにサービスしてやるかもな> アドのスタンスは始めこそ不誠実だと思ったが、与えてくれる力の大きさを考えれば当然のように思えた。それに彼等に頼りきりでは、ハルナに認められる選手になるという目的は達成できない。厳密に言えば全てが自力ではない時点で論理的にはやや破綻しているのだが、この辺りは聖の気持ちの問題だ。一番初めにアドが聖に関わって来なければ、聖はあのままテニスを続けていた可能性もあるのだから、多少の助力は当然と割り切る事にしている。 それよりも。 「危うく見抜かれるかと思った」 黒鉄徹磨との試合については、分からなくもない。だが、まさか蓮司との試合まで見られていたとは。聖は新星教授のあのゴーグルを思い出し、今もなおその視線が向けられているような気がして思わず部屋の中を見渡してしまう。 <心配すンな。人間ごときに解明できるもンじゃねェ> 「そうはいうけど」 <つーか、あの連中はなンだ?悪の科学組織か?> 聖は彼を知っている。ニュースで見知った程度ではあるが。 「スポーツ科学の研究チームだよ。名前は『GAKSO』。旧東京五輪――1964年開催――、その開催に向けて設立されたんだ。その頃は大した功績を残せなかったらしいけど、その後も研究を続けてたみたい。それが21世紀に開催された2度目の東京五輪では彼等の研究成果が大活躍だったらしくて。金メダルでアメリカを抜いたのは選手はもちろん、彼等の研究成果だってニュースでやってたよ。新星教授はGAKUSOの責任者だ。ニュースで見たことある」 彼らは『人間の運動能力向上に必要な多角的研究』を目的としている。ここでいう『運動能力』は単純にスポーツだけに留まらず、生活に必要な動作全般を指している。元々の組織設立背景が旧東京五輪での活躍ではあったが、それを実現するにはあまりに時間が足らなかった。 世界各地で単発的な小競り合いこそ未だあるものの、兵器による大規模な戦争は縮小傾向にあり、その代わりにスポーツを使って国の権威を示そうとする動きが静かに広がった。オリンピックがそうした大国同士の『代理戦争』的な役割を密かに担うようになったことで、ならば人間そのものを強化しようとする考えに至り、日本政府も研究の後押しを行っている。 新星が口にしていた「スポーツを通して人類は新たなステージに立てる」というポリシーについても、スポーツが持つ健全なイメージを隠れ蓑にした人体実験の正当化であるという批判は時折あがっている。しかし、前世紀から飛躍的に進化した義手、義足、義眼などのいわゆる『義体パーツ』や、自分自身の細胞を使った臓器培養、血液貯蔵といった研究成果が医療分野の発展に大きく貢献した為に、そうした批判はことごとく無視されている。 <思わぬ大物とコネが出来たじゃねェか。あのジジイなら人間改造手術ぐれェ出来そうだな。いっそ頼んで機械の体を手に入れてみちゃどうだ?あの金髪ダッチワイフみてェによ。そうすりゃ肉体強度不足による失徳の業は軽減できるかもなァ> 「あの金髪?」 <おめェがおっぱいチラ見したアイツだよ。ありゃ9割人間じゃねェぜ> 「え」 食事を運んできてくれた、マリーと呼ばれた人形のような少女。 機械のような雰囲気といえばリピカを思い出すが、印象は異なる。リピカは見た目からしてまるで人形のようで、喋り方も感情の起伏もどこか人間離れしている。一方、マリーはもっと肉感的というか、人間が人形のフリをしているかのような印象だ。人形っぽい印象という意味では同じなのだが、人形が人間の様に動くのと、人間が人形のように振舞うのとでは印象が異なる。 「彼女、人間じゃないの?」 <9割な。どこがどうなってるかまでは知らねェが、身体はほぼ機械だ。喋り方も思いっきりロボだっただろ?ワ・レ・ワ・レ・ハ・ウ・チュ・ウ・ジ・ン・つって。あ、こりゃ宇宙人か> 最近では非常に高性能な人体パーツが市場にも出回るようになったとニュースで見たのを聖は思い出す。中には、肉体との神経接続に成功した機械義体なる革新的な医療機具も出始めているという。新星教授の秘書のような立ち回りをしていたところを見るに、彼女の身体はそういう技術の結晶なのかもしれない。 技術の結晶、という言葉が頭に浮かんだ聖は、つい叡智の結晶と比較してしまう。技術とはつまり、多くの人間の知恵や経験の粋を集めた、それこそ叡智の結晶だ。彼女の妙な喋り方は、人工声帯や内蔵マイクによる発声だったからなのだろうか。聖がそんなことに思考を巡らせていると、イラついた声色でアドが茶々を入れてきた。 <ボケ殺したァおめェ随分だなオイ> 「拾い難いんだよ……」 <おめェにツッコミのセンスがねェだけだ。もっと真面目に笑いについて学ンでくれ> 真面目な思考を中断され、なんだか疲れを覚える聖。 「とにかく、あの新星教授には気を付けないとな……」 <気にすンなよ。オメーはオメーのやるべきことをやりゃ良いンだ。あんなのは所詮、スポーツ専門のマッドサイエンティストってだけさ。アイツに何がどうこう出来るとも思えねェ。もしアイツの相手をするンだとしたら、そりゃあ――> 言葉を待つが、変な所で言葉を切って先を続けないアド。 「そりゃあ?」 <オメーがシニア向けの大会に出る時じゃねェ?> 「んん?意味が分からないんだけど」 <っせーなー、とにかくあンなジジイは放っとけ。それよかオメェ、連休に団体戦出るんだろ?それについて対策練った方が良いンじゃねェの?ついでにいうと今日は思いっきりド平日の水曜日でそろそろ昼だけどよ、高校の授業をすっぽかすなんざァ、学費を払ってくださってるご両親に申し訳ねェと思わンの?プロ目指すにせよ勉強は疎かにしちゃいかンだろ?それともサボってタバコでもふかしに行くか?> 「あ、やば!」 聖は慌てて着替え、急いで学校へ向かった。 続く
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