鬱々たる空気が教室に充満している。季節外れの豪雨も原因の一つだが、それ以上に生徒の活気が感じられなかった。普段馬鹿騒ぎに興じている生徒らも一様に俯き、口を閉ざしている。 私は窓の裏側についた雨粒を指でなぞる。室温は決して高くない。窓だって冷たいはずなのに、死に続けている私にはどこか温かく感じられた。窓ガラスが脈打ち、生きているような錯覚。私は思う。教室は、学び舎で過ごした生徒の死を弔うのだろうかと。 ――クラスメイトの女の子が亡くなった。名は青崎 璃緒、明るく活発的な子で、友人は多く、彼女の死に涙する生徒は男女を問わず大勢いた。私もそうだ。昨年も同じクラスで過ごし、共に勉学に励み切磋琢磨した思い出は忘れない。だからこそ、私には彼女の無念を払う義務があった。 「入れて、入れて。寒い、寒いよおおおおおおおお」 逆さまになりながら窓にしがみつき、私を凝視する青崎の亡霊。頭の一部が抉れ、ぼだぼだと零れる脳漿は窓の桟を這い、中に侵入しようとする。だが一度教室に入れば、たちまち蒸発してしまう。この異常現象に対し、私は彼女に出直すよう何度も呼びかけたが、応じる気配がない。青崎は教室に、本来自分がいるべき場所に戻りたいのだろう。それが彼女の成仏を阻害する原因だとすれば、これほど残酷な仕打ちはない。 このままでは成仏できない。しかし教室に侵入すれば消えてしまう。窓の外で蜘蛛の如く動き回る幽霊の姿はまさしく恐怖だが、私にはどうしても不憫に思えてならない。 青崎の死をクラス内の連絡網で知ったのが昨日のこと、青崎の死因が未だによく分かっていないのも生徒らの不安に拍車をかけている。噂では誰かに殺されたのではないかと言われているが、真偽の程は定かではない。本人に聞いてはみるが、まともな返事は貰えない。ただ「入れて」、「寒い」の二言を繰り返し呟いている。これも奇妙といえば奇妙だ。見た目こそ怨霊そのものだが、青崎はまだその域に達していない、単なる浮遊霊だ。死んだからといって簡単に正気を失うように人間は作られていない。大塚がそうであったように、遺された者を慮る思いやりもそう易々と失われはしない。 それに、青崎の侵入を阻む謎の力も気になっている。霊を消滅させる結界じみたそれは、以前大ア・マナ会の教会で目撃した是羅の力に酷似している。もしもこの現象が大ア・マナ会によるものだとすれば――ありえなくはない。オミクロン・カルトの一員である在原 尊が大ア・マナ会と繋がっていたと判明している現状、その可能性は捨てきれない。 大ア・マナ会が再び動きを見せたことに対し、枝峰はさほど危機感を抱いていなかった。尊との取引について相談したのが一昨日のことだが、彼は「偽りの神は必ずや地獄に堕つ」とだけ呟き、一切の対抗策を用意しなかったのだ。 ホームルームを終えた私は一目散に尊のクラスへと向かった。彼は昨日学校を休んでいたが、今日は出席していると担任の教師から聞いた。しかしいざ行ってみると彼の席には誰も座っておらず、荷物の類も見当たらない。 「尊兄、いないのか」 下級生と思しき少年はいつの間にやら私の隣に立ち、同じ席を見つめていた。制服の胸ポケットに付いた名札から、彼が尊の弟、在原 孝であると分かった。 孝は面倒くさそうに私の顔を見ると、 「天照先輩だろ。尊兄から聞いている。彼にはよく世話になってる、って」 私の視線は彼ではなく、彼の後方に漂う女性の霊を向いていた。身に纏う仄かな輝きは守護霊に特有のものだ。見た目がそれとなく似ているところから察するに、彼の母親だろう。彼女は悪意の一切感じられない清廉な微笑みを私に向けながら、軽く会釈をする。 どこを見ている、と言われ、私は孝の方に向き直った。彼には自身の守護霊が見えていないようだ。 「天照先輩なら尊兄がどこにいったか知ってるんじゃないか。部室にも顔を出してみたが誰もいないし――いや、別に会って話すほどのことじゃないんだが、もし会えたら伝えておいてもらえないか。