ポイントが決まった瞬間、聖は身体の底から湧き上がる衝動を抑え切れずに咆哮を上げた。イメージ通りのショットが打てたことに喜びはあったが、大声を出して感情を爆発させたのは聖の意志ではない。ポイントを奪われるような相手の強烈な一撃を寸でのところで凌ぎ、更に逆襲を成功させたのだから気分が高揚するのも無理はない。だが、声を張り上げ全身で喜びを発散させるような振る舞いが自分の意志とは無関係に出てきたことに対し、戸惑いを覚えずにはいられなかった。 高揚感と戸惑いの異なる感情が自身の内で揺れ動いていたが、聖は自分の中の動揺を辛うじて堪え、平静に努める。だが、内側から湧き上がる怒りにも似た闘志は抑え難く湧き上がり、指先が震えるほどに戦意を漲らせて戸惑いを押し退け、それにつられるように勝手に身体が動いて次のポイントに臨んだ。 蓮司の攻撃は実に多彩で、一辺倒ではない。ショットスピードを抑え堅実に形を作ってから、ここぞという時に攻め込んでくる。その非常にクレバーなプレーは黒鉄徹磨とは異なり、強さよりも上手さを感じさせる極めて質の高いテニスに思えた。 しかし、それでも。ポイントを失うことはあったが、能力を最大限に引き出せる今の聖にとってサービスゲームをキープするのは難しくなかった。デュースを迎える前にポイントを決めて聖がゲームを獲得した。 これでゲームカウントは聖から見て4−5。 聖は次の蓮司のサービスゲームをブレイクしなければ敗北が確定する。 しかし聖に不安はない。 それどころか、依然として追い詰められているこの状況を楽しんでいる自分を自覚する。身体の底から獰猛で好戦的な感情が止めども無く溢れ、集中力が高まっていく。チェンジコートの際、スポーツドリンクを口にしながら冷静に自分の状態を振り返ってみたが、これはやはり叡智の結晶の影響に思えた。でなければ説明がつかない。 <数いる選手の中でも、ヒューイットは特に感情的な方だからな。技術的な能力だけじゃなく、魂の在り方が同調してンのさ。別に身体的な害はねェから恐がらなくてもいいぜ。もっとも、オマエ自身の性格に対する周囲の評価に関しちゃ、何とも言えねェがな> アドがおおよそ聖の考えと同じことを口にする。身体にもプレーにも影響はなさそうだし、むしろこの状態を受け入れた方がもっと力を発揮し易くなるような気さえする。だが、このヒューイットの苛烈な精神は聖の元の性格とはあまりにかけ離れている。気の持ちようであると言われればそれまでだが、試合で叡智の結晶を使う度に性格がコロコロ変わるようだと、あとあと何かしら不都合が生じる気がしてならない。 とはいえ現状でそれを気にしていても仕方がない。 それよりも、なるべく早く決着をつけないと都合が悪い。 勝つのであればあと2ゲーム。最短でも8ポイント。もつれたとして最大で14ポイント。急げばなんとか間に合うはず。だが、蓮司相手に油断は出来ない。能力を最大限発揮して可能な限り早急に決着をつけたい。 チラリと時計を見ると、時刻は17時半を少し過ぎたところ。好戦的で獰猛な感情が自分の中で大きく渦巻くのを強く感じながらも、聖は幽かな焦りを覚えていた。 ★ 最初と、中盤、そして終盤に差し迫った今。 対戦相手の若槻聖は明らかに様子が変わった。いや、そんな生易しい変化ではない。別人になったといっても大袈裟ではないぐらいの変貌ぶりだ。キープされた今のゲーム、プレースタイルは異なるものの、あれこそまさしく黒鉄徹磨と戦っていた時の聖だ。 ゲーム中盤、蓮司は聖が手を抜いていると感じた。そのことにイラついてしまい、それならさっさと終わらせてやろうと強打を連発した。その途端、急に聖のプレーが変わった。それまでのやる気のない鈍い反応から、鋭い動きと俊敏なフットワーク、そして堅実なディフェンスで次々とボールを打ち返すようになった。 ようやく本気になったかという思いと、今更になって本気を出しても遅いという思いから、 強打で力の差を見せつけようとする戦い方をした結果、聖のディフェンスが蓮司の攻撃を上回りゲームを連続で落としてしまった。 ゲームを落としてしまったことと、途中でミヤビが乱入してきたことが重なり冷静さを取り戻した蓮司は、過去に怪我をした肘に負担がかからないよう本来の自分のプレースタイルで確実に勝とうと決心した。それとほぼ同時に、いよいよ聖が本気を出してきた。 