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 教室では、数学教師が黒板に数式を書いている。数学は芸術だと言う人もいるが、自分にとっては不可解なパズルにしか思えない。  それよりかは、どうせ授業を受けるのであれば語学を学びたかった。  スペイン語。ポルトガル語。イタリア語。フランス語。英語以外でも、学びたい言語は多い。プロサッカー選手であれば、だれもがそう思っているはずだ。  現地の言葉を覚えずに、ボディランゲージとジェスチャーだけでやっていくのか? それでチームメートと完全に意思疎通が図れるのか? 真にサポーターに愛される存在となれるのか?  野宮舞に数回連絡を入れたが、無視されている。既読スルーなので完全な無視とは言い難い。わかったうえで、連絡をしてこない。  だから余計に心が惑わされる。  左足が疼いた。それが同時に、あの試合が現実であったのだと、頭をはっきりとさせる。 『日本の救世主、誕生!』  という記事も出たが、それほど一般的でもないようだ。普通に街を歩いて、学校に通えているのが実際のところだからだ。  ひとりにだけ写真を求められたが、それだけだった。クラスメートも一瞬騒いだが、一度日曜日を跨ぐと話題になることもなくなった。  地上波テレビでは、Jリーグの情報は極端に少ない。スポーツコーナーでは、重要な試合のゴールダイジェストが流されるだけ。大吾も『将来、日本代表に入るかもしれませんね』と10秒ほどで済まされた。  一方、欧州サッカーはそれなりに取り上げられている。 ――この熱意のなさはなんなんだろう    一時期はJリーグは、日本で一番人気であるコンテンツであったはずだ。  元ブラジル代表の左サイドバック、悪魔の左足ことロベルト・カルロスも、最盛期の移籍の候補にJリーグが入っていたと聴く。  実際、現役ブラジル代表もJリーグに一時期は来ていたはずだ。  現在では、Jリーグの選手が日本代表に選ばれると驚かれるほどだ。  驚かれるだけならまだいい。代表に選ばれても、だれかわからない、という人が大半だ。サッカーをする人は増えているが、Jリーグは地盤沈下している。  海外サッカーが簡単に観戦できるのがその要因だろうとは思う。事実、大吾もプレーの参考にするのは海外の選手だ。サッカー選手として認められるには、海外に出ることは必須科目。  ましてやバロンドールを目指すのであれば、最高峰のリーグに移籍しなければならない。  野球の選手もだいたい同じらしい。一流選手と認められるには2000本安打や200勝が必要。ただ、ドラフトに引っかかってプロ野球選手であっただけでは尊敬は勝ち取れないらしい。またそうでなければ、引退した後の講演などの依頼料も変わってくるそうだ。 ――引退?  頭に浮かべて、可笑おかしくなった。自分の現役生活は始まったばかりだ。セカンドキャリアを考えて、プレーするには若すぎる。  だが、事実としてプロサッカー選手の引退は26、7歳と言われている。燃え尽きるには早すぎる。  だが、引退した後は燃え尽きてしまうのであろうか。20年後には、自分は灰となるのであろうか。  そんなことを考えていると、メッセージを受信した。野宮舞からだった。 『話したいことがあるから、会いたい』  待ちわびて心が躍るメッセージのはずであったが、不吉な感覚を拭えない。 『いつ、どこで?』  と授業中にもかかわらず、すぐ返信をする。 『学校終わりに、いつもの公園』  1分と経たず返って来た。そのあまりの迅速さに、話したいことというのがあまりいい話ではないことを直感する。 「そういうこと、なんだろうな」  出た言葉に、教師が一瞥したので、はっと口を片手で抑えてしまった。 ※※※※※  公園に辿りつくと、野宮舞はベンチに腰掛けている。  ショートカットに、白いブラウス。控えめな双丘はそれでも彼女が女性であることを強く自己主張していた。  手を振りながら近づいてきて、飲みかけの缶コーヒーを渡される。 「飲むでしょ?」  受け取った大吾は、口に付けてその苦みを感じる。どうやらブラックコーヒーであるようだ。だが、これから話される話よりも苦いわけではあるまい。 「別れ話?」  つい口に出てしまった。 「どうだろ」  そう返される。 「そもそもちゃんと付き合っていたのか、どうか」  野宮舞とは中学1年の時に知り合った。入学式が終わった後、目が悪いという女子の代わりに席替えで隣同士になった。  自分はユースと提携している高校、彼女はお嬢様学校へと進学したため、接点は急激に減っている。ロミオとジュリエットとの逆とでもいうのだろうか。離れた距離は会う頻度を減速させている。   「サッカーってすごいねえ」  そう彼女が述べた。 「ひとりで名古屋まで行ったんだよ、私」  あの異様に熱狂的な観客席の中に、このお嬢様が混じっていたとは。その行動力。経済力にも驚きを感じ得ない。 「Jリーグ、舐めてた。あんなに熱量を感じるものだとは思わなかった。海外のサッカーの真似事だと思ってた。そしたら怖くなった」 「怖い?」  Jリーグは過渡期だ。