今日の夕飯はおれが作るから準備しなくてもいい、と」 「夕飯の準備」 「あいつ、最近元気がなくてな。どこをほっつき歩いているのかは知らないが深夜に帰ってくるし、それから寝つくのに数時間かかるし、まともに眠っちゃいない。その癖妙に羽振りが良くなって、どこから調達したかも分からない金でもって世話を焼いてくる。『欲しいものはないか、何か不自由してないか』ってな。正直に言えば不気味だ。とても正気とは思えない、疲れているんだ。だから今日くらいはおれが世話を焼いて、安静にしてもらおうと思ったんだ」 頼んだ、と言い残し、孝は去っていった。守護霊も深々と頭を下げ、彼の後を追う。 私は胸の内から少しずつ湧き出る感情を押さえられずにいた――それは羨望。兄思いの良き弟に慕われる尊が、ほんの少しだけ羨ましい。弟の嵐を疎ましく思ったことなど一度だってありはしないが、それでも、会う度に怯えられる今の状態は決して良いものではない。 近い内に、嵐と話をしようと思った。互いに腹の底を見せ合い、もう一度昔の、仲が良かった頃に戻りたい。心からそう思ったのだ。 自分の教室に戻る道中、晴に出会った。彼女は私の顔を見るなり、 「青崎ちゃんのことだけれど、殺人で間違いないみたい」 彼女の背に隠れて見えなかったが、半年前に亡くなった三久保先生の霊が立っていた。彼は生徒を守るために自らの命を投げ出して以来、霊となって生徒らを見守っている。そんな正義感に溢れた彼は、今にも泣き出してしまいそうな表情で立ち竦んでいた。 「青崎は物覚えの悪い生徒でな、体育用のシューズを忘れるなと何度注意しても持ってこなくてな、でもあいつのシューズは姉のお下がりでサイズが小さかったんだ。新しいシューズを買おうにも親と仲が悪くて素直に言い出せなかった、一緒に頼んでやると家までついていった時は嫌な顔をされたが、あいつは無事にシューズを買ってもらえたんだ。俺はあの時の笑顔が忘れられない――俺が不甲斐ないばかりに、あいつは、青崎は」 遂に三久保先生は泣き出してしまう。霊の涙は頬を伝う内にふっと消滅し、どこにもその跡を残さない。死者は死者のために涙を零すことも許されない。 晴はそっと私の耳に顔を寄せ、三久保先生に聞こえないよう囁く。 「先生には、今の青崎ちゃんの姿は見せられない。彼女は無事に成仏したってことで話を合わせておいて。天照の教室に近づけるのも駄目」 しかし、と文句を言う前に、晴は私の唇に人差し指を当てる。 「死者に過度のストレスを与えた場合どうなるか、私にも想像がつかない。悪霊になるかもしれないし、もっと恐ろしい何かに変わってしまうかも分からない。そうでしょう?」 晴の言葉にも一理ある。私は頷き、青崎の死が殺人であると言い切った理由について言及する。すると晴は三久保先生の許に歩み寄り、号泣する彼を宥め始める。詳しくは彼が説明してくれるようだ。 廊下で幽霊交えて立ち話、と洒落込むには場所が悪い。私は人目につきにくい図書室へ二人を誘導する。放課後は誰でも利用できるように解放されている図書室だが、悲しいことに利用客は少ない。今日に限ってはレジ係の生徒もいない。都合が良いのはそうだが、窓から見える灰色の空と土砂降りの雨も相まって物寂しげである。 三久保先生は落ち着きを取り戻した。私と晴は椅子に座り、先生は胡坐を組んだままふわふわと宙に浮かんでいる。充血した目を指で擦りながら、三久保先生は話し始める。 「昨日の夕方、俺は校内をパトロールしていた。何だか胸騒ぎがしてな。前に天照が教えてくれた『虫の知らせ』ってやつなのか、とにかく落ち着いていられなかったんだ。お前ら以外に俺の存在を感知できる奴はいないから、調理室に血塗れで横たわる青崎を発見した時、誰にもそれを伝えられなかった。可愛い教え子の死体を踏みつけにしながら、包丁を構えていたクソ野郎のこともな」 美術や音楽といった専門教科を教えるための特別校舎、その一階の端に調理室がある。