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 岡山のキックオフ。  真吾がいつも通りに、ロドリゴ・器楽堂きらくどうへとバックパスをする。  中央に位置した大吾は、攻撃時にもかかわらずラファエウへと密着した。  そして――ボールをくれ! と左手を挙げる。  ロドリゴ・器楽堂も、この試合の意図・・は解っているつもりだ。ルーキーながら11得点14アシストを記録しているこの若者の成長のために、捨てる試合・・・・・だ。  ひとつひとつを懸命にやるのがスポーツ選手。プロであるならば許されない、フッチボーサッカーを行うことにロドリゴは拘らなかった。  シーズン当初は、このルーキーに対して反感しかなかった。  だが、今ではプロフェッショナルとして、この若造が辿り着くことが出来る場所を見てみたい。そして、出来ることなら、彼と同じ景色たかみから、下を見下ろしてみたい。  大吾の熱意プレーは、ロドリゴ・器楽堂の氷の精神をいつの間にか溶かしていた。 「ワンオンワン ガ ヤリタインダロウ?」  少し呆れたかのように、ロドリゴは大吾を見やる。  ラファエウ・サリーナスは、ブラジルでは愛憎半ばといったところだ。  ブラジル代表を捨て、二重国籍を獲得し、スペイン代表へと寝返ってよりにもよってワールドカップを取ってしまった。直近でワールドカップを獲得した唯一のブラジル人兼スペイン人である。  ロドリゴ・器楽堂は、以前はこの男に対して負の感情を持っていた。  だが実際に相対してみると、偉ぶることのないファベーラスラム街の親戚の兄ちゃんといったところだった。 『こういう生き方もあるのか』  ここ1年で、ある感情が芽生えてきているのを自覚していた。  ある兄弟がもたらしたものだ。 『セレソンブラジル代表ではなく、サムライブルー日本代表のユニフォームに袖を通したい』  ロドリゴは日系ブラジル人である。  日本に対して郷愁がゼロかと問われれば、それは否だ。帰化条件も満たしつつある。漢字もいくらか読めるようになってきた。  向島兄弟は、日本国外へ行く。それは確かだ。  彼らとまた一緒にプレーしたい。まだ一緒にプレーしたい。  自分に日本以外のオファーはない。現実的に考えるのであれば、自分が日本代表を目指すべきであろう。  ロドリゴは大吾へとパスを出す。  もう八谷と比べることはない。大吾のスピードに合わせた、優しいパスだった。  大吾はそれを、今度はそのまま『牛の尾コラ・デ・バカ』と呼ばれるフェイントでラファエウを置き去りにしようとする。トラップするはずのボールを、脚で抱え込みながら前を向くという一種のボディフェイントだ。  しかし、ラファエウは事前に察知していたかのように、それをカットした。 「何というやつだ……」    ロドリゴ・器楽堂は、ポルトガル語でそうつぶやいた。  自分が一目も二目も置く、『オトート』がまるで子供扱いだ。  このフッチボーというやつは、どれほど奥が深いのであろう。  ラファエウはボールと共に持ち上がり、サンティとのスペイン式ワンツーで岡山ディフェンダーをかわして、ファイナル・サードへと侵入する。  先ほどは、持ち運ぶドリブルをして推進したラファエウだったが、今度は抜くドリブルを開始した。  190センチの岡山ディフェンダー・イースラーが立ち向かうも、ラファエウのキレのあるダブル・タッチフェイントの前には動けない石像のようだ。 『世界一のダブル・タッチの使い手』  ラファエウは、かつてそう言われていた。  クロケッタコロッケ  スペイン語では、ダブル・タッチはそう言う。両手を使って、パンパンとコロッケの生地をこねる様が、このフェイントに似ているからだ。 『クロケッタ』=『ラファエウ・サリーナス』  そう言われていた時期がいずれの刻であったか、確かにあったのだ。  ラファエウはキャプテン・利根と、もうひとりのディフェンダー新田の間にスルーパスを出す。  おそらく日本人選手では、その閃きファンタジーアに反応できるフォワードは真吾以外にはいないであろう。しかし東京には、ラファエウ、サンティと並び、元ドイツ代表ドラガンがいる。  コースを狙いすますというより、『思い切り蹴りました!』とインタビューで言うのが、事前に予知できるかのような切り裂くシュートが、岡山ゴールを襲う。  