先ほどの見事なカウンターと挑発的な雄叫びに驚きはしたが不快感は無かった。むしろ初めから自分に全力を出そうとしなかった事の方が腹立たしく思えていたくらいだ。 その圧倒的なまでのプレースメントに賞賛を送りたくなるのを蓮司は辛うじて抑え込む。試合の最中に、相手に対して余計な感情を持つべきではない。試合外ならいざ知れず、今まさに勝敗を競おうという時にそういった緩みは命取りになる。 ――勝ちたければ非情になれ これは蓮司が尊敬している徹磨の先輩に当たる金俣剛毅の口癖だ。現在では徹磨に抜かれて男子日本勢では2番目に位置する男で、既に30歳を越えたベテラン選手だ。勝負に対して極めてストイックな男で、気性が荒く近寄り難い雰囲気のある男なのだが、そのテニスに対する姿勢を蓮司は見習っていた。 「同じ国だろうが、同じアカデミー所属だろうが、自分以外のプロは全員敵」 そう豪語する金俣は、その刺々しい振る舞いにも関わらずそれなりの人望がある。だがそれは金俣が結果を出し続けているという事実に基づくものであり、彼の普段の他人に対する言動はとても尊敬できるものではない。蓮司も人間的な部分で言うなら金俣を好きにはなれないのだが、平然と他者を敵と見做し馴れ合いを嫌う彼の価値観は世界で孤独に戦うプロのテニスプレイヤーを目指すなら必要なものに思えた。 蓮司はタオルで汗を乱暴に拭い、投げ捨てるように放る。ふと、甘い香りが鼻をくすぐった。それがミヤビのものであるとすぐに気付いたが、蓮司はわざとミヤビの方を向かないようにして振り払った。今この場において、甘ったれた感情は一切不要。邪魔なだけだ。 次のゲームをキープすればオレの勝ち。 好きにはなれない6先ノーアドというルールだが、勝ちは勝ちだ。 例え公式戦で無いにせよ、いきなり入ってきた新参者に団体戦でのシングルスの座をそう簡単に明け渡すなど到底受け入れられない。こいつがこれまでどんな風にテニスをしてきたのかは知らないが、少なくとも自分以上に努力して必死にやってきた奴などそうはいない。この場はなんとしてもきっちり勝ち切って序列を分からせてやる。そんな風に戦意を奮い立たせながら、蓮司は第10ゲームを迎えた。 ★ 最初のポイントは長いラリー戦となった。 蓮司のもっとも得意とする戦い方は全方位万能型。このスタイルは攻守共にバランスが良く、状況に応じて自分から仕掛けたり相手のミスを待ち隙を見て強襲するなど戦略の幅が広い。 それに対して聖が宿しているレイトン・ヒューイットは専守防衛反撃型と呼ばれる。ヒューイットの場合はカウンター後の派手なパフォーマンスが印象に残り易い為か、攻撃的なプレイスタイルだと誤解されがちだが実際はそうでない。 このスタイルは基本的には守備主体。だが相手に主導権を握らせないようにひたすら精度高く戦況の均衡打を打ち続ける。相手がそれに参ってイージーなボールを打つようであれば仕掛け、エースを狙って仕掛けて来るようならそれにカウンターをお見舞いするスタイルだ。 ヒューイットは特に相手のエースをカウンターで叩き返すプレーが特徴的で、それを支える俊敏なフットワークは当世最速とも呼ばれた。誰もが諦めるような必殺の一撃を、風のように駆け抜けながらカウンターで逆転してみせる。ポイントが決まった直後に上げる「カモン!」という雄叫びは相手の戦意を挫き、観る者の闘志に火をつけた。 聖がミスを控え、攻撃はカウンター狙いに絞っていることは蓮司も気付いている。迂闊に仕掛ければ却って自分が不利になる以上、堅実に好形勢の構築をする必要がある。蓮司は自分から攻撃したい欲求を抑え、慎重に攻め時を見計らいつつラリーを展開していく。 数十回とラリーが続き、聖のショットが蓮司の予測と噛み合った瞬間、蓮司は攻勢に転じる一打を放った。虚を突かれた聖が僅かに体勢を崩すのが見え、一気呵成に距離を詰めてネット前に陣取る。 ――来やがれッ!! 蓮司が上手く立ち回ることで、聖が打ち易いコースを視覚的、心理的に塞ぐ。蓮司の守備範囲外は聖にとってどこを打つのにもリスクが伴い、読まれれば蓮司に反応されてしまう。絶妙な配球によって攻撃の手を狭められた聖は、微かな罪悪感を噛み潰すように歯を食いしばり蓮司の身体正面に目掛けて強打を放った。 だが、蓮司の胸元から十数センチの場所でボールは止まる。