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 車で銚子市の海辺付近に車が何台か止められるところまで来た。  私のスマホを車のスピーカーに繋がれプレイリストを再生するように言われて、流れていく曲を聴くたびに「へぇ」っていう凛さんが少し意地悪なのに可愛いと思った。  凛さんの運転している姿は国宝級にカッコよくて、メガネはしていたけど、今日は前髪を上げていた。誰かに小説家キリだとバレないか不安になった。けど、運転していない時はやはり前髪を下げてメガネをかけていて別人になった。  どっちの凛さんも見慣れているけど、やっぱり前髪をかき上げているモードの方が好きだ。どっちが自然体なのか訊いたけど、特に意識はしていないらしい。  銚子の海と陸の境界線になっている防波堤の上に立ち、海を眺めた。 「千葉みなとの海と色が違いますね」 「高いところから見下ろすのと、水平線上じゃ違って見えて当然じゃん?」 「そうなんですかね……」  波の音もなんだか荒々しい気がする。 「俺さ、海みてるといろんなこと思い出すんだ。悲しかったこと苦しかったこと、知らなきゃ幸せでいられたこととか、泣きたくなるようなことばっかり思い出すんだ。良いことは殆ど思い出せないのにな」  じゃあ、なんであんな海と隣り合わせのタワマンに住んでいるんだろう。 「だけど本能かな、海が恋しいんだ」 「私、埼玉出身なんで恋しいってより、なんとなくいいなぁって思ったり、羨ましかったり、ちょっと嫉妬しちゃったりするのが海ですね」 「嫉妬ねぇ」  少しだけ黙ったら、泡が砕けるような波の音がちょっとだけ怖く感じた。いつもマンションの上から聴く海の音と違う。襲いかかってきそうだ。 「行こうか」  オフホワイトのハイネックに水色のカーディガンを着ている凛さんはキリにも見えたけど、キリは黒しか着ないで有名だったから、水色が不自然だったけど、スタイルが良い人は何を着ても似合うんだと改めて証明された気がした。  もちろんキリのファンだった私は黒の服ばかり着たし、持ち物もなるべく黒を選んだけど、これからはどうしよう。何色を選べばいいんだろう。  予約していた店の中には生け簀でイカが浮かんでいた。コレを今から食べるのかと思ったら、キリの小説の一節を思い出した。 『食べるということは食物連鎖の最前線にいるということだ』と。 「食べるこいうことは食物連鎖の最前線にいるということだ」思わず口に出すと、私の後ろ に立っていた凛さんが、私の頭の上に手を乗せてオマジナイをかけるみたいにポンポンと軽く叩くと「覚えてくれててありがとう」と言った。 「あ、その……」 「でも、もうその記憶は頭の端っこにどかして、キリにも山月凛のことも友達。昔の友達。これからは、小説家木ノ葉だ」 「わかりました。でも今は聖地巡礼を楽しむただのファンです」 「そっか。じゃあいいや」  口の中に入れたまだ動いているイカの足は大袈裟に抵抗しなかった。小説ではもっと練り動いていたけど、そうでもないこともあるのかと、小説家として表現の勉強になった気がした。  誇張された文章は心地が良くワクワクさせてくれていたのだと、現実を思い知ったのに、ただ嬉しかった。

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