ライトノベルのような展開で採用されてから数日後の夜、僕は再び事務所を訪れていた。 今度はここに住み、助手として働く為に。 「ここがユウキ君の部屋だよ」 ユリさんが左手を伸ばして、開け放たれた扉の向こうを示す。 「ちょっと狭いけど、まあ我慢してちょうだい」 マリさんが僕の右肩を叩きながら笑う。 確かに、四畳半の部屋は見るからに狭い。 おまけに薄暗くて、寂しそうな雰囲気が漂っている。 前向きに解釈すれば、秘密基地のような感じもする。 まあ、住めればいいけどさ。住めば都ということわざもあるから。 「あの、おふたりの部屋はどこですか?」 「隣だよ、そこ」 ユリさんは左手の人差し指で左隣のドアを指差す。 それから、上目遣いで僕を見上げる。 「もしかして、一緒に寝たい?」 「いえ、ちょっと聞いてみただけですけど」 僕は慌てて首を横に振る。 そんなつもりはない。いや、ユリさんは美人だと思うけどさ。 「冗談だよ、冗談」 ユリさんは手招きをするように右手を振る。 ユリさんってこういう冗談を言う人なのか。 面接の時の第一印象はお嬢様だったけど、小悪魔的お姉さんな面もあるらしい。 「そうだ。事務室にも案内しないとね」 ユリさんに案内された事務室は見覚えのある場所だった。それもそのはず。 「ここが事務室。この前、ユウキ君が面接を受けた場所だよ」 改めて見渡してみる。デスクの上にパソコンと固定電話。 その後ろにブラインドの掛かった窓。 学校の職員室にあるようなプラスチック製の収納棚。 その棚のフックに掛けられたカレンダー。 テレビ、電気ストーブ。片隅で黒々と光る金庫。 面接の時は緊張していたから視界に入らなかったけど、こうして見ると色々な物がある。 「依頼人さんとか警部さんが見えた時は、いつもここでお話ししてるんだよ」 事務室の真ん中に、黒いソファーが二つ。 その間に挟まれたテーブル。 面接の時、僕らが座っていた場所だ。 「あの、警部さんというのは?」 「警視庁の海堂警部だよ。顔は恐いけど、根は優しくて良いおじさんなんだよ」 「難事件が起きると、いつもあたし達に泣き付いてくるのよ。それで、あたし達が解決してるわけ」 「へえ、なんか、推理小説みたいですね……」 きっと、僕の顔は少年のようになっているだろう。 顔見知りの警部がいて、しかも、捜査協力をして事件を解決しているとは。 感嘆の溜め息を零しながら、感動せずにはいられなかった。 「もし電話が掛かってきたら、白鳥ユリ・マリ探偵事務所ですって出てね。依頼人さんだったら、お名前と住所と電話番号を聞いてメモしてね。そこにメモ用紙があるから」 ユリさんは左手をデスクへかざす。メモ帳と鉛筆が電話の横に転がっていた。 「あっ、はい……」 僕は頷く。 不意に、会話が途切れた。 何か話さないといけないと焦る。 金魚のように、ぱくぱくと口を動かしながら言葉を探す。 「あの、ユリさん……」 「ん? 何?」 ユリさんが振り返る。 僕は棚にかけられたカレンダーを指差す。 「あのカレンダー、いくらですか?」 「えっ? 値段?」 「はい。1500円くらいですか?」 「うーん、値段までは覚えてないよ」 ユリさんは首を傾げる。 今日も腰元まで伸びた金髪はさらさらだ。 「ユリさんが買ってきたんですか?」 「うん、そうだよ。そんなにあのカレンダーの値段が気になるの?」 「あんた、値段マニアなの?」 ユリさんはもっと首を傾げていたし、マリさんは怪訝な顔で両手を腰に回していた。 「いえ、ちょっと聞いてみただけです……」 僕が苦笑しながら首を横に振って、また会話が途切れた。 僕は別に値段マニアじゃない。 もちろん、マンションやアパートの家賃は気になるけどさ。 失敗したかもしれない。電話の話をすれば、もっと会話が弾んだかもしれないのに。 やっぱり女の子と話すのは苦手だ。こんな調子では先が思いやられる。 ユリさんとマリさんとちゃんとコミュニケーションを取れるのだろうか。 不安は募るばかりだった。 目を開けたら、見慣れない天井があった。 ベッドの上で体を起こして、四畳半の部屋を見回す。 タンスがある。電気ストーブもある。 窓へ顔を向けてみれば、朝陽が白いカーテンの向こうから差し込んでいた。 夢じゃなかったんだ。 僕は確かに、白鳥ユリ・マリ探偵事務所の助手として最初の朝を迎えたんだ。 「あっ、ユウキ君。おはよう」 「おはようございます」 台所へ入っていくと、ユリさんが椅子に座っていた。 