僅かに身体を捻りながら器用にラケットでボールを捉えた蓮司は、ボールの勢いを見事に殺し切って聖のいない方向に虚を突く零れ球を打った――瞬間、蓮司は危機を察する。 聖は既に走り出しているッ! 僅かに崩れた体勢のまま正確に蓮司の真正面へ強打しただけでなく、打ち終わりと同時にコート前方への警戒を高めて最初の一歩を踏み出していた。それでも、蓮司の放ったドロップは完全にボールの勢いを殺している。いくら反応出来たとはいえ、聖が追いつく頃には最初のバウンドが終わり2度目の落下を始めている。ギリギリ追いついたところで、聖は拾うのが精一杯のはずだ。 同じようにドロップで来るか、もしくは前へ詰めた蓮司の頭上を抜く高弧を描く一打の2択と見てほぼ間違いないだろう。想定よりも余裕を保ってボールに追いついた聖は、ボールに視線を集中させながらも視界の端では蓮司の位置を捉えている。軽く下から上へと放り上げるように、蓮司の頭上を通り越すような高弧を描く一打を放った。 蓮司に粉砕する一撃をされないように高さを意識して放たれたロビングは、ゆっくり高く弧を描いてコートの上空を通過していく。推進力はさほど与えられておらず、ボールが最高点に達すると緩やかに落下していく。ボールが上に打たれた直後、蓮司は聖に背を向けるように方向転換し駆け出していた。未だ宙にあるボールには目もくれない蓮司だが、位置を確認せずともどこに落ちるかは予測できる。ノーバウンドで打つことも可能だったが、わざとワンバウンドさせ、二度目の落下点に向かって歩幅を合わせながら細かいフットワークで距離を測る。まだ、蓮司は聖に背を向けたままだ。 ボールが2度目のバウンドをする直前、蓮司は聖に背を向けたままの姿勢でラケットを振りかぶる。まるでラケットを持った手で障害物を乗り越える様にしながら、股の間からボールを打つ曲芸打ちを放った。手首のスナップを利かせて打ったボールは鋭く飛び、ネット前中央に構えていた聖の横を通過して行った。 「カモォォン!!」 ポイントが決まると、今度は蓮司が拳を握り締め聖を睨みつけながら叫んだ。 <ハッハー!見た目通り、根に持つタイプだなァあの陰キャチビ> 嘲るように笑うアド。 自分の意思ではなかったにせよ、先に挑発するような雄叫びをあげたのは聖だったのだから、相手の態度について文句はない。叫ぶ方は気持ち良いのだろうが、叫ばれる方は当然のことながら良い気はしないものだなと聖は冷静に感じつつ、その鮮やかな一打に胸中で拍手を送った。 ★ コートサイドで試合を見守っていたミヤビは、試合が終盤に差し迫るのを静かに見守っていた。蓮司が言いつけを守り、無理な強打を控えて本来のプレイスタイルで果敢に聖に挑んでいることに安堵していた。 同時に、蓮司が聖に対してライバル心を剝き出しにするが故に怪我を省みないプレーをしていたのは自分の責任だと反省もしていた。黒鉄徹磨を兄のように慕う蓮司にとって、突然現れた同い年の男子に目の前で徹磨を倒されたのはショックだっただろう。元々負けず嫌いな性格だったから、わざわざミヤビが煽らずとも恐らく蓮司の方から勝手に試合をふっかけたに違いない。少々、余計なお節介をし過ぎたなと感じていた。 このところの蓮司は精神的に少し成長したと、ミヤビは感じている。 その証拠に、昔のように周りに対して露骨にツンツンした態度は取らなくなったし、同世代の3バカと一緒になって談笑することが増えた。練習や試合などテニスに関する時はまだまだ以前のような負けん気の強さを発揮するものの、不用意な発言で周囲と衝突を起こすようなことはかなり減ったように思う。 とはいえ、まだまだ感情のコントロールは拙い。今回のようにしなくてもいい我慢をするせいで、ミヤビといる時でさえ不機嫌なままだったりする。それはそれで可愛げがあるので悪くないのだが、以前のような子供っぽい素直さは失われつつあるので、ミヤビとしてはちょっぴり寂しさあもある。この辺の不満はミヤビの意地悪さにも原因があるのだが、自分の事は棚に上げている。 だからわざと吐き出させる為にお膳立てしてみたのだが、ミヤビの予想以上に蓮司は聖に対して対抗心を燃やしていた。我慢していた分、何が何でも叩きのめしてやると頭に血が昇っていたのだろう、散々やめるように言った徹磨まがいのハードヒットをサポーターも付けずに乱発してしまった。 