そこで起きる熱狂や、情熱、事件などは海外とはまだ比べ物にならない。  海外では、賭け賭博・八百長・マフィア・宗教上の対立・殺人事件などが絡んでくる。世界最大のスポーツであるサッカーという競技の規模が、そういう坩堝を過熱させる。  逆に興味がない、または近寄りたくないという人にとっては、余計に厄介だ。ドラッグに似ている。違法ではあるが、嗜好者にとってはそれはどんな大金を出しても惜しくはない。 「自分のパートナーであるはずの男性が、こんな熱量をみんなにもたらすってことが」  なんだ? 何を言っているんだ? 「私さ、普通に主婦をやると思うんだ。日本でね。たぶん、ひとりで自立して生きて行けって言われても無理」  大吾が頷いた。そうかもしれない。  時代錯誤かもしれないが、舞の学校は戦前の良妻賢母を目指す女学校の流れを組んでいるはずだ。生活を男に依存したやり方だとは思う。  だが、その行動力。やる気がないだけで、彼女はひとりでも生きていけるのではないだろうか。 「大吾は日本を出ていくでしょ?」  また、頷く。 「こんなにすごい歓声や、拍手を求められる人を、私は相手にできないよ」  よくわからない理屈だ。実際、そう口に出した。 「もちろん、こんな質問するわけないけど……サッカーと、私のどっちかを選べって言われたら、あなた、一顧だにせずサッカー選ぶでしょ。サッカーしてない大吾も好きだよ。そう言われたら、たぶんそっちから別れ話すると思う」    拳が強く握られる。爪が手のひらにめり込んでいるかもしれない。同時に、汗がその掌中からぬめりだす。 「言われる前に、自分から言うってこと?」 「そうかもしれない」  そして続ける。 「サッカーなしで生きてって言ったら怒るでしょ?」  そうか。舞はずっと先まで考えていたのだ。  一過性の付き合いではなく、先を見越した付き合い。もしかすると、結婚すら考えていたのかもしれない。  だから、夫になるべき男の職業がサッカー選手であることに。異様に持ち上げられ、ときには家族すら叩かれる可能性があることに不安を感じたのだろう。 「大吾はさ、自信家だよね」  彼女を見ると、顔をそらしている。言いにくいことを言うのであろう。 「でも、本当は人一倍臆病で卑屈。出会ったときにわかっていれば付き合ってなかった。でも今はそれすら愛おしいかもしれない。サッカーに拠り所を求めてるでしょ? だからいつかきっと、私の隣からいなくなっちゃう人なんだ。あなた、自分の命を身体を削ってサッカーやっちゃう人なんだ。たぶん10年後には消えてなくなる。そんな人のこと、好きでいたら辛いよ……」 「それは……」 「流しているのは、汗じゃなくて血。削られているのは足じゃなくて、命そのもの。雑巾を搾り取るかのように、身体から精気が失われていく。短ければ27歳くらい。長かったら40歳くらい。そのあと、大吾は廃人になるの?」  彼女の感性は鋭く、間違ってはいない。大吾はサッカーがただ単に好き、というだけではないからだ。サッカーが巧い、ということで他人からの承認欲求を満たそうとしているのかもしれない。  究極的なことを言えば、世界最優秀選手賞・バロンドールはその名の通り、世界最高の承認欲求を満たすものであるはずだ。  だが魂の置き場と、承認欲求とはまた違うものだ。そういう意味では、どうしようもなくふたりの感性はズレている。  いつかは、離れるはずである。それが今だというだけだ。 「プロサッカー選手にならなくても、大吾のこと好きでいるよ。でもそっちはそうじゃないでしょう? 40歳より前にいなくなっちゃう人を、好きでいなきゃならないの?」  言われてしまった。  魂の在り処が、違う。燃え滾る想いを共有しようとするのであれば、彼女は沸点を越えて蒸発してしまいそうだ。 「サッカーに没頭してれば、大吾は日本の平均所得を大幅に上げるね。でもヘディングのやりすぎで健康寿命が下がって、せっかく稼いだお金も使う前に死んじゃうかも」  ひどいジョークだと、頬をかく。陰鬱な気分を紛らわせたのは確かだ。少しだけふたりとも表情が穏やかになる。  ため息のような笑い声が風のようにふぅっと出た。 「男はフォルダに入れて保存、女は上書き保存って言うでしょ? あれちょっと違うと思う」  うん? と大吾は首をひねる。 「男の人は今の自分に納得がいかなくて、その弱さにときどき過去の栄光を思い出すだけ。女の人は強いから、過去を完全に消し去ることが出来るんだと思う」  のほほんとしたお嬢様だと思っていたが、そういうことを考えていたのか。  女性の底深さに、うすら寒ささえ覚える。 「大吾。君も明日になれば、忘れ去られる過去、なんだよ」  男としてだろうか。  人間としてだろうか。  フットボーラーとしてだろうか。  自分の存在そのものを、脳裏に焼き付けてやりたい。自分が、自分の選んだ人生に於いても主役ではないなどとは考えたくもない。  他人の記憶に残るような、生き方。  それもまた、ただの承認欲求かもしれなかった。

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