季節は初夏となった。 太陽高度は90度に近くなり、緑に染まった並木道が陽炎のためかゆらゆら揺れている。季節性低気圧の進出により雨も多くなり、サッカーの試合でも合羽を用意している観客が多くなった。 大吾の帰りが遅くなったのは、練習の終わりにゲリラ豪雨が降ったからだ。クラブハウスで傘を借りようと思ったが、控えてある傘がない。 ――まあ、そんなに急ぐこともないか ラウンジで雨が収まるのを待っていたところ、先輩選手が『車で送っていってやろうか?』と言ってきたが、断った。たまには、こんな自然に身を任すのもいいではないか。 断られた先輩は少し気分を害したようであったが、それほど深刻でもない。大吾のチームの立ち位置が決まって来たからでもある。 チーム内での序列は最下位。だが実力自体はそれなりに認められて、スーパーサブとしてしての地位は確立している。キャプテン・利根と八谷とを触媒として険悪な雰囲気も大分薄れてきた。 椅子でゆらりゆらりとリラックスしていると、1時間半も経っていた。雨は止み、まだ明るい夕日が微睡む眼を突き刺している。 帰宅の途中の水溜まりを避けることなく、ぴちゃぴちゃと歩みを止めない。近くを歩いていた幼稚園児が、ジャンプでその水溜まりに飛び込んできた。飛んでくる水飛沫をアスリート特有の俊敏さでかわすと、母親であろう女性が謝って来る。 「大丈夫ですよ」 というと、その女性は大吾の正体に気付いたのであろう。幼稚園児も、大吾のファンであったようだ。 「大吾選手だ!」と言ってすり寄って来る。 少しずつ、サッカー選手として認められてきているのを感じた。人々の認知が増してきて、街角で呼び止められる。 ――これが、サッカーで生きるということか たとえば、演技で生きていきたいという人物がいるとする。人を演じるということで、生きていきたい人。その人は人気が出ることを喜ぶであろう。 だが、プライベートを極端に削られることも諾とするのであろうか。芝居の道を究めたいとは思うものの、それは芝居以外の生活を切り取ることでもあるはずだ。 ――私人としての自分を殺すことではないだろうか 上を目指す。 頂点に近付く。 それは足場がだんだんと削られていくことを示す。 ――友達も選ばなきゃな プライベートな写真を低俗な写真誌に持ち込まれて、物議を醸した選手が何人いただろう。ときには提訴されたり、したり。そういうものは大吾の望むものではなかった。 寮に戻り、夕食を取ろうと食堂に入る。 そこには普段いるはずのない、でかいガタイをした男が白飯を掻っ込んでいた。 「お帰り、大吾。野宮舞と別れたんだって?」 「クソ・ユウヤ。第一声がそれかよ」 「まあ、俺もモーションかけてたのに失敗したから。これで、おあいこだ」 「なにがおあいこだ、クソ・デカブツ」 久しぶりに会って『クソ』と名前に枕詞を付けても、関係は壊れない。憎まれ口に対してデコピンを繰り出すと、軽いボディブローによってそれは報われる。これこそ、選ぶべき友達であるはずだった。 「なんで秋田に行ったやつが、岡山の寮で飯食ってんだ?」 「ああ。親父の墓参りと、今度岡山と対戦する試合でプロデビューになったからな」 「それはそれは……」 「寮に顔出したら、おばちゃんが飯食ってけっていうし」 瀬棚勇也。 中学まで、岡山ジュニア・ユースに所属していたディフェンダー。今では、アンダー世代のキャプテンを務めている。 大吾も13歳まではアンダー代表であった。それは過去の話で、成長がストップしたときから代表からは離れている。 勇也は13歳で父を失った。 母は故郷である秋田に戻ろうとしたところ、勇也が抵抗した。サッカーを通じて作った友達を失いたくないからだ。 ユースの手垢も付いている。岡山も将来有望な若手を失いたくない。だが、勇也は母親をひとり放って残留することを結果的に望まなかった。 勇也も秋田でプロ契約を勝ち取ったらしい。 携帯電話にメッセージで連絡が来たし、ウィークリー・フットボールのアンダー代表特集で隅っこに載っていたからだ。 