「キョウ、ちょっと出掛けてくるね」 リビングでテレビを見ていると、サクラの声が背後から聞こえた。 僕はソファーの上で体を捻って振り返った。 サクラは白いワンピースに身を包んでいた。 薄いピンクのハンドバッグを右肩に下げて立っていた。 壁掛け時計を見上げると、8時10分を指していた。 「こんな時間にどこ行くの?」 「なんか、急にケーキ食べたくなっちゃってさ」 「またか。あそこのコンビニ?」 「そう。すぐ帰ってくるから」 数時間後、僕はソファーの上で胸騒ぎを覚えながら壁掛け時計を見上げていた。 10時20分。 サクラが出ていってから、2時間以上が経過していた。 おかしい。いくら何でも遅い。何かあったのか? とにかく探しに行こう。どこかで会えるかもしれないから。 僕はハンドルを固く握り締めながら、ゆっくりと車を走らせていた。 サクラの姿を探し求めて、フロントガラスの向こうに広がる闇夜を見つめていた。 電信柱の前を通り過ぎた時、道端に大きな物体が落ちているのを発見した。 ヘッドライトがその物体を照らし出していた。 闇の中から浮かび上がってきたのは赤い自転車だった。 僕は車を駐めて飛び出し、倒れている自転車に駆け寄った。 道路に横たわっていたのは思った通り、サクラの自転車だった。 ビニール袋が籠の中に入っていた。 袋の中を覗くと、いちごのショートケーキが入っていた。 何でこんな所にサクラの自転車があるんだ? やっぱり交通事故か? 車に轢かれて救急車で運ばれたのか? もし交通事故なら病院にいるかもしれない。 すぐに帰って電話しようと、僕は急いで車へ戻っていった。 点滅せず緑色に光る留守電のボタンは、メッセージが入ってないことを物語っていた。 念のために履歴も見たけど、最初に表示されたのは数日前のものだった。 かかりつけの病院や近くの医療機関にも片っ端から電話を掛けた。 だけど、サクラが運び込まれたという答えは返ってこなかった。 受話器を置いた後、僕は肝心なことを思い出した。 再び受話器を取ると吉野家へ電話を掛けた。 「はい。サクラか?」 電話口から響いてきたのは、お義父さんの声だった。 「お義父さん、サクラが帰ってこないんですよ……」 「サクラが? 帰ってこない?」 「ええ、ケーキを買いに行くと言ったきり帰ってこないんですよ」 「何時頃、出ていったんだい?」 「8時10分頃です」 「もう2時間半以上、経ってるわけか」 「気になったから様子を見に行ったんですよ。そうしたら、道端にサクラの自転車が倒れてて。籠の中にケーキの入った袋があったんですよ」 「まさか、帰り道に交通事故に……?」 「僕もそう思って色んな病院に電話したんです。でも、どこにも運び込まれてないみたいで。警察に連絡した方がいいですかね?」 「ああ、そうしてくれるかい? 何か動きがあったら、また電話をしてくれるかい?」 「はい。すぐに電話します」 それから3日後。 入口の扉を開けると、青い制服姿の男が立っていた。 「どうも警察の者です。重要なお話があるので、お邪魔させていただけますか?」 重要なお話。 その言葉を聞いて、嫌な予感はしていた。 「ええ、構いませんけど……」 僕は不安を覚えながら、ぎこちなく頷いていた。 重苦しい空気の中、僕らはリビングのソファーで向き合っていた。 警官は伏し目がちに喋り出した。 「非常に申し上げにくいのですがね……」 「何ですか?」 僕は前のめりになって話の先を促した。 意を決したように、警官は顔を上げた。 「実はサクラさんらしき女性の遺体が発見されたんですよ」 僕は言葉を失ったまま、呆然と警官の顔を眺めていた。 言葉の意味は理解できたけど、心がそれを受け入れることを拒否していた。 「どこでですか?」 「川に遺棄されてました。殺害されたものと見て間違いないです。身元確認をお願いしたいので一緒に来ていただけますか?」 遺棄、殺害、身元確認。 耳を塞ぎたくなる言葉が次々と警官の口から出てきた。 長い沈黙の末、僕はやっとのことで声を振り絞って答えた。 「はい。分かりました」 警察の遺体安置所へ向かうまでの間、僕はパトカーの中で願っていた。 頼むから別人であってくれと。サクラじゃない、他の誰かであってくれと。 だけど、その願いは叶わなかった。 台の上で仰向けに寝ていたのは紛れもなくサクラだった。 色白の顔は無数の痣で青くなっていた。 