新聞を顔の前で広げている。僕は頭を下げて朝の挨拶を返す。 「どう? 昨日は眠れた?」 「ええ、まあ。朝食の支度しますね」 食卓に朝食が並んでも、マリさんは姿を現さなかった。 ベーコンエッグの黄身を箸で崩している場合じゃないような気がする。 何か嫌な予感がする。僕は二階を見上げながら呟く。 「マリさん、来ないですね」 「マリはまだおねんねしてると思うよ。ねぼすけさんだから」 ユリさんは顔を上げて僕へ視線を送る。白い皿へ左手を伸ばすと、トーストを取った。 下の方のオレンジマーマレードが剥がれ落ちそうになっているから、少し心配になった。 「朝、弱いんですか?」 「うん。私が起こしても、なかなか起きないんだよ」 「僕、起こしてきましょうか?」 「うん。じゃあ、お願いしようかな」 「はい。行ってきます」 マリさんを起こすべく、僕は台所を出た。階段を登っていき、ドアの前で立ち止まる。 「マリさん、入りますよ」 ノックを二回してからドアノブを握る。 ドアノブはあっさりと回った。 後ろ手にドアを閉めて、ひっそりと近づいていく。 手前にあるユリさんのベッドを横切り、二つのベッドの間に立つ。 マリさんはベッドの中で横になっていた。 枕の上に広がる髪はぼさぼさ。 黄色いパジャマの袖に包まれた左腕が布団から出ていた。 寝顔を眺めていたら可愛いと思ってしまった。 でも、僕が入ってきたというのに一向に起きる気配がない。 「し、死んでる……?!」 僕は思わず後退りながら尻餅を着いた。両手を床に着けながら、わなわなと震える。 いや、死んでいるとは限らない。ちゃんと確かめないと。 僕は勇気を振り絞って立ち上がる。別にシャレじゃない。 抜き足、差し足、忍び足。 忍者のように、ベッドへ接近していく。 「マリさん、朝ですよ」 はみ出した肩を揺すって起こしに掛かる。 「うーん……」 マリさんは眉をひそめながら唸った。 良かった。生きている。でも、閉じた左目が開く気配は無い。 「起きてください」 さっきよりも強く肩を揺する。 手を離して待つこと、数秒。 マリさんはようやく上体を起こして薄目を開けた。 「ふわあ……」 両目を擦りながら大口を開けて欠伸。寝惚け眼で僕を見上げる。 「おはようございます」 僕が朝の挨拶をした次の瞬間、マリさんはこてんとベッドに倒れ込んだ。 「おやふみ……」 駄目だ、こりゃ。 コントのようなやり取りの後、僕らは朝の食卓を囲んでいた。 マリさんはテーブルの上で朝刊を広げながらテレビ欄を見ていた。 僕はもう朝食を食べ終えたから、ぼんやりとキッチンの天井を見上げていた。 「ねえ、ユウキ君はテレビ見る?」 ユリさんに話を振られて顔を下げる。トーストの滓が白い皿に散らばっていた。 あのオレンジマーマレードは剥がれ落ちなかったのだろうか。 「はい。それなりには」 「どんな番組を見るの?」 「映画とかドラマですね。推理ものは必ずチェックしますね」 「やっぱりミステリーが好きなんだね」 「はい。昔から暇さえあれば推理小説を読んでましたね」 「私、何冊か持ってるよ。部屋の本棚にあるから、読みたいのがあったら言ってね」 「はい。ありがとうございます」 「あっ、シリウスの映画あるわよ」 マリさんが午後9時の金曜ロードSHOWを指差す。僕も身を乗り出して覗き込む。 うちのシリウスは犬だけど名探偵だよの劇場版を放送するらしい。 もうそんな季節か。毎年、劇場版の最新作が公開される頃、宣伝の為に去年の作品が放送されるのだ。 「本当だね。3人で見ようか」 ユリさんは背中を曲げながら、新聞に顔を近づける。長い金髪で顔が隠れた。 「そうね。そういや、去年は犬たちのレクイエムってタイトルだったわね」 「うん。ペットショップやドッグカフェが次々と爆破されるお話でしょ」 「助手君、あんたは見たの?」 マリさんは顔を上げて、テーブルの向こうから尋ねる。 だけど、僕は首を横に振って顔を伏せる。 「いえ、見てません。僕、シリウスの大ファンなんですけど……」 「へえ、大ファンなんだ」 「大ファンなのに、映画館には行かなかったの?」 ユリさんは二度三度と頷く。マリさんは不思議そうに目を丸くしていた。 「はい。お金がなかったので。コミックも全部、売ったんですよ」 僕は顔を上げると、にっこりと笑ってみせた。 暗い話だからこそ、努めて明るく言おうと思ったから。 