瀬棚勇也は身長が止まった時に大吾の可能性を信じてくれた数少ないチームメートであった。 数年ぶりに会って悪口雑言を放っても、毎日会ってるかのように振舞える。貴重な存在であるはずだ。 食堂に備え付けられているテレビでは『興行としてのスポーツ』という番組を放送している。 『観客を沸かすために、魅せるプレーをするのは如何なものか?』 ということだ。 『野球で敬遠せずに、ホームランバッターに勝負を挑む』 『テニスで得点が入ったときに咆哮して観客を煽る』 『サッカーで背中でトラップして、意外性のあるプレーをする』 そういうことが語られていた。 中でも還暦近い選手が、もうスポーツ選手としての盛りを越しているのにもかかわらず、客寄せパンダとして未だに現役を続けていることを特集している。 「すごいに決まっている」 「そうだな」 大吾と勇也の意見は、長年顔を合わせなかったのを打ち消すかのように相通じた。 「普段の試合しか見てないからだ。5分の出番のために、毎日どれくらい努力しているか。そのプロ意識だけでも尊敬に値する」 大吾が言った。 「客寄せパンダも人気あってのことだしな」 勇也の言葉に、大吾の頭の中で少し符号がいった。人気というのも『選手の格』を決めるのだ。実力ばかりではない。その選手の持つ格・オーラがその選手の価値を高めるのだ。 街で出歩けなくなるというのは、それが世に認められた証なのかもしれない。 「プロサッカー選手はなくてもいい職業だからな。見てくれる人がいなけりゃ、収入もゼロ」 勇也の言うとおり。 世界大戦などが始まったら、真っ先にプロスポーツは消えるであろう。ワールドカップなぞ持ってのほか。文明の利器がもたらした『平和の祭典』なのである。 「それで墓参りは済んだのか」 「ああ」 「何を報告したんだ?」 「プロサッカー選手になれました。それと……」 「それと?」 「あなたの息子は190cmを越えました、と」 勇也が席から腰を上げる。 完全に、勇也は大吾を見下ろしている。見下しているとも言っても過言ではない。 「大吾、やっぱり体格も才能だよ」 「秋田には158cmのベトナム人、グエン・バン・ヒューも居るのに?」 「あの人は、マラドーナとかそういう類だ。けど、おまえは……」 明かりを灯さない、濁った目が大吾を捉える。 下がった首の角度。そこから繰り出される憐れむような突き刺す視線。 「おまえはその才能がちょっと足らなかった」 ――何を言っていやがる…… 大吾の両眼は、その視線を思いっきり捕まえていた。 わかりきっているはずだ。空中戦で大吾が勇也に叶うはずはない。そもそも身長で弾かれるスポーツもある。168cmの大吾が野球のドラフトに引っかかるはずもないし、バスケでセンターをやれるはずもない。 サッカーという競技は、すべてにおいて平等であるはずだ。 手を使ってはいけない・オフサイド。 それを除いて小難しいルールは数少ない。 いつだったか、勇也とともに行ったトレセン講習。 そのときの座学で言われたことがある。 『サッカーという競技には、大きい、小さいは関係ないんだ』と。 大吾が激昂を内心で収めながら言う。それでもその言葉は強く、鋭く言い放たれた。 「俺の才能の限界を、おまえが決めるな!」 試合の場ではないのに、トラッシュトークが繰り出される。 有り体に言えば、他人に自分の道を強制される。世間知らずのお嬢様でも嫌うことだ。それが一度、道を決めたはずの向島大吾ならどうだろう? ――俺の尊厳を馬鹿にするな! 言葉が出てこない。それを示す語彙が枯れ果てている。使える言葉が浮かんでは消える。 「フィジカルで世界で成功した日本人選手はいない。中田英寿さんくらいだ」 勇也は握りこぶしで胸を叩いた。 「俺はふたりめになるぞ、大吾。注目されだしたおまえを完封して、上を目指す!」
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