「間違いないですか?」 「はい……」 「そういえば、お返ししなければいけない物があるんですよ」 警官は懐に手を入れて透明な袋を取り出した。 中に入っていたのは銀色の指輪だった。 「これは……」 僕は袋を受け取り、両手で包み込むように持って凝視していた。 「そうです。サクラさんが身につけていた指輪です」 僕は袋の口を開けて指輪を摘み取って袋を投げ捨てた。 自分の指輪を外してポケットに仕舞い、代わりにサクラの指輪を嵌めた。 顔の前で祈りを捧げるように両手を組んだ。 悲しみに体を震わせながら、そっと指輪を撫でた。 溢れ出た涙は頬を伝い、いつまでも流れ続けていた。 披露宴ではスーツやドレスで着飾っていた人々が今度は喪服姿で顔を揃えていた。 祭壇の前に整列した誰もがサクラの死を悼み、大粒の涙を流してくれていた。 お義父さんとお義母さんはもちろんの事、学生時代の友人達や会社の同僚だった人達も。 肩を落として項垂れる黒い輪の中、僕は虚ろな眼差しで遺影を眺めていた。 25歳の誕生日に僕が撮った写真。あの写真が遺影になるなんて夢にも思わなかった。 「サクラ、まさかサクラの方が先に逝くなんてな。病気や事故ならまだしも、こんな形で。 ついこの間、結婚式でスピーチをしたばかりなのにな。まさか、それからすぐに悼辞を読むことになるなんて……。 お前の花嫁姿、綺麗だったよ。サクラの晴れ姿を見られて、お父さん本当に嬉しかったよ。 スピーチをしてる時、お父さん何度も泣きそうになったんだ。何とか堪えたんだけどね。それでも、お前が手紙を読んでる姿を見てたらもう限界だったよ。泣くまいと思ってたんだけど駄目だったよ。約束、守れなかったな。 サクラ。お前、本当にもうこの世にいないんだよな? お父さん、まだ信じられないよ。まだ生きてるような気がするんだよ。 どうして、お前がこんな酷い目に遇わなければいけないんだろうな? お前は何も悪い事なんかしてないのに。お前は本当に優しくて良い子なのに。 悔しいよ。お父さん、悔しいよ。本当に悔しいよ。恐かっただろ? 痛かっただろ? 辛かっただろ? お前に酷いことをしたやつらはまだ捕まってないんだ。犯人が逮捕されたら、すぐに墓参りに行って報告してやるからな。 サクラ、二十五年間ありがとう。お父さん、サクラの父親で本当に良かったよ。本当に、本当にありがとう……」 悲痛な表情で何度も声を詰まらせながら、お義父さんは悼辞を読み終えた。 ショパンの別れの曲が流れる中、棺を乗せた車は大勢の弔問客に見送られて走り去っていった。 道路に呆然と立ち尽くしたまま、僕は追憶に浸っていた。 大学一年生の頃、音楽室でサクラのピアノを聴いた事。 その時、彼女が演奏したのが別れの曲だったことを思い出していた。 まさか、こんな形で別れの曲を聴くことになるなんて。 まさか、結婚式を挙げた数ヶ月後に葬儀を挙げることになるなんて。 まさか、夜ケーキを買いに行くという習慣がこんな悲劇に繋がるなんて。 まさか、25歳の誕生日に撮ったあの写真が遺影になるなんて。 まさか、こんな形でサクラを失うなんて。 まさか、まさか、まさか、まさか、まさか。全てが、まさかだった。 もし一緒についていけば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。 もし別の道を通っていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。 もし家を出る時間が少しでもずれていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。 もっと一緒にいたかったのに。 もっと色々な話をしたかったのに。 もっとピアノも聴きたかったのに。 もっと二人で色々な場所へ行きたかったのに。 誰だ? 誰がサクラの命を奪ったんだ? 早く逮捕してくれ。早く逮捕して死刑にしてくれ。 後悔と自責の念。犯人に対する怒りと憤り。 僕は様々な思いを胸に抱えながら、左手の薬指に嵌めた指輪を見つめていた。 あの日、警察の遺体安置所で返して貰った指輪を。 あれから、ずっと身につけているサクラの結婚指輪を。 逮捕の知らせは葬儀から数週間後、リビングでテレビを見ている時に舞い込んできた。 「警察は高崎サクラさん殺害の容疑で5人の容疑者を逮捕しました。