―― 「……っ!」 薄暗い部屋の中でひとりの少女が細い体を小さく震わせて、泣いていた。 「……リカ」 その肩に優しい指がそっと触れる。 「怖かったよな……ごめん。でもこうするしか、なかったから」 「……わかってる。だから私に傷をつけるようなことはしなかったんだよね?」 その言葉にケイは頷く。 「ああ。俺はエグルに……あいつにアートゥルムを注入されて、良心を無くしたことになってる」 ケイはそう言うと少女の腕を見る。そこには手枷がはめられていた。 「……リカを花嫁としたい、か。ちゃんと相手がいるっていうのに」 「あ、相手ってま、まだそんな」 ケイの発言にリカは顔を真っ赤にする。 「ああそうか、キスもまだだよな。だからさっきも唇は外したんだけど」 「う、うん……ファーストキスを奪われなくて良かった……とはちょっと思ったかも」 ケイはまだリカの肩が震え続けているのを見て、その背に腕を回してふわり、と抱いた。 「え、ちょっ」 「……こうしたら少しは落ち着くかなって」 「……」 リカは戸惑いながらもその行動を受け入れる。ケイがケイのままだということを改めて実感したからだ。 ―― リカはタイムノイズの湖のほとりで目を覚ましたところをケイが見つけた。 しかし、その場にエグルがいたため和やかに会話を交わすわけにはいかず、戸惑う彼女を両手で壁に押し付け、頬に無理矢理キスをした。その後彼女が気に入ったエグルの指示で手枷をはめ、今に至る。 「……大丈夫。きっとあの街にユキもアズサもいる、そんな予感がするんだ。 最悪、俺を犠牲にしてもリカだけは逃がすから」 「そんなの駄目!」 リカは涙を溜めたまま、強い調子でケイの台詞を否定する。 「そんなのユキが絶対認めない。だから私もアズサも認めない!」 「……リカ」 リカは涙を拭うと自由にならない指をケイの腕にそっと伸ばした。 「血、止まってないんだよね。術のせいで……ずっと」 「……バレたか。リカもユキも変な所で鋭いんだから」 ケイはそう言うと曖昧に笑ってみせる。 「無理しないで……ケイはユキと戦わなきゃいけなくなるかもしれないんだし……それだけでも辛いのに」 「……かもじゃなくて多分そうなるよな。けど、あいつならわかってくれると思う」 ケイの言葉にリカも小さく頷いた。 「私もユキを信じる。そしてケイとユキの絆を信じるから」 「よし、それはそれでいいとして、だ。これはディアマンテの提案なんだけど、その……」 何かを切り出そうとしたケイの顔がほんのり赤く染まっていく。 「あ、あのさ恋人の振りしたらどうかって……ほ、ほらそれなら俺がリカのこと庇ったりしても怪しまれないだろうからって」 リカは一瞬驚いたように目をぱちくりさせたが、何かに気付いたように真剣な表情に戻る。 「そ、それはそうかもしれないけど、それじゃますますケイの身が危ないんじゃないかなって思うんだけど……」 「……大丈夫」 ケイはそう言うとリカの頭をくしゃっと撫でる。 「確かに以前の俺だと抵抗する術がなかったからな。けど、今は違う。上手いこと風見の搭へは行けることになった。力が戻れば…きっと対抗できる」 「そ、それはそうかも知れないけど……今の傷だって塞がってないのにこれ以上傷が増えたりしたら」 人間である以上、血を失いすぎれば命に関わる。そしてエグルが術を強くするためにまた新たな傷をつけて注入を行う可能性はとても高い。 ただ、今の所力を持たないリカは実際ケイの提案を受け入れるしか選択肢は無い。そのことが彼女には辛かった。自由に動かせない両手を胸の上できゅっと握りしめる。 「俺を信じて」 ケイはそんなリカの不安を感じ、敢えて笑って言った。 