なんとドラガンは、あの勢いで左足を振り抜いたのに、ゴールキーパー稲津のニアサイドを正確に突いたのだ!  なす術もなく、ボールは突き破りそうな勢いでネットを強襲した。  0-2!  ラファエウ・サリーナスによるフィールド支配は、留まるところを知らない。 ※※※※※  東京のファン・マヌエル・モリーナ監督は、世界屈指の理論家であるはずであった。今では世界的な名監督になった者が、選手時代の晩年に彼の指導を仰ぐために、遠く彼の指揮するメキシコへとわざわざ移籍してきたほどだ。付け加えると、その理論が実現することは100%ないとも言われている。  その世界的な名監督でさえ、師匠であるはずの彼のことを、理論を実証することは出来ないであろう『理屈倒れのモリーナ』とあざけるほどである。しかし、ラファエウ、サンティ、ドラガンの三銃士を得ることによって、遠く欧州から離れた極東の地において机上の空論が花開こうとしている。  モリーナ監督は、演奏者を持たない指揮者だった。駒を持たないチェスプレイヤーだった。だが、今ようやく1人の独奏者・キングとふたりの伴奏者・クイーンを手に入れたのだ。  彼は理論家であるがゆえに、ファンタジスタというものを試合中から排除することを必須としていた。その分析からすると、サッカーに置けるファンタジーというのは、単に意外性であるに過ぎない。そのとき、その場所で起きるはずのないプレーがたまに生まれる。ただそれだけのことだ。  ラファエウ・サリーナスは、その意外性を持ち味にプレーしているようでもある。フィールドでただひとり、違う競技サーカスをしているだけのようにも思える。  だが、それが結果ゴールに辿り着く可能性が異様に高いのだ。 (それに気付くのが、遅かった)  モリーナも自身もみずからを嘲った。それが、ファンタジスタの有効性に気付くのが、あと10年早ければ彼は第二のカルロ・アンチェロッティとして欧州で覇を唱えていたかもしれない。  後半が始まる。  岡山イレブンは、いや、スタジアム全体はラファエウの手のひらですべて踊っているようだ。  ラファエウは滅多に本気で動かない。しかし本気で動いたとき、それは東京という外灯街に一瞬にしてすべて火が付く瞬間であった。  3度、ラファエウがボールを持つ。マークは変わらず、ポジションを放棄した大吾である。 ――ダブル・タッチか?  警戒する大吾。思わず後ずさりして、腰をおろして身構えた。  その一瞬開いた股の間を、ボールがすり抜けた。  股抜きをされた大吾は、バランスを崩し倒れそうになる。  サッカー選手としての本能が、抜かれることを拒否した。  ラファエウのユニフォームを掴んでいたのだ。  ヤジロベエのようなボディ・バランスでラファエウは体勢を持ち直し、ロング・スルーパスが前線に放り込まれた。  無茶で無謀なパスとしか思えない。  どうやったら、あの体勢からあのパスコースが見つかるというのだ?  大吾はボールと同調できない。  すでにその座はラファエウ・サリーナスによって占められていたからだ。  定規で線を描いたようなパスは、サンティの足元へと収まるが、後ろから来た岡山ディフェンダー・新田によって倒される。  ファウル!  東京に直接フリーキックが言い渡された。  フリーキッカーは右がラファエウ、左がドラガン。ゴール前にはサンティが待ち構えている。  大吾も4枚の壁のうちに入っている。  助走を付けたドラガンの左足が一閃し、大吾のみぞおちにボールがめり込む! 「うげぇ!」  大吾が倒れ、壁に穴が開いたところを、今度はラファエウが跳ね返ったボールを右足で一閃した。  壁の隙間を通り抜け、ゴールキーパー稲津はそれによってできた死角により一歩も動けず、またもや東京が追加点を奪い取る。  0-3! 「えげつねぇ……」  日本人同士だったら今のプレーは選択肢に入らないし、そもそも、それをやる技術もないだろう。  冬のボールはただでさえ痛い。たとえば、太ももでパスをブロックしたとする。それは子供のときに遊びでやった、手のひらで叩くモミジ・・・を連想させる。  もちろん、冬場の胸トラップなどもキツイものがある。トラップした跡が身体に残ることすらある。シュートをぶつけられるなど、軽いファウルよりダメージが残るのだ。  ワンサイド・ゲーム。  さすがに岡山イレブンも捨て試合とは言え、自分たちがやっていることが正しかったのか困惑の表情を浮かべ始める。 (この若者、ひとりを育て上げるためだけに、惨敗を喫す!?)  余裕でこのゲームを迎えていたはずのチームメートも、混乱に陥らずにはいられない。  後半25分。  歓声はすべてラファエウに向けられていた。  大吾もあこがれの存在に対して意地を見せて、自分を認知させなければならない。  ラファエウがボールを持ち、大吾との1on1。 「そう、何度も抜かれてたまるかっ!」  大吾はキツくチェックに行った。  素早いステップと細かなタッチで、ラファエウはボールに触れさせようとすらしない。 ――取れない……  大吾はいったん間合いを計るために距離を取った。  その距離を取った分、スペースが空く。  パスコースが空いたと言っても過言ではない。少なくとも、東京の10番にとっては。  彼は大吾が下がったことを良いことに、前線へとロング・フライ・スルーパスを繰り出した。まるで、アメリカン・フットボールのタッチダウンパスだ。  反応したのは、ラファエウの盟友サンティ。岡山のディフェンダー・イースラーが思わずそれをペナルティエリア内で倒してしまう。  ピーーーーーーーーーーー!  イースラーにレッドカードが提示される。  キャプテン利根が駆け寄って抗議するが、受け入れられない。それどころか、利根にも審判侮辱としてイエローカードが掲げられた。 ――自分の失態が全部失点に繋がっている!  大吾も焦り始めた。  東京のPKキッカーはもちろんラファエウ。  ボールを置いて、後ろへ三歩下がる。  審判の笛と共に助走開始したラファエウは、右足を光速で振り抜き、破壊衝動と化したボールがゴール中央に突き刺さった。  0-4!  右ウイングのインザーギに代わり、岡山の控えディフェンダーが投入されようとしている。  監督は、得点することより、守備を固めることに気を回したようだ。 ――何かを掴まなければ! ただでは終われない!  大吾は、焦りで普段より倍は出始めた汗を、シャツの袖でぬぐう。  ラファエウは、ゴルゴタの丘で処刑されたキリストの如く、観衆の視線を一身に浴びていた。 ――これが『皇帝』の言う『興行としてのサッカー』であれば、完璧パーフェクトじゃないか!  後半アディショナルタイム。  ロドリゴ・器楽堂からのパスで大吾はボールを持つ。またもや、ラファエウを含め、3人がプレスをかけに来た。  大吾はまたしても、ひとりめをボールを浮かしてかわす。ふたりめがチャージに来ることも分かっている。分かっているなら対応の仕様もある。  ラファエウの真似。  激しいチャージを受け流す、柳のようなボディコントロール。猿真似と蔑まれてもしょうがない。身体をねじりながら、チャージを受け流す。  そして、3人目のラファエウ。  チャージを受け流す勢いで、ボールを右足から左足へとコロッケを作るかのように渡し、身体自体はボールを中心として周るマルセイユ・ルーレットの応用で、大吾は身体を一回転させた。  そして、一瞬の加速からラファエウを抜こうとする。  ラファエウ・サリーナスの頭脳はそれに反応していた。  それも、完璧に。  ダッシュを繰り出し、大吾からボールを掻っ攫おうと足を延ばした。  だが、彼の身体が付いて行かなかった。39歳の体力が、ここで尽きたのだ。  その瞬間、ラファエウの思考が大吾の脳内に流れ込んできた。  その視野ビジョンが一致する。  今まで見えなかったパスコースが、脳内に浮かぶ。 「あそこに……兄貴が奔り込めば……チャンスになる……」  数秒先を俯瞰したようなイメージ。  大吾は、右足アウトサイドで三人の敵の間を射抜く、25メートルのグラウンダー・ロング・スルーパスを突き刺した。  フックがかかったそれは、真吾が数秒後に奔り込む場所へと正確に送り込まれた。  真吾は、それを右足でトラップし、次の一歩の左足で一閃した。  そのゴールは、同調シンクロしたことで起こったのだ。  ボールと、ラファエウと、大吾。  同時に試合終了の笛が鳴った。  1-4  岡山の惨敗である。  向島大吾はその同調によって、憧れの存在、ラファエウ・サリーナスという人物に自分を認識させることに多少成功した。  そこに完全な喜びはなく、程よい苦々しさを伴って……

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