逮捕されたのは森嶋マサト容疑者、永田リョウタ容疑者、舟木ケンジ容疑者、横山タクヤ容疑者、小野テツヤ容疑者の5人です。調べに対し、5人は揃って容疑を否認しているとの事です」 僕は怒りに体を震わせて画面に並ぶ顔写真を睨んでいた。 あいつらがサクラの命を奪ったのか。 容疑を否認している? どうせ嘘に決まっている。 犯人はあいつらだ。許せない。許さない。絶対に許さない。 怒りに駆られる僕を我に返らせたのは携帯の着信音だった。 急いで手を伸ばしてテーブルの上の携帯を取った。 電話の向こうから聞こえてきたのは感極まったお義父さんの声だった。 「キョウ君、遂に捕まったね……」 「はい……」 僕の声は涙声になっていた。 携帯を持つ左手が震え出した。 「サクラに報告しに行かないとね。どうだい? 三人で一緒に墓参りに行かないか?」 「そうですね。いつにします?」 「今週の日曜でどうだい?」 「日曜日ですか。時間は何時頃にします?」 「そうだね。二時でいいかい?」 「大丈夫ですよ」 「それじゃあ、二時にはそっちへ行くよ」 「分かりました」 澄み切った青空の下、僕らは墓前に屈み込んで目を閉じて手を合わせていた。 「サクラ、お前に酷いことをしたやつら捕まったぞ。5人もいたんだな。恐かっただろ? 全員死刑になるといいけどな」 墓石に語りかけるお義父さんの声を聞きながら、僕は同じ思いを胸に抱いていた。 絶対に5人全員を死刑にして欲しいと願っていた。 「キョウ君、最近どうだい?」 「まだ信じられないです」 僕は頭を振って墓前に添えられた白い花に視線を落とした。 「帰ってきたら家にいるんじゃないかとか。突然、帰ってくるんじゃないかとか。チャイムが鳴った時、帰ってきたんじゃないかとか。電話が鳴った時、もしかしてサクラからじゃないかとか。これは全部、夢なんじゃないかとか。そんな事ばかり考えてしまうんですよ」 「私もまだ信じられないよ。信じたくないだけかもしれないけどね。アルバムを引っ張り出して、一日中馬鹿みたいに眺めたり。そんな事ばかりしてたよ」 僕はその話を聞いて目を見張った。 僕も同じようなことをしていたから。 二人で撮った写真や携帯に残っているメールを眺めてばかりいたから。 耐えきれない喪失感と虚無感を埋める為に。 「今でも何度も思うんですよ。あの日、僕が一緒についていけばよかったとか。出掛けるのを止めればよかったとか」 「キョウ君が責任を感じる事は無いよ」 お義父さんは怒気を含んだ声で窘めた。 僕は目を見開いて振り返った。 「悪いのはあいつらなんだから。キョウ君が悪い訳じゃない。だから、あまり自分を責めないでくれよ」 「そうですよ。キョウさんは何も悪くないんですから」 お義母さんがお義父さんの肩越しに微笑を向けながらかばってくれた。 二人の言葉は僕の胸を強く打った。 お義父さんとお義母さんだって辛いに決まっているのに。 それなのに、こんな言葉を掛けてくれるなんて。 「はい……」 込み上げてくる思いを胸に秘めながら、僕は涙声で深く頷いた。 「無罪です! 無罪判決です!」 レポーターがマイクを握りながら叫んだ瞬間、僕は言葉を失った。 嘘だろ? 何で無罪なんだ? 体が激しく震え出す。膝の上で両手の拳を強く握り締める。 これで無罪が確定した。もうあいつらが法で裁かれる事は無い。犯人はあいつら以外には考えられないのに。 「許せない……」 怒りと憤りが膨らんでいき、呼吸が苦しくなる。肩で息をしながら掌を見つめる。 僕は電話のベルで我に返った。お義父さんからだろうか。ソファーから立って受話器を取った。 「はい。お義父さんですか?」 「キョウ君……」 受話器から聞こえてきたのは予想通り、お義父さんの声だった。震える涙声が僕の胸を締め付ける。 「キョウ君、私は悔しいよ……」 「はい。僕も悔しいです……」 僕は唇を噛み締めていた。今にも涙が零れそうだった。 「何で無罪なんだろうね。犯人はあいつらに決まっているのに」 「お義父さん、殺してやりたいとおっしゃってましたよね?」 「ああ、殺してやりたいよ。5人とも殺してやりたいよ……」 お義父さんは吐き捨てるように言い放った。その声が耳に残っていつまでも離れなかった。
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