「……うん……だけどひとつだけ約束して。必要以上に自分を犠牲にしないって約束して……!」 泣き出しそうなリカの肩にそっと触れて、「ああ」と小さく彼は頷いた。 ―― 夢を見た。鳥籠の中で悲しげな歌を歌う蒼い翼を持つ金糸雀。 そしてその傍らで疲れたように目を閉じている鴉。黒い翼には傷があり、流れ出た血で羽は赤く染まっている。 <大丈夫……治してあげるから。飛べるようになるからね> ユキは鳥籠の前に歩いて行って、鳥籠の扉を開き、そっと手を伸ばす。 <彼の者に癒しを……ヒール> 柔らかい光が二羽の小鳥を包み込んだ―― 「かなり風が強いな……」 「そうだね……」 ケイとリカは貴族の所有する飛行艇に乗り、リームに来ていた。 リームは風の街と言われているらしいが、この強風は異常だった。髪はかき乱されて前が見づらい。 風の街リームはタイムノイズのほぼ中央に広がる高原地帯にある。街の北東にある風見の搭があるせいか一年中風が止むことはない。 そのため「風のふるさと」とも呼ばれている。 強風に備えて街の周囲は巨大な壁で囲まれ、建物はきゅうくつそうにひしめきあっている。門をくぐり、街に入ると風は治まった。 「平気か?」 「うん、大丈夫。ありがとう」 リームにはあの貴族の目もない。街の人におかしな目で見られては支障が出るからとケイが説得し今は手枷も外されていた。しかし腕に残るその痕は肌が白いために余計に目立つ。 「とりあえず何か食べるか」 「そうだね、でもこうやってアズサ差し置いてデートみたいなことしちゃっていいのかな」 リカはそう言って苦笑する。 「気にするな。むしろ恋人同士に見えるようにする必要があるんだし、今は」 「そっか、じゃあ、私クレープが食べたい。クランベリーの」 「俺はどうするかな、甘いもの食べられないんだよな」 「じゃあこの豆乳クリームのクレープとかは?」 「じゃあそれにするか。しかしこっちにまで豆乳とかクランベリーがあるとは」 ケイは店員を呼ぶとふたり分のクレープを注文し、受け取る。 「ほら」 「…すごくおいしそう!」 たっぷりの生クリームにクランベリーソース。粒々した実もところどころに入っている。 それを見て思わずリカの顔がほころぶ。 「良かった。やっと笑ってくれた。さ、食べるか。そこなら空いてるから」 ―― 「あ、ちょっといいかな そこのおふたりさん」 クレープを食べ終え、風見の搭に向かっていると少女がふたりに声をかけてきた。 「いいけど…どうしたんだ?風見の搭の関係者か?」 ここは街の外れの高台で人影はまばら。壁よりも高いこの丘は強風が吹きつけてくるため、家を建てることはできない。 「そうだよーおにいさん、風の聖石の資格者だよね?あたしはエアロっていうの。風の守り人」 「じゃあ、試練に連れて行ってくれ」 「…いいよ。おにいさんたち急いでるみたいだし。最上階の石碑まで案内するね!」 ―― 風見の搭の中は昼間だというのに薄暗く、ただ最上階へと続く長い階段が伸びていた。階段の小窓からは真っ暗な空と唸るような風の音だけが聞こえる。 「ほらほら早くー」 「ち、ちょっと待ってくれ。俺、運動部だけどさ、さすがにこれはキツイ」 「…うー…も、もう話す気力も……」 ひとり元気なエアロとは対照的に、ケイとリカのふたりは肩で息をしている。道中モンスターを蹴散らしながらだったため、余計に体力を消耗したからだ。 「仕方ないなあ。じゃ、ちょっと休もうか」 「そ、そうしてくれ……」 3人は足を止めて、ほっとしたように階段の踊り場に腰を下ろした。 「これ、食べると元気が出るよ」 エアロはそう言うとポケットから飴を取り出す。 