オミクロン・カルトが拠点に使用している中等部校舎最上階、その四階にある空き部屋からは遠い。間に高等部校舎を挟み、両室は正反対の場所にある。 「殺人は校内で起こっていた」 「今日の特別校舎を利用する授業は全て実習になっていたはずだ。俺が青崎を発見してから一時間と経たない内に教師と警察官が乗り込んできたよ、通報を受けたと言っていたな。犯人は既に逃亡した後だ」 通報したのは青崎か、それとも犯人か。彼女を殺害する動機も気になるが、三久保先生はそれ以上に重要なことを口にした。 「犯人には俺が見えていた。フードを被っていたから顔がはっきりと見えたわけじゃないが、確かに俺を見据え、俺の声に反応して窓から飛び出した。お前らの同類とみて間違いないだろう」 先生が私を、次いで晴の眼を見る。 「俺には分かる。お前らの『それ』は異常かもしれないが、悪意はない。たまたま目のピントがずれただけ、俺達の世界も見えるようになってしまっただけ。『だけ』という名の偶然、その目は人間の目だ。しかしあれは、フードの奥に見えたあの目は違う。同類とは言ったがそれは表面上、中身は別物だ。人間大のロボットに見止められているようで気味が悪かった」 三久保先生の体が震える。本来恐怖される対象であるはずの彼が、青崎を殺した犯人に怯えている。彼の目に宿る犯人への怒りの感情、その奥に見え隠れする恐れの気持ち。彼は己を視覚する犯人に何を感じたのだろう。 私は唇に指を当て、思考する。青崎の死、霊となった彼女を阻む謎の力、得体の知れない殺人犯。晴はそこに新たな要素を追加する。 「三久保先生も含めて、今校内にいる幽霊は外に出られないみたい。そして外から侵入しようとする霊もまた、見えない障壁に阻まれている」 校内の霊といっても指の数ほどだろうが、ただでさえ不安定な存在である彼らを一所に押し留めていれば、何が起こるか分からない。霊もまた人間だ、自由に動き回れなければ気が滅入ってしまう。そうなれば後は地縛霊、そして悪霊になるのを待つしかない。 事態は急を要する。そう判断した私はまず晴に枝峰へ現状を報告するよう頼み、図書室を飛び出した。校外に出られない三久保先生は図書室に待機してもらうとして、私はオミクロン・カルトの部室へと向かう。 証拠は何もないが、校内において霊的現象の発端となりうる場所はあそこを置いて他にない。仮に外部から何者かが干渉しているとすれば、枝峰が駆けつけるはずだ。呪具商売人の一件に何も口を出さなかったのが気がかりだが、今は信じるしかない。 中等部校舎の階段をぐんぐんと上っていく。早く、早くと呟きながら四階を目指す私は、急ぐあまり、三階と四階を繋ぐ階段に陣取るフード姿の人間に気がつかなかった。私の肩目掛けて伸びる銀色の線にも、白刃が肩肉を抉る痛みにも、それが青崎を刺殺した凶器であることにも気づかず、私は投擲された包丁の勢いで階段から転げ落ちた。三階の床に背中から落下し、その衝撃で包丁が抜け落ちる。左肩に鈍痛が走り、傷口から溢れた血がシャツに滑り気を与える。 「お前、誰だ」 左肩の痛みを誤魔化すべく床を殴り、震える体を鼓舞して立ち上がる。殺人犯は階段の中央から私を見下ろしているが、手を出す気配はない。凶器を失ったこともあるのだろう。肝心の包丁は私の足元に転がっている。反撃できるかは別として、拾うだけなら私の方が早い。 それにしても、放課後とはいえよくもまあ学校で堂々と凶器を振り回せるものだと感心する。誰かに見られたらどうするつもりなのか、と疑問に思う私に対し、殺人犯は言い放った。 「霊を認識可能な存在だけを閉じ込める、鏡映しの結界。先輩ほどの手練れがまだ気づいていないとは。あなたがいるこの世界は現実じゃない。現実に重なる別の空間なんです」 フードの奥から覗く、一対の眼。