スタディオ・レナト・クーリには強い風が吹き、発煙筒の煙が海に揺蕩う小舟のように揺られていた。 満員のスタジアムからは怒号に近い歓声が聴こえるというよりかは、罵声を浴びせられるような感覚であり、日本のスタジアムではここまでの敵意、もしくは殺意を感じることは出来ないであろう。 イタリアが都市国家に分裂して争っていたときの名残が、そこにはまだ残っている。日本が単一民族の国であり、民族の男系を根絶やしにする宦官を必要としなかった世界史との違いもそこにはあるかもしれない。 大吾は歴史を肌に感じ、イタリアでの初戦を開始しようとしている。 グラン・トリノ。 セリエA9連覇中の絶対王者。 イタリア代表のエースFWジャンパオロ・サーラ。 フランス代表の司令塔MFリュカ・バラン。 オランダ代表の守備の要MFルーク・ファン・ヒンケル。 ウルグアイ代表DFパオロ・フランコ。 ブラジル代表GKコインブラ。 これらのスーパースターを擁する多国籍チームだ。 対するペルージャFCは 両ウイングに、U21イタリア代表のルシアーノとエリベルトのボナッツォーリ兄弟。 センターバックに、元イタリア代表の176㎝の比較的小柄な36歳のキャプテン、マッシモ・パンカロ。 ゴールキーパーに、ネクスト・ブッフォンと呼ばれるペトラーキ監督が『こいつが残留したのが一番の補強』と呼ぶファビオ・サルヴェッティ。 などがいる。 そこへ、ボランチに守備と攻撃の割合を7:3で期待されている197㎝の瀬棚勇也。 センターフォワードとして、168㎝の向島大吾が極東から輸入された。 『ポジションが逆だろう』と手厳しくイタリア・メディアはこれでもかと叩く。 『168㎝のプリマ・プンタ! 彼は現代のロマーリオなのか?』 予想されていたこととはいえ、大吾は、いやプロフェッショナル・フットボーラーは結果で黙らすことしか出来ないのだ。 日本のメディアも中田英寿が来たときほど、ふたりに注目しているわけではない。パイオニアであった中田の時代とは違い、今では海外組は溢れすぎていて、そのすべてに専属メディアが付きまとうわけではないからだ。 それでも、日本人選手がいるペルージャFCの初戦がホームのグラン・トリノというのは、20年以上前から欧州サッカーを追いかけている者には、昔懐かしき郷愁を感じさせるには充分であり、注目度はそれなりに高い。 練習試合では大吾は準備が不十分であった。なにしろパスが廻ってこない。 戦術の問題ではなく、チームメートの問題、そして人種の問題である。 イタリアでは未だに人種差別が多い。黒人、アジア人、そして同胞であるはずのイタリア南部人に対してもである。今でも数多くの北部のイタリア人は南部のことを『遅れた地域』『北の発展にすがるだけの経済的無能』と思っている。 1990年ワールドカップ、イタリア対アルゼンチンにて当時ナポリ所属のマラドーナは南部の人間に『アルゼンチンを応援し解放されること』を望んだ。しかし、南部の人間はアルゼンチンよりイタリアを選び、PK戦によってイタリアが敗退することによってマラドーナとイタリア南部の関係は破綻した。そしてマラドーナはコカイン常習の問題もあり、イタリアを後にすることになる。 イギリスとアイルランド。 マドリードとバルセロナ。 そして日本と朝鮮半島。 現地の人間にしかわからない問題である。 日本人がイタリア半島の問題に首を突っ込むのは、皮膚感覚では実感できないであろう。 『アーモンドアイ』のふたりの青年は、試合前の写真に肩を組んで収まっている。歪な凹凸がフラッシュで焚かれ、その体格の差がカメラの明滅によって、よりはっきりとスタジアム中に認識された。 『テレビでしか見てこなかった選手』に、大吾は一瞬心を持っていかれそうになってしまう。 ――あとでユニフォームを貰おうかな…… しかし、彼らは今は敵なのだ。 気を緩めるには、90分とハーフタイム、そしてアディショナルタイムの分だけ早い。 「少し、互いのプレーに慣れるまで、時間がかかるかも」 勇也がそう言った。彼は13歳までは、大吾のチームメートであったのだ。 「おまえを味方で迎えるのは、何年ぶりだろうな……こんなデカいのが敵だったなんて、俺もよくやっていたぜ」 大吾は、サムズアップと同時に悪態をつく。 試合勘はJリーグの試合からすぐ、ペルージャのキャンプに合流したため、悪くない。 むしろ、少し疲労感が残るくらいだ。 あとは瀬棚勇也以外からパスを引き出せるかどうか。 ペトラーキ監督が自分に何を期待しているのかはわかっているつもりだ。 最前線のハブ。 だが、ハブにボールが回って来ないことにはしょうがないではないか! キャプテン、地元出身のマッシモ・パンカロが何か言っている。 週一でレッスンを受けてはいるが、リスニングはまだまだ完璧とは言い難い。 通訳がそれを訳す。 「ダイゴ、ユウヤ。君たちにこの試合はかかっているぞ!」 ――何を言っているんだ? だったらボールを俺によこせよ! 負けたときの責任を、もう言っているに過ぎないのではないか? 