「あっ、そっか……」 「あんた、就職できて良かったわね……」 ユリさんもマリさんも気まずそうな顔で僕を見ていた。 おかしいな。笑って欲しかったのに。 「僕、悔しいんですよ……」 「悔しい?」 「何が?」 「シリウスって最近、劣化してるって言われてるじゃないですか。犬だけにワンパターンって、そう言われてるじゃないですか。だから、僕、悔しいんですよ……」 僕は肩を落としてテーブルを見つめながら項垂れていた。 まるで、犯人だと言い当てられた犯人のような姿だ。 とびきり悲しい音楽を流して欲しい。 そうなれば、泣き崩れる自信だってある。 「ああ、確かに昔の方が面白かったって言われてるよね……」 「そうね。あたしもそれは思ってたけどさ……」 顔を上げて、ユリさんとマリさんの反応を窺う。 ユリさんは苦笑していた。マリさんは腕組みをしながら、唇を尖らせていた。 「そういえば、昨日、難事件が起きたら泣き付いてくるって言ってましたよね?」 「ああ、海堂警部さんの話?」 「おっちゃんがどうかしたの?」 「はい。おふたりは殺人事件も解決されてきたんですか?」 「うん。まあね」 「そうよ。両手じゃ足りないくらいね」 ユリさんは控えめに頷いたけど、マリさんは両手を腰に回しながら鼻を高くした。 やっぱり、殺人事件を解決したことがあるのか。とんだ名探偵たちがいたものだ。 「そうだ。私達、決めポーズと決め台詞もあるんだよ」 「そうそう。今度、現場で見せてあげるわよ」 決めポーズか。そんなのあるんだ。なんか、漫画っぽいな。 「事件が起きたら僕も現場に行くんですか?」 「そうだよ。私のメアリーに乗せて連れてってあげるよ」 「あたしはたまにストリームで行くけどね」 「メアリーとかストリームってなんですか?」 「メアリーは私の愛車の名前だよ。白くて可愛いんだよ」 「ストリームはあたしのバイクよ。赤くて格好いいんだから」 「車とバイクに名前を付けてるんですか?」 「うん。そうだよ」 「だって、名前があった方が格好いいじゃない」 姉妹揃って乗り物に名前を付けているのか。 性格は正反対のようだけど、こういう所は似ているらしい。 「そういえば、ユリさんって左利きですか?」 「そうだよ。お箸を持つのも、字を書くのも、銃を撃つのも左手だよ」 自分の左手に視線を流してから、僕に向かって頷く。 「銃? ユリさん、銃を撃てるんですか?」 「事務室に金庫があったでしょ? あの中にベレッタが仕舞ってあるんだよ」 「銃にも名前付けてるんですか?」 「ううん。私が付けたんじゃなくてね。ベレッタM92っていう、イタリア製の銃があるの」 僕はユリさんが銃を撃つ姿を想像してみたけど、上手くいかなかった。 お嬢様のようなユリさんが銃を撃てるなんて信じられない。 「ユリは一流のガンマンなんだから。ねっ?」 「マリ、ガンウーマンでしょ」 「左利きのガンウーマン、ですか」 「あっ、いいね。その通り名」 何気なく口にした僕の言葉がユリさんの瞳を煌びやかに輝かせた。 「左利きのガンウーマン」 随分と気に入ったらしく、キッチンの天井を見上げながら、言葉の響きを味わうように反芻している。 その隣で、マリさんがテーブルに両腕を乗せながら笑っていた。 「ねえ、あたしのも考えてよ。格好いいの考えてくれたら使ってあげるわよ」 「そうですね。じゃあ、疾風のバイカーなんてどうですか?」 「いいわね、それ! それにするわ!」 マリさんは目を輝かせながら大はしゃぎしていた。 こんなにあっさり採用して貰えるとは思わなかった。 ダサイと笑い飛ばされると思っていたから。 「ねえ、ユウキ君。呼び方ってさ、ユウちゃんの方がいいかな? 嫌かな?」 「いえ、別に嫌じゃないですけど」 「じゃあ、これからはユウちゃんって呼ぶね」 「ええ、はい」 「ユウちゃんを選んで正解だったよ。私達の目に狂いはなかったよ」 ユリさんは両手を腰に回すと、目を瞑った。うんうんと頷いている。 ユリさんにそんなことを言って貰えるとは。最上級の誉め言葉だ。 「洗濯とか掃除とかもよろしく頼むわよ」 「えっ? 全部、僕が洗濯していいんですか?」 「していいっていうか、それがあんたの仕事よ」 「下着も僕が洗っていいんですか?」 「いいわよ。だって、自分でやるの面倒だし」 マリさんは両手を頭の後ろで組みながら目を瞑る。 恥ずかしいことよりも面倒なことの方が勝つのか。 マリさんは細かいことなど気にしない大雑把な性格らしい。 