なるほど、三久保先生の恐怖が少しだけ分かった気がする。黒一色の中で瞬くエメラルド色の球はひたと私を捉え、離さない。 「そんなに綺麗な浄眼を見たのは生まれて初めてだ。気安く人に見せられる代物じゃない。だから今まで仮面を被っていたんだな」 殺人犯、ママ・カルボナーラはフードに手をかける。露わになったその素顔は、中学生と言い張るには皺が目立つものだった。特に目の周りの皮膚は潰した折り紙のようにしわくちゃで、老人のそれと変わりない。浄眼の代償か。 天照先輩、といつもの調子で呼びかける彼に、私はこの光景がドッキリの類ではないかと期待してしまう。肩から零れる血はトマトケチャップで、今にも葉菜や尊が笑いながら駆け寄ってくる。呪具商売人も殺人犯も実は嘘、青崎も生きていました。そう言って霊のふりをしていた青崎が現れる――もちろん、そんなわけがない。 ママ・カルボナーラの視線が不意に外れ、四階に向けられる。そこには引きつった笑みを浮かべながら、手にいっぱいのお札を握りしめた尊の姿があった。 「だから言ったでしょう、天照先輩。呪具商売人を探ろうとすれば必ず報復に出るって」 ママ・カルボナーラと尊が並び立つ。二人で呪具商売人なのだと主張するように、けたけたと声を揃えて私を嘲笑う。 「全ては自分の描いた画の通りです。自分には初めからずっと霊が視えていました。それに加え、この浄眼には霊を強制的に清める効果があった。自分は生まれながらに備わったこの摩訶不思議な能力を金儲けに利用できないかと考えたのです」 「儲からないんじゃなかったのか」 「ええ、たかが目玉の一つや二つでは何の値打ちもありません。では他の力はどうでしょう。呪符、まじない、儀式。あなたから教わる技術は全て痒いところに手の届かないガラクタばかり、ですがこちらにはあなたと同等の知識を持った者のバックアップがあった。大ア・マナ会というパイプは、あなたが意図的にダウングレードした教えの数々をブラッシュアップし、本来の力を引き出すための繋がりとなった。これで呪具商売人はオカルトを信じる若者や同業者に商品を売りさばき、大ア・マナ会にも商品提供を行うようになりました。もっとも、大ア・マナ会の皆様には頭が上がりませんし、格安で提供させてもらっていますけれどね」 呪具商売人。オミクロン・カルトに協力する上で危惧していたことが現実のものになってしまった。葉菜やママ・カルボナーラ、尊に教えていた知識は全て私の判断の下、安全性を配慮した出来損ないに仕立ててきた。まかり間違っても悪用されないように、商品扱いされて世に広まることがないように全力を尽くしてきた。だが大ア・マナ会という翻訳手段を得たママ・カルボナーラは私の思惑さえも見破り、今こうして呪具商売人の肩書を掲げ、立ちはだかっている。 葉菜は、彼女はどうしているだろう。オミクロン・カルトは葉菜が立ち上げたものだ。天照のことをもっと知りたい、彼女はそう言って私にも参加を勧めてきた。断ることもできたはずなのに、私は差し出された手を拒めなかった。 断続的に襲いくる肩の痛みに、私は歯を食いしばる。まだ倒れるわけにはいかない。何故青崎を殺したのか、この結界は何のために展開されたものなのか。そして。 「この一件、葉菜は関わっているのか」 ママ・カルボナーラはふんと不満げに鼻を鳴らし、 「葉菜先輩より自分の心配をしたらどうなんです。あの人は関係ありませんよ、一度計画に誘ったこともありましたが、にべもなく断られました。『金の亡者に興味はない』って」 金の亡者よりも本物の亡者が好きな彼女らしい答えだ。 私は胸をなで下ろす。ママ・カルボナーラに在原 尊、オミクロン・カルトの仲間が二人も敵に回ったと考えるのは悲しいが、言い換えればまだ私には葉菜という味方がいる。部活内の派閥争いとでも言ってしまえば可愛いものだ。 右手で左肩の傷に触れ、血を満遍なく付着させる。じんじんと骨肉に響くが、ぐっと堪えて床に手を叩きつける。