タカヒロさんは顔をしかめながら、左手で右肩を押さえていた。 ユリが向かいのソファーから身を乗り出しながら尋ねる。 「肩、どうかされたんですか?」 「昼間、庭でゴルフの素振りをしてたら痛めたんだよ。さっき医者に行ったら五十肩だと言われてね。腕が上げられないんだよ。やっぱり、年には勝てないね」 「どこの病院ですか?」 「ここから車で20分くらいのかかりつけの所だよ」 「あれ? タカヒロさんも指輪されてないんですね」 ユリの指摘を耳にして、タカヒロさんの左手に視線を注いでみる。 本当だ。左手の薬指には結婚指輪が嵌められていない。 「ああ、さっきまでお風呂に入ってたんだよ」 タカヒロさんは膝の上に乗せた左手を顔の前に持ってきた。手の甲で顔が隠れる。 「確か、キョウ君はずっと付けていると言っていたな」 「そういえば、そんな話をされてましたね」 「サクラもそうだったな」 「そうですね。二人ともずっと付けていると話してましたね」 「あれ? そうなんですか? キョウさん、たまに外すと話してらしたんですけど」 「えっ? 本当かい?」 「さっき、お家にお邪魔したんですよ。その時、そうおっしゃってましたよ」 「おかしいな。確かに、前はずっと付けてると言ってたんだけどね」 「最近、外すようになったんじゃないですか?」 タカヒロさんとカズミさんが首を傾げながら見合う。 これはどういうことだ? 何か、深い意味があるのかな? 「そういえば、あの指輪はサクラの物なんだよ」 「えっ? そうなんですか?」 「うん。キョウ君がそう言っていたよ」 キョウさん、自分のではなくサクラさんの指輪を嵌めているのか。 大切な遺品だからずっと身に付けていたいのだろう。 「ところで、お邪魔したと言ってたね。キョウ君の家にはもう行ったんだね?」 「はい。実は引ったくり事件があったんですよ」 「引ったくり?」 「はい。キョウさんの家を出た直後、目の前で」 「それは災難だったね。それで、どうなったんだい?」 「キョウさんが追いかけて捕まえたんです。すごく速かったですよ」 「捕まえたのかい。キョウ君に怪我はなかったのかい?」 「大丈夫でしたよ。すぐに警部さんが手錠を掛けてくれましたから」 「そうかい。それは大変だったね」 「キョウさんは高校時代、陸上部だったんですよね?」 「そうだよ。私なんか足が遅いから本当に羨ましいよ」 「タカヒロさん、足が遅いんですか?」 「自慢じゃないが遅いよ。昔、会社の同僚達と草野球をやってたんだけどね。ワンヒットで二塁から還れないから、よくみんなに冷やかされてたよ」 「そういえば、運動会でも下の方ばかりだって言ってましたね」 「仕方ないだろ。スポーツは嫌いじゃないんだけどね」 「さて、そろそろ本題に入らせていただきますがね」 海堂警部は口元に拳を当てると、咳払いをしてから話を切り出した。 さっきまでの和やかな空気が一変して、瞬時に緊張が広がる。 「タカヒロさん、今晩はどちらにいらっしゃいましたか?」 「またアリバイですか。仕事から帰った後、ずっと家にいましたよ」 先程までの穏やかな笑顔とは打って変わって、タカヒロさんは溜め息をつきながら真顔で答える。 「ご帰宅されたのは何時頃ですか?」 「6時半頃だと思います。いつも、それくらいですから」 「カズミさん、間違いないですか?」 「はい。テレビを見てましたよ」 一瞬の迷いもなく、カズミさんは首を縦に振る。 「ところで、タカヒロさん。目撃証言によって、凶器が鎌だと判明したんですよ。この家に鎌は置いてませんか?」 「鎌ですか? 鎌なんて置いてませんよ」 「過去にも置いてありませんでしたか?」 「ありませんよ。今も以前も」 「キョウさんのご自宅で鎌を見かけた事はありませんか?」 「記憶にないですね」 「奥様もありませんか?」 「そうですね。私の知る限りではありませんけど」 「差し支えなければ、部屋を見させていただきたいんですがね」 海堂警部がその提案を持ちかけると、タカヒロさんの顔が引き攣った。 見るからに動揺している。 追い打ちをかけるように、海堂警部はソファーから身を乗り出す。 