幸い、そのことを守治先輩が教えてくれたからこうして蓮司を監督しに来ることが出来た。万が一があるといけないので、試合が終わったら医務室で診てもらえるようミヤビはこっそり手配もしてある。明日提出の課題については今夜片付けなければならなくなったが、それは蓮司に余計なお節介を焼いた自分への罰として受け入れることにした。 ミヤビは今回の練習試合で、蓮司が上には上がいることを知り少しでも謙虚さを学んでくれたらと思っていた。蓮司は超がつく負けず嫌いではあるものの、負けた後に癇癪を起すようなタイプではない。というよりも、ミヤビに言わせれば負けた後に癇癪を起すのは中途半端な負けず嫌いでしかない。蓮司のような本物――といって良いかどうかは不明だが――の負けず嫌いは、仮に目の前の試合で負けても敗北を認めない。 「今日は負けても、次は勝つ。そして更にもう一度勝てはオレの勝ちだ」 いつだったか、蓮司はライバル視していた相手に黒星をつけられた後でそう言った。内心は泣きたくなるほど悔しい気持ちで溢れかえっていただろうに、それでもぐっと涙を堪えてそう言った。負けは受け入れても敗北は認めない。最後に勝つのは自分だと言ってのけ、試合で見つけた課題に取り組み欠点を克服し、別の機会に見事リベンジを果たした。そうやって、敗北を糧にしてどんどん成長していく蓮司を見るのがミヤビは楽しかった。 まるで、子供の成長を喜ぶ親のように。 だがミヤビにとって意外だったことは他にもある。対戦相手である聖のプレーだ。それはミヤビの想定より蓮司が聖へのライバル心を抑えていたこと以上に、全く予想していない出来事だった。徹磨とあれだけの試合をしてみせた聖ならば、蓮司をあっさりと返り討ちにするとミヤビは踏んでいたからだ。 前回の聖の試合では、一見すると無謀のようにすら見える跳ね際の先撃を連発し、あの徹磨を攻撃で圧倒していた。あれほどライジングで攻撃を続ける選手はそうそう見ない。テニス史上最強と謳われたピート・サンプラスと競い合ったカリスマ的スター、アンドレ・アガシや、日本女子を代表する鉄人、伊達公子を彷彿とさせる圧巻のプレーだった。 それが、今日はライジングによる攻撃を殆どといって良いほど使っていない。要所でディフェンス的に処理するような使い方はするものの、積極的に攻撃する気配は無かった。そういえば、徹磨と戦った時も、終盤はライジング主体ではなく今日のような守り主体のプレースタイルに変わっていた。あの時はてっきり、徹磨が見せた怒涛の追い上げに対抗すべく方針転換したのだと思っていた。 のちに行われた歓迎会で、聖は「あの時はまぐれだった」と何度も言い訳するように語っていた。確かに、自分でも思いもよらず調子が良く実力以上のプレーが出来ることはテニス選手ならままある。相手が格上である時ほど、まるで相手に自分の力を引き出されるようにしてどんどん良くなっていく。そういえばミヤビも、素襖春菜と試合をするときはいつもそんな感じだった。だから聖のその説明に、そんなものかと納得も出来た。 であるならば、今日のプレーこそが聖の本来の実力ということなのかもしれない。そんな風に考え始めていた矢先、聖は目を見張るような迅速なる駆打を放ち、普段の雰囲気から想像もつかない雄々しさで咆哮した。 人が変わったようにプレーが変わる。 そういう選手は確かにいる。だが往々にしてそれは悪い方、つまり良いプレーが崩れて別人のように悪くなる、という意味で目にすることが多く、その逆は滅多にない。時折、プロで圧倒的に劣勢な状況から挽回するということもあるが、そういうのとも少々印象が異なった。 迅速なる駆打の1ポイント以降、聖はいわゆる専守防衛反撃型のプレーに変貌した。蓮司の全方位万能型スタイルに対し、堅実な守備力で展開を維持しつつ、蓮司が仕掛けたタイミングで倍返しするようなカウンターを決める。 蓮司のスタイルが相手との間合いを的確に読みつつ隙を突く槍術使いだとするなら、聖は素手のまま相手の攻撃を往なし、捌き、躱しながら、必殺の一撃を虎視眈々と狙う近接格闘家のようだ。互いに相手の意図を探り、窺い、隙を探して打ち合い続ける。互いに最善手を打ち続けるようなその攻防は、完成された演舞のようにも見えた。 緊張感を保ちながら、試合は続く。 1ポイント毎にかかる時間が長い。だがお互いに守り合っているから長引いているのではなく、ハイレベルな攻防が続くが故の拮抗状態だ。