血液の手形を手早く滑らせ、五指を全て駆使しながらまじないの文字を記す。 止めろ、というママ・カルボナーラの雄叫びに呼応し、尊が跳躍する。階段を滑空し飛び掛かる彼の巨体はしかし、不可視の壁に弾かれ手摺に激突する。 「インスタントな結界ですね。オミクロン・カルトの授業じゃないんですよ」 ママ・カルボナーラは左目を閉じる。右目の淡い緑は燃える炎の如く揺らめき、その瞳に写る霊的現象を全て消滅させる。私の張った結界は焼かれ、灰色の残骸は靄となって消滅する。 生の浄眼を目にしたのは初めてだが、それを相手に戦うのも初めての経験だ。心霊現象に絶対の耐性を持つ浄眼は本来、除霊師などのエキスパートが所有して真の効力を発揮する。呪符、結界、悪霊の全てが束になっても敵わない最強の矛であり、最硬の盾でもある。 「何故青崎を殺した」 私の問いに、ママ・カルボナーラは笑いながら答える。 「当然金のためです。あなたと、確か壬生坂先輩でしたっけ、彼女を結界に閉じ込めたのも大ア・マナ会の依頼を受けたからです」 「晴に何の関係がある。あいつらが狙うとすれば私の方だろう」 「あなたには相当してやられたと聞いていますよ。是羅さんは娘の葉菜先輩を盗られて大層ご立腹な様子でした。しかし今回の目的については聞かされていませんし、自分にはどうでもいいことです」 手摺に激突した衝撃で気を失った尊を、二つの浄眼が見つめる。 「尊先輩も同じです。まあ、彼にはおよそコミュニケーション能力と呼べるものがありませんから、大ア・マナ会を始めとする顧客との付き合いは全て自分を通した上で成り立っています。ピンハネされているとも気づかず、たかが数十万ぽっちで良いように使われてくれるんですから、これほど便利なお人形もありませんけれど」 尊が言っていた『受注』の意味をやっと理解する。仕事はママ・カルボナーラが引き受け、実務は全て尊に押しつけているのだ。傀儡とはまさにこのこと、私が探していた本当の呪具商売人はママ・カルボナーラその人だ。 「ねえ、天照先輩。今までの経緯は水に流して、自分と組みませんか」 ママ・カルボナーラの態度は先ほどとは打って変わり、私と相対するつもりなどないと言わんばかりに両手を上げた。皺だらけの顔を更に歪め、薄気味悪い笑顔を作る。 「呪具商売人の存在をゴーストヘルパーは許さない」 「あの時はそう言うしかありませんでした。ゴーストヘルパー、呪具商売人。異なる二直線が接点を持つ前に、あなたが手を引いてくれることを願っての警告だったのですが、だからと言って自分達が敵対する道理はありません」 彼は浄眼を指さし、 「自分が信じているのはこの目だけです。先輩は勘違いしているかもしれませんが、自分は大ア・マナ会のシンパに成り下がったわけではありません。そこに転がるウドと同じ、金を得るための手段の一つです。提携関係と言い換えてもよいでしょう。あなたが流出を渋っていた呪術の数々を商品とし、自分と共に新しいビジネスを興す。大ア・マナ会に限らず、その手の技術を欲する組織、集団はあなたが考える以上に多い。しかし呪具をあえて流通させ、呪術事業とでも形容しうるその業界をいち早く独占することでゴーストヘルパーがその全てをコントロールできるように仕組みを整えます。大抵の『顧客』は身内の儀式にと商品を求めていますが、仮に呪術を乱用し周囲に被害をもたらすようであれば供給に歯止めをかけます。商品の品質を下げてもいい。あなたがオミクロン・カルトでしていたことと何ら変わりありません」 ママ・カルボナーラは軽快な足取りで階段を駆け下り、手を差し出す。無抵抗の私にとどめを刺す絶好の機会だというのに、足元の包丁には目もくれない。一対の浄眼はひたと私を見据え、自らの提案に対する返答を待っている。 「見返りは約束します。成果が出るまでは自分が報酬をお支払いします。