「探すんですか?」 「何か、不都合なことでもありますか?」 「いえ、そういう訳では」 タカヒロさんは歯切れ悪く頭を振る。 「それなら、探させていただいても構いませんか?」 吉野夫妻は互いに顔を突き合わせて無言で相談を交わす。 タカヒロさんは海堂警部へ顔を戻すと首を縦に振った。 「分かりました。お調べください」 「それでは、失礼して」 海堂警部がソファーから立ってクローゼットへ歩いていく。 僕らも後を追って背後から捜索を見守る。 「おっ」 クローゼットを開けた途端、海堂警部は興味深そうな声を上げた。 変わった物を発見したのかと思いきや、クローゼットの中には白いゴルフバッグが立っていた。 「ゴルフをおやりになられるのですか?」 「ええ、唯一の趣味ですね」 「ゴルフと言えば、さっきキョウさんともゴルフの話をしていたんですよ」 「そういえば、この前、ゴルフバッグを買ってましたよ」 「ゴルフバッグを?」 海堂警部が慌てて振り返る。その理由はすぐに見当がついた。 「キョウさんはゴルフをおやりにならないんですよね?」 「そうなんですよ。だから、妙だと思ったんです。でも、最近興味が出てきたらしくて」 「おかしいですな。さっき話した時は興味がないと言ってましたけどね」 「あれ? そうなんですか?」 「ゴルフバッグを買ったというのはキョウさんから聞いたのですか?」 「いえ、買っている所を見たんですよ」 「それはいつ頃の話ですか?」 「おそらく、11日だったはずですけど」 「場所はどちらです?」 「スポーツ用品店ですよ。近所のデパートの中にある」 「ちなみに、色は何色でしたか?」 「白でしたね」 「文字は入ってましたか?」 「ええ、入ってましたよ。じっくりと見た訳ではないので、何が書いてあったかまでは覚えてませんけど……」 まただ。さっきの指輪の話といい、このゴルフバッグの話といい。この二つの矛盾は何だろう? 「ところで、他の部屋も見せていただけますか?」 「サクラの部屋ならこっちですよ」 サクラさんの部屋は落ち着いた雰囲気が漂っていた。 窓は白いカーテンで覆われ、壁際に本棚とベッドが置いてある。 「これ、アルバムですか?」 ユリが本棚の前で左手をかざして、扉の前に立つタカヒロさんを振り返る。 「そうだよ」 「もしよろしければ、見せていただけませんか?」 「構わないよ」 タカヒロさんは笑顔で快諾すると、本棚からアルバムを出してユリに渡した。 ユリが本棚を背に正座して、膝の上でアルバムを開く。 僕とマリとタカヒロさんはユリを囲むようにして座る。 三輪車に乗った写真。公園でブランコを漕いでいる写真。 一ページ目には幼い頃のサクラさんの姿が写っていた。 「あっ……」 不意にアルバムを捲っていたユリの手が止まる。 純白のウェディングドレス姿のサクラさんと、白いタキシード姿のキョウさん。 バージンロードを歩いている写真。 白いウエディングケーキにナイフを入れているケーキカットの写真。 二人でトーチを持ち、ロウソクに火を灯しているキャンドルサービスの写真。 そのページの写真には披露宴の各場面と笑顔の二人が何枚も収められていた。 「たくさん、あるんですね」 「一生に一度の晴れ姿だからね。嬉しくなって、つい何枚も撮ってしまったよ」 「この人ったら、大はしゃぎしてたんですよ。サクラのスピーチの時には途中で泣き出しちゃって」 「泣かないってサクラと約束したんだけどね。守れなかったよ」 カズミさんが冷やかすように笑い、タカヒロさんは切なげな顔で回想する。 真ん中のページにはサクラさんの写真が左右に四枚ずつ貼られていた。 床に座っている赤ん坊の頃の写真。 小学生からは全てソファーに腰掛けた写真。 ページが進むに従って、身長が高くなり、大人になっていく。 十六枚。二十四枚。僕はユリがページを捲るのに合わせて心の中で数える。 写真は次の左ページで途切れていた。上の方に二枚。全部で二十六枚。 「これは?」 「毎年、サクラの誕生日に私が撮ってたんだよ。零歳の頃からずっとね」 「この右の写真が二十五歳の時ですか?」 「そうだよ。