「ユリさんもいいんですか?」 「私は別に平気だよ?」 何か問題でもとばかりに、ユリさんは目を丸くしていた。 いえ、僕が平気じゃないんですけど……。 まだ一日目なのに、早くも眩暈がしてきて目を閉じた。 きっと、僕は面接の時よりも緊張しているに違いない。 僕は黒いソファーに座っていた。もちろん、それだけなら大して緊張はしない。 ユリさんが右に、マリさんが左にいるのだ。僕はユリさんとマリさんに挟まれているのだ。 膝の上で握り締めた拳はすっかり固まっていた。アロンアルファで接着した覚えは無いのに。 「今夜の金曜ロードSHOWは! うちのシリウスは犬だけど名探偵だよ 犬たちのレクイエム!」 男性のナレーションが流れて、僕の心は躍る。 金欠で見られなかった劇場版をやっと見られるのだから。 メインテーマが流れる中、タイトルロゴが画面の中で躍る。 「ユリ、あの男が犯人じゃない?」 マリさんは腕組みを解いてテレビを指差す。 「うん、私もそう思う。ユウちゃんは?」 ユリさんは首を縦に振ってから、僕に顔を向ける。 「そうですね。一番、怪しくないから怪しいですよね」 「シリウス!」 「シンシア!」 シンシアとシリウスがお互いの名前を叫び合う。劇場版のお約束だ。 爆弾が爆発する。火の粉がはじけ飛ぶ。 高層ビルが炎上する。黒煙が揺らめきながら、夜空を焦がす。 さっきから、あの世界は本当に日本なのかと疑いたくなる場面のオンパレードだ。 物語は佳境に入り、犯人が明かされる場面となった。 あの男がビルの屋上に立っていた。 青い月を背にしながら、闇夜に佇んでいた。 あんな青い月、アニメでしか見たことないけどさ。 「犯人は……あなただったんですね……」 シンシアが凛々しい顔で告げると、あの男はゆっくりと踵を返した。 「よく分かりましたね、名探偵のお嬢さん」 あの男は不敵に微笑む。 シリウスはシンシアの右側でお利口さんにお座りしていた。 もちろん僕は知っている。 実際に事件を解決しているのは、あの黒いドーベルマンだ。 「やっぱり、あの男が犯人だったわね」 「うん。あたし達の推理、的中ね」 ユリさんとマリさんは満足そうに笑っていた。 さすがは名探偵だ。フィクションの中の犯人も当てられるとは。 「もう、こんな時間だね」 「映画見てると、あっという間ね」 ユリさんもマリさんも壁掛け時計を見上げていた。 僕も首を曲げる。午後11時だった。 ユリさんがテーブルへ左手を伸ばす。 リモコンを掴んでテレビを消す。リビングに静寂が訪れる。 結局、ユリさんもマリさんもうたた寝しなかったな。 僕の肩にもたれかかる展開を少しだけ期待していたのに。 あの殺人ラブコメ漫画みたいに。 「さあ、お風呂に入って寝ようか?」 「そうね。助手君、覗くんじゃないわよ」 マリさんは唇を尖らせながら釘を刺す。 「の、覗きませんよ……」 僕は苦笑しながら首を横に振っていた。 僕だって男だから、見たくないと言えば嘘になる。 でも、僕は知っている。 覗きは犯罪です。 疲れているはずなのに、ちっとも眠れなかった。 ベッドに入ってから、もう15分くらい経っているはずなのに。 僕はさっきからずっと、暗闇に埋もれた天井を見上げながら物思いに耽っていた。 ユリさんとマリさんと一緒に映画を見られたから。 金欠で見られなかったシリウスの劇場版を、やっと見られたから。 助手としての初日の勤務を無事に終えたから。 どれも正解のような気がする。 そう、助手としての初日の勤務が終わろうとしている。 朝御飯と昼御飯と晩ご飯を作って、洗濯や掃除をして。 午後9時から金曜ロードSHOWを見て。 本当に平和な一日だった。 これから殺人事件でも起きるのかな。 さすがに勘弁して欲しい。推理小説じゃあるまいし。 行く先々で殺人事件に巻き込まれていたら、命が幾つあっても足りない。 僕はマリオじゃないから、命は一つしかない。 100枚のコインを集めたって増えやしない。 僕は両手を布団から出して目を瞑る。 クリスチャンでもないのに、両手を組みながら神様に祈る。 どうか、殺人事件は起きませんように。依頼なら犬探しにしてください。 僕はけっこう犬が好きなんです。 きっと、どんな犬だって探し出してみせます。 ミニチュアダックスフンドも、101匹のダルメシアンでさえも。
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