降格したときの責任を、すでに背負わせようとしているのではないか? サポーターの憎しみを新外国人に向けさせようとしているのではないか? スタンドを見ると、そのふたりのアーモンドアイを真似するために、移籍してきたばかりのときのチームメートと同じく、両眼の端を引っ張ってアジア人を揶揄している観客がいる。 日本人が白人を表現するときに鼻を高く見せるために『付け鼻』をするようなものなのだろう。これは欧州での日常風景、日常茶飯事だ。これくらいで、いちいちイラついていては、ヨーロッパでアジア人は暮らしていけない。 パンカロは両手を打ち鳴らして、味方の士気を高める。 大吾には、それが一か月前までの主将・利根を連想させた。キャプテンというのはどこの国もやることは同じらしい。 しかしペルージャのチームメートは全員、誰もこの試合で勝ち点3を取れるとは思っていない。 勝ち点1すら難しい。3失点しなければ儲けものだろう…… 「セリエAに昇格したばかりのチーム。1部残留が目的のチームに、バロンドールを目的とする野心丸出しのアジア人選手を一滴混ぜる。果たしてどういう化学変化が起こるのかな?」 ペトラーキ監督が笑った。 彼にとっても、これは試金石。大吾よりも高額な選手が買えるチームからもオファーが来たところ、残留した。自分が2部から1部に上げたチームに愛着を持っているのだ。 1部で連敗が続けば、彼の立場はオーナーによって一気に覆るだろうけども。 大吾は、両足で速くステップを繰り返した。 欧州の土は粘土質だ。日本と比べて、グリップを得るのにもっと踏ん張らなければならない。 それはフィジカルがない向島大吾という人間に、よりパワーを求めることになる。 緑の芝が数本、風に揺られて宙を舞う。 強風になびかれたそれは、スタジアムの上空を彷徨い、やがて大吾の視線から消えた。 大吾はスイッチを強制的にONにする。 だが、ボールとの距離はまだ果てしなく遠い。 手招きしても応じることのない、猫のように気まぐれな彼女を振り迎えせるには、やはり自分から赴かないといけないのだろう。 ――何分かかる? それまでに試合が終わってないか? 不安に思う大吾を除けたかのように、試合開始のホイッスルが鳴った。 最前線で動き回るハブ。大吾に与えられた役割だ。 思いっきりランニングを開始する。物理的に、そして精神的に。 彼女へと薔薇の花束を送り届ける、イタリア式の情熱的なアプローチ。 疲弊した夏の終わりの薔薇を、彼女は喜んでくれるだろうか。 アンカーに入った勇也が、大吾にボールを回した。 グラン・トリノディフェンダーのプレスは速い。日本では体験したことがないスピードであった。 敵のプレッシャーが早い一方で、味方のサポートはそれほどでもない。チーム力の差が激しすぎるのだ。 Jリーグは上位から下位までその実力は均衡していると言われる。だが、欧州でははっきりと優勝争いするチームと、残留争いするチームとでは残酷なまでに差がある。 だから、勝つよりも負けないカルチョが求められている。 ――まだ領域には入れない…… そう思った大吾は、来たボールを左ウイングのエリベルトへとはたいた。 エリベルトにもすぐハイプレスが襲い掛かり、トランジションが行われた。 リュカ・バランがボールを持つ。 『新たなる将軍』の異名を持つ、ジネディーヌ・ジダン2世と呼ばれる選手だ。 懐の深いボールキープを行い、めったに奪われることがない、今では絶滅危惧種のトップ下の司令塔であった。 当然、ペルージャはボールに触れることすらできない。 そのバランをサポートする役割のファン・ヒンケル。 彼が黒人ならではのスピードでバランを追い越した。そこにバランがスルーパスを送る。 日本では見ることのできないパススピード! それをファン・ヒンケルは得意の左足ミドルシュートを放った。地を這うようなシュートがペルージャゴールを襲う! ゴールキーパー・サルヴェッティは、ゴールの外へ弾き出すのが精いっぱいだった。 むしろ、サルヴェッティであればこそ、このシュートを防げたと言っても過言ではない。 バランが左コーナーキックを蹴ろうとしている。 ボールを手に持って、クルクルと回転させスポットに置いた。 速く、鉛筆でシュッと線を引いたようなボールは、軽くジャンプしたイタリア代表のエース、ジャンパオロ・サーラの頭をとらえる。 ボールは少し、角度を変え、ゴールネットへと綺麗に吸い込まれていった。 0-1! サーラは両手を後ろ向きにペンギンの様にパタパタさせ、舌を出しながらゴール裏のグラン・トリノ・サポーターの元へと奔り寄る。 ペルージャ・サポーターでさえ『良いものが見れた!』と拍手を送っている。はなからペルージャがグラン・トリノ相手に勝つとは思っていないのであろう。地元のチームの応援、というよりかは相手チームのスーパースターたちを見物に来た。そういう感じなのだ。 逆境が、向島大吾という人間の内なる炎に薪をくべる。 しかし、ハーフタイムを迎えた頃にはスコアは0-3にまで動いていた。
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