ふと、ミヤビは蓮司の表情が思いのほか柔らかくなっているのに気付いた。聖に対する対抗心は影を潜め、今目の前のポイントに全ての集中力を注ぎ込んでいる。まるで一球一打ごとに成長しているかのように、蓮司のプレーは良くなっていく。 そんな蓮司の様子を見て、ミヤビは不意に妙な満足感を覚え自然と笑みが零れた。なんの根拠もないことだが、何故か、蓮司に必要だったものがようやく手に入った、そんな気がした。謙虚さであるとか、何かしらの技術であるとか、そういう言語化し易いものではない。なにかもっと別の、彼にとって必要ななにか。 本当はそれを、ミヤビ自身が蓮司に与えたいと思っていたことにもミヤビは気付く。そう自覚した途端、なんだか相手をしている聖に対して、幽かな嫉妬を覚えている自分に思わず苦笑いしてしまう。 そんなミヤビの胸中を余所に、決着の瞬間が訪れようとしていた。 ★ 一見、蓮司はバランスを崩してはいない。 だが、聖はここまでの展開で蓮司の攻防策の根幹の癖を見抜いていた。相手の攻撃に合わせて反撃手を放つだけがカウンターではない。呼吸を読み、隙を探り、虚を突いて仕掛けるのが反撃の極意。蓮司に自分から仕掛けなければ、相手からの攻撃は無いと思わせる布石が、勝敗を分つ場面で正確に機能した。 聖の放った逆手のストレートは、てっきりもう一球凌いでくると思い込んでいた蓮司の逆を突き、蓮司は一歩も動けずにボールを見送る形となってしまった。そのポイントをもって、勝敗は決した。 6ゲームを先に奪った方が勝ちというルールでなければ、蓮司にはもう一度挽回のチャンスが与えられるはずだが、今回はそうではない。お互いに肩で息を切らし、無言のまま視線を交わしている。 蓮司は聖との視線を切り、転がったボールを一瞥する。何か言いたげに小首を傾げると、自嘲気味な笑みを浮かべてネットに向かって歩き出した。それにつられるように聖もネット前へ向かうと、お互いに向き合った。 顔は知っていたものの、いつも少し離れていたせいか、間近で見る蓮司は思っていた以上に小柄で、やや見下ろす形になる聖。この小さな身体で素の自分より遥かに高いレベルのテニスを身に付けていると思うと、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。自分は嫌われているだろうが、これまで彼が培ってきた努力と研鑽に心から敬意を表したいと思えた。 「オイ、見下してんなよ」 言葉とは裏腹に、優し気な声色で蓮司が言って手を差し出す。 聖は慌てて手を拭って、蓮司と握手を交わす。彼の手は熱かった。 「序盤のなんだよ、最初からマジでやれよな。ったく」 握手をしながら、蓮司が不貞腐れながら言う。何か言い訳をしようかと思ったが、先に横で見ていたミヤビが声をかけてきた。 「ナイスゲーム!2人ともお疲れ様!」 負けた蓮司に気を遣っているのか、やけに明るくいうミヤビ。笑顔満面ではあるが、どことなく2人に「さぁほら試合終わったし仲良くしようね~」とでも言いたげな雰囲気が透けて見える。その様子には苦笑いの聖だが、蓮司は気付いているのかいないのか特段反応していない。割と天然なところがあるのだろうか。 「なぁ、お……若槻さ、この後メシ行かね?ミヤビも行くだろ?」 聖はその提案に驚いたが、それよりも絵に描いたように目を丸くしていたミヤビの顔を見たらその気持ちも吹き飛んだ。よっぽど意外なことなのだろう。 「え、え、蓮司?メシ?ご飯行こうって?」 さながら、ニートの息子に「オレ、真面目に働くよ」と告げられた母親のような様子で慌てふためくミヤビ。そんなミヤビの様子を見て何をそんな驚くんだとちょっと不満げな蓮司。仲の良い姉弟のような2人のやり取りは、実に微笑ましかった。 そしてふと、聖は時計に目をやって血の気が引く。 やばい。 「ご、ごめん!オレこの後ちょっと用事が、ホントごめん、また誘って!えぇっと、三日後ぐらいに!それじゃ、能条くん、今日はありがと!雪咲先輩もお疲れ様でした!」 それだけ言うと、聖は大慌てで荷物をまとめ一目散にコートを後にした。 呆気に取られていた二人はコートに残され、何事かと顔を見合わせるのだった。 続く
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