晩夏。 ミンミンゼミと、ツクツクボウシが輪唱を繰り返し、懸命にその短い命を輝かそうとしている。聴いている方は、それが余計に暑さを増させるような気がしてイライラが止まらない。 夏休みのため学校はナシ、ということはない。岡山ユースの選手のために、特別補修が行われていた。チームと提携している学校のため、単位の取得の仕方は一般とは変わっている。それが夏休みに設けられた個別の授業であった。 「おい。一軍の雰囲気はどうだ?」 去年までユースでチームメートだった坂本という少年が話しかけてくる。 「まあまあだな」 岡山はアジア・チャンピオンズリーグ出場権争いに今のところかすっている。 大吾の存在が、他の年配・中堅選手にとって良い刺激となって、普段以上の力を出しているかのようである。まかりまちがえば空中分解して、降格争いに引っかかっていたかもしれないのが現実であるから、まあまあというのはあながち間違いではない。 「俺さ、大学行くよ」 「そうか」 そう坂本が言うと、そう大吾が返した。 現実的な話として、日本の大学サッカーのレベルは侮れない。サッカー部が、実働班とデータ班に別れて、予算の少ないプロよりも設備が整っている大学もある。誰が誰にパスを出し、その成功率。またはどこでパスを受け、どこで捌いたか。そのときの走行距離等を測る装置など多彩な機械が充実している。 実際、J3よりも大学の方が予算が潤沢なのだ。実働班はそのままプロサッカーの表舞台へと進み、データ班はクラブの裏方として就職する。その際に、プロのあまりの予算の無さに嘆くものも多い。 ただ、23歳以下が出場条件のオリンピックは諦めざるを得ない。 プロになって半年で、それまで予選を勝ち抜いてきた高卒のプロ選手を相手に、ポジションを勝ち取らなければならない。よほど飛び抜けた実力でないと、メンバー選考にすら、かすらない。それでも晩成の選手に対しては、一種の防護ネットと化しているのも確かである。 「どこの大学行くんだ?」 「筑波、かな」 「サッカー推薦?」 「……だったら、勉強なんかしてないし!」 笑いとため息が互いに漏れた。坂本の吐く息の濃度は、大吾のそれより3倍ほど濃い。 世界各国では金を稼ぐためにサッカー選手になる。対して日本ではサッカー選手になるために金がかかる。 生きる術と、最終的な就職目標。 その意識の差が、ギリギリのところで出るのであろう。日本がワールドカップで優勝するには、本格的に貧困に陥らないとダメなのであろうか。 大吾のスマホがバイブレーションを起こした。 通知を見ると、『エンペラー・テッタ、引退』という文字が躍っている。思わずフリックしてその内容を確かめる。 ☆☆☆☆☆ 『エンペラー・テッタ』引退 このほど『皇帝』の異名を持つ、来生哲太(59)が引退することがSNSで発表された。 来生哲太選手は『ドーハの悲劇』のときの日本代表のエース。 次節、岡山戦で先発出場し、そのあと引退セレモニーが行われる。 「ここ数年は、出番がなくて自分でもどうしようか迷っていた。還暦までやりたかったが、気持ちが少し途切れてしまった。日本代表の魂というか、そんなものを次世代に残せて行けたら良いと思っている」 来生はプロキャリアをブラジルで開始し、Jリーグで活躍。1998年のワールドカップでは本番直前にメンバーから外されるという事件が起こった。 日本代表通算98試合・58ゴール。 ☆☆☆☆☆ 「サッカー人生もいろいろだな」 坂本の声に、大吾は首肯した。 『エンペラー』は高校へ行く気すらなく、進路調査票にただ『ブラジル』と書いたらしい。 この人がいなければ、日本サッカーの歴史も10年ほど遅れていたかもしれないのだ。またJリーグの成功も危うかったかもしれない。人やものの巡り合わせに運命があるなら、Jリーグの開幕と来生哲太の全盛期が被ったのは奇跡に近い。 「この次世代に日本代表の魂を渡すっておまえのことじゃね?」 「まさか……兄貴だろ」 普段は自信過剰にも思えるときもある大吾。それは弱い自分を守ろうとする防衛本能かもしれない。それでも、日本代表の魂を託す若者と言われて、すぐに自分の顔が浮かんでくるほど今は自惚れているわけでもない。 