その写真だけね、キョウ君が撮ってくれたんだよ」 「キョウさんが?」 「サクラがその写真を持ってきてくれた時に話してくれたよ。私が毎年その写真を撮っていることを教えて、頼んで撮ってもらったとね」 タカヒロさんがサクラさんを愛していたように、サクラさんもまたタカヒロさんのことを愛していたんだ。 親子の絆を実感して胸が締め付けられる。 「だけど、これが最期の写真になってしまったな……」 タカヒロさんは虚ろな眼差しで写真を見つめていた。 呟くその声は、悲しみに溢れていた。 フロントガラスの向こう側で、赤信号が光っていた。 僕は後部座席の右側に座って、ぼんやりとその光を見つめていた。 「ねえ、ユリ。キョウさんのこと、好きなの?」 マリが不躾な質問を投げかけたものだから、僕は急に我に返った。 僕は慌てて左へ顔を向ける。 運転席で前を向いたまま、ユリが素っ頓狂な声を上げる。 「えっ? 好き?」 「どうなの? やっぱ好きなの?」 「好きっていうか、いい印象は受けたよ。優しそうだったし」 「あんまり仲良くしない方がいいわよ。あの人も共犯かもしれないんだし」 「うん。分かってるよ」 ユリがしおらしい声で返事をすると、マリが嫌らしい顔を近づけてきた。 「ユウキ、あんた焼き餅、焼いてたわよね?」 「そ、そんなこと……」 僕は体を引きながらたじろぐ。 右肘が後部座席のドアに当たった。 「誤魔化したって無駄よ。あんた、すぐ顔に出るんだから」 しっかりと観察されていたとは。さすがは探偵だ。 確かに、僕はすぐ感情が顔に出る。 もし明日、世界が終わると知らされたら、明日にも世界が終わりそうな顔をしているだろう。 「そっか。ユウちゃん、焼き餅焼いてくれてたんだ」 僕は逃げるように顔を背けて、窓の外に目を向けた。 隣の車のテールランプが闇の中で赤く光っていた。 メアリーのアイドリング音とエアコンの音が車内に響く。 「あのさ、マリ。指輪の話、どう思う?」 「あれね。別に大したことじゃないと思うわよ。最近外すようになって、そのことを二人が知らないだけじゃない?」 「それにね、ゴルフバッグの話も気になるんだよね」 「あれも買ったはいいけど、やっぱりやる気が無くなっただけじゃない?」 「そうかな?」 やっぱり、ユリも指輪とゴルフバッグのことは気になっていたらしい。 マリの言う通り、取るに足らないことなのかな? 「それにさ、タカヒロさんの肩の怪我も気になるよね」 「そうね。ゴルフの素振りで痛めたって言ってたけど、嘘かもしれないわよね。被害者と格闘になった時に痛めたって可能性もあるし。まあ、医者に話を聞いておいてって、おっちゃんに頼んでおいたし。明日になれば、何か分かるかもしれないわね」 そうか。犯行時に痛めたことを誤魔化す為に考えた嘘という可能性もある訳だ。そこまでは考えていなかった。 「ねえ、ユウちゃん」 ユリに呼びかけられて、窓の外から運転席へ顔を戻した。 バックミラー越しに目が合う。 「ユウちゃんはタカヒロさんとキョウさん、どちらかが犯人だと思う?」 「そうだね……」 目を伏せて考えてみる。 確かに、タカヒロさんはインタビューで物騒なことを口走っていた。 だけど、だからといって本当に殺したとは思えない。 大切な人を失った悲しみと怒りの余り、つい言ってしまったのだろう。 マリは甘いと言うかもしれないけど、僕はそう信じたい。 キョウさんだってとても人を殺すようには見えない。 人は見かけによらないと言うけど、あの穏やかに笑う人が殺人者とは思えない。 「僕は二人とも、犯人であって欲しくないかな。ユリは?」 顔を上げて、バックミラーを見据える。 ユリはバックミラー越しに僕を見つめていた。 「私も同じだよ。二人とも無実だったらいいなって思うよ」 穏やかな微笑みがバックミラーに映っていた。 静寂な車内にエンジン音だけが響いていた。 そう、僕らの願いは同じだ。 二人とも犯人であって欲しくない。 タカヒロさんもキョウさんも、二人とも無関係であって欲しい。
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