尊先輩から相当ハネましたから、当分は心配ありません。大丈夫、自分を信じてください」 私は彼の手に目を向け、次いでその背後を見やる。どうしました、というママ・カルボナーラの言葉に反応し、再び彼の浄眼と見つめあう。 ワイシャツにこびりついた血が肌に密着したまま凝固し、僅かに肩の出血を抑えてくれている。痛みはあるが耐えられないほどではない。 私は立ち上がり、ママ・カルボナーラと向かい合う。そして拒絶の意思を込め、彼の頬に渾身の平手打ちをくらわせた。ママ・カルボナーラは尻餅をつき、唖然とした表情で私を見上げている。私は血まみれの包丁を、大切なクラスメイトの命を奪い去ったその凶器を拾い上げると、彼にその刃先を突きつけた。 「金で殺人を犯すような狂人に、信頼なんて抱けるものか」 死者が見えるということは、死が身近にあるということ。 だからこそ、なのだろう。ママ・カルボナーラにとって、死は金よりも軽いのだ。当たり前であるが故に生と死の垣根はなくなり、命の価値も、いやそもそも命に価値などつけられないことを理解していない。人が死んでも存在できる事実を知っていれば、死を恐れる道理はなくなる。 それはきっと私にも当てはまる。だから分かってしまった。 「交渉決裂ですね」 残念です。そう言って立ち上がろうとするママ・カルボナーラに変わらず包丁を突きつけるが、彼は恐れる様子もなく腰を上げ、 「本当に残念です。一切の技術も知識も得られないまま、あなたを始末しなければならないなん――」 金属と骨とがぶつかり合う強烈な炸裂音に、ママ・カルボナーラの台詞はかき消される。と同時にエメラルド色の浄眼が揃って右を向き、側頭部にめり込む消火器を視認した。そのまま目玉はぐるりと円を描き、ママ・カルボナーラは地に伏した。意識はなく、白目を剝いているのだろうがその瞳はやはり澄んだ緑色だった。 こっそりと彼の背後に忍び寄り、消火器による一撃を狙っていた人物。私はママ・カルボナーラに気づかれないよう、大げさに彼の勧誘を断ってみせたのだ。 「あまり思いつめなくていいんじゃない、天照」 葉菜は気だるそうに消火器を放り投げ、ママ・カルボナーラの頭部をつま先で突く。手すり近くでのびている尊も同様に小突き、意識がないことを確認する。 彼女は私の傍まで歩み寄り、ふう、と小さなため息をついた。 「浄眼だ霊感だと持て囃してみたところで、結局その使い方は本人の意思によるところが大きい。だから彼が浄眼に人生を翻弄された被害者だなんて思っちゃ駄目。金の亡者であろうとしたのは他ならぬママ・カルボナーラなんだから」 「分かっている」 「分かってない。現にあなた、泣きそうな顔してる。あの時みたいに、私を助けてくれた時みたいに」 そんなことないと強がってはみるものの、自分でも分かっていた。目の周りにじんじんと広がる微かな痺れ。涙をこらえる度に瞼が痙攣する。喉の奥が異常に乾く。 今にもこぼれてしまいそうな感情を飲み込みながら、私は彼女に質問する。葉菜が目の前にいるということは、ママ・カルボナーラの言葉を信じるのであれば、彼女もまた霊的な素養を備えた人物ということになる。以前から、私と出会う前から彼女には霊が視えていたのだろうか。 「言ってなかったかしら。大ア・マナ会の教祖様こと私の父親には数人の『妻』と、その間に生まれた子供達がいたけれど、私はその子供の中で唯一霊感を持っていた。だからこそ目をかけられていたわけで」 「初耳だ」 「霊感そのものに興味はないしね」 いきましょう。そう言って階段を上り始める葉菜。私にはそれが「行きましょう」にも、「生きましょう」にも聞こえた。 あるいは、「逝きましょう」とも。 ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
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