不意に以前、瀬棚勇也と話したことを思い出した。 『興行としてのスポーツ』 不本意であっただろうが、エンペラーの晩年は『客寄せパンダ』であった。もしかすると、本意であったやもしれない。魅せることがスポーツであれば、エンペラーはそこにいるだけで金をとれる存在であった。 『筋書きのないドラマ』 人間の生き様をサッカーを通してみる。勝敗だけでは計り知れない、スポーツの、サッカーの楽しさがそこにはあるはずだった。 ☆☆☆☆☆ 『皇帝、引退』 その報は、ウィークリー・フットボール社に激震をもたらした。 来生哲太の引退は、いつかは来るはずであった。だが、いつまでも来ないものであるとも思われていた。まるで不老不死を信じているかのようでもある。 来生の過去のインタビューの原稿やら、写真データやらが捜索されている。『来生哲太・引退号』を作るためだ。 ただでさえ、ウィークリー・フットボール社の勤務時間は独特だ。サッカーの開始時間を基軸にしないといけないため、どうしても生活リズムが一般のそれとは異なる。 特に、普通の務め人が休日である土日が彼らの主戦場。ネットが普及した今、どこよりも速く、正確な情報を届けなければならない。 情報とは鮮度が命で、過去のインフォメーションをありがたがる輩は、なかなかにレアである。だが、サッカーマニアとは、過去の報道もありがたがる一種の変人でもある。昔々受けたインタビューが現在・未来においてほじくり返され、『以前、こう言ったじゃないか!』とパズルのピース合わせを楽しむというやり方もあるのだ。 そういう意味では、雨宮凛も変人の類であった。 彼女は仕事が暇なときは過去の自社の雑誌を読みふけり、ワードパズルやらジグソーパズルなどを当てはめて正解を導き出すのが好きであった。 もちろん、現在の自分も大事にしたい。うっとおしいほどに彼女の容姿だけで声をかけてくる軽薄な男とは距離を置き、誠実で中身で判断してくれる恋人がいたら良いな、とは思う。できれば、サッカーの話なんかで盛り上がれたら最高だ。 だが、それは思うだけであって、今日の日課が今月の目標へ、そして今年の抱負へと変わり、彼女の身辺は一向に華やごうとはしない。彼女の努力目標は、依然として果たされそうにはない。 彼女自身も問題で、恋人がいたら良いなとは思うだけであり、具体的に何も行動を起こそうとはしない。そんな暇があったら、サッカー雑誌を読んで、テレビでサッカーを見て、そして実際にスタジアムに足を運ぶことが彼女にとって何よりの喜びであった。 ☆☆☆☆☆ 『エンペラー、後継者を指名⁉』 ☆☆☆☆☆ 『向島真吾を指名、か』 『五輪代表とA代表のエースだもんな』 『まだ二十歳だっけ?』 周りとは裏腹に、その先輩記者が書いた記事に彼女が思いついたのは、なぜか大吾だった。 自分でもよくわからない。 だが、向島大吾はスペシャルな存在である気がする。 錯覚かもしれない。 週末の大吾の活躍で、一喜一憂している自分を発見していた。同時に、その試合の問題点と改善点を大吾に送る。そしていつの間にか、週末は彼の活躍次第で気分の浮き沈みが出て来ることにハッキリと気付く。彼が活躍すれば嬉しい。彼がスタミナ切れで途中交代になれば無性にイラ立つ。 鎮静剤兼覚醒剤。 向島大吾という男は、麻薬の甘美を彼女にもたらす。 凛は毎週、担当のJリーグのチームの試合に足を運ぶ。その都度、岡山の試合経過をネットで確認する。無論、お目当ては38番。だが、38番はゲームを決める働きを行うが、また試合によってはただチームの足を引っ張ることしかできない。それが凛の保護欲をそそる。 (今日は不出来だったけど、ちゃんと睡眠とってるのかしら? 若手選手にありがちな、コンビニ弁当やポテトチップスでお腹を膨らましていたりしないでしょうね?) 38番の一挙手一投足に、彼女の感情は右往左往する。 そして気付く。 (自分はストーカーに近くなってきているのではないだろうか) と。 そして思考を巡らす。 (いろいろ考えるよりも……) そして行動に移す。 「すみません、次の仙台対岡山の試合、私が取材に行きます!」
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