「綺麗な飴。光を閉じ込めたみたい」 「これはマナ飴。スペルを使いすぎたりした時になめるの。ま、とにかくなめてみて」 「あ、甘い」「元気になった気がする……」 「さ、もう少しで最上階の試練の間だよ。がんばろー!」 ふたりがエアロに続いて歩き出そうとした時だった。 ガシャーン! 「な、何今の音?」 最上階から何かが壊れる音が聞こえた。 「話はあと!ふたりとも急いで。嫌な予感がする」 ―― 「…大したこと、ないのですね」 倒れ伏す守護者を幼い外見の少女が冷たい瞳で見下ろしていた。 「…シュピールカルテの…カーロの敵ではないのです」 「あ、あんた何やってるの?そもそもここは聖域のはず!」 「…来たんですね。ケイにリカ、そしてエアロ」 「…お前あの時の!」 カーロは幼い外見に似合わない冷たい笑みを浮かべる。 「そうなのです。しかし、驚いたのです。アートゥルムをまともに注入されて、自我を保っているとは。あいつの目はごまかせても、カーロの目はごまかせないのです」 「…口調のせいでいまいち緊張感がないんだけど」 「そ、そこはほっとくのです!カマイタチ!こいつらをやっつけちゃうのです!」 カーロと名乗った少女が札を掲げると、一陣の風が舞い、中心にカマイタチが姿を現した。 「召喚術!?」 「カーロのは『鬼妖召符』と言うのですけど。さあ、カマイタチ、頼んだのです!」 カマイタチは主である少女の声に応えるようにキュイ と鳴くと3人めがけて強力な風の刃を放つ。 「残念でした!風の守人に風のマナが効くわけないでしょ!」 エアロが咄嗟に透明な風のバリアを張ると、風の刃は打ち消されて完全に消滅した。 「キュイ……」 カマイタチは困惑したようにひと声鳴いた。 「う…だ、だからまだカマイタチしか取り戻せてないから無茶振りだって言ったのに…」 カーロはそれを見て、明らかないらだちを滲ませながらそう呟く。 「全く、なんであいつがシュピールカルテのリーダーなんですか本当。そりゃあ、4人の中では一番行動力あるしリーダーに向いてますけど…!基本的に作戦わりと無茶苦茶だし!」 「お…おい?」 「そもそも4人揃っていきなり謎の城に飛ばされ、『今日からお前たちはシュピールカルテ』とか!その時点から無茶振りなのです!特殊能力持ってはいますけど!」 カーロは盛大に愚痴ったあと、カマイタチを符に戻す。 「そういうわけなので!とっとと守護者にあって力を解放してもらうのです!カーロはあいつに文句を言いたいのでこれにて!」 カーロはそういうと巨大な鳥に乗って飛び去って行った。 「な、なんかすごく疲れた……というか何だったんだ一体……」 「私も…なんというか個性的な相手だったよね」 〈ええ、全くです〉 「シルフィード様!」 エアロが風の守護者に駆け寄る。その体には傷ひとつない。 「良かったです。さっきすごい音がしたし、倒れられていたので心配しました」 〈ふふ…風の守護者たる者そこまでやわではありません。そもそもあの娘は先ほどと同じようにカマイタチの 風の刃を飛ばしてきただけですし〉 「……では何故」 エアロの言葉に、シルフィードは真剣な顔付きで言った。 〈完全に不意打ちだったのもありますが、何か訳ありのように感じたのです。あの娘からはこの世界のものとは異質なマナを感じました〉 「異質な……マナ?まさか、別の世界から……?」 ケイの言葉にシルフィードは頷く。 〈ええ。ケイ、リカ。貴方たちと同じ世界のものです。それよりも――〉 シルフィードはそっと、ケイの赤く滲んだ包帯に触れる。 「痛っ……!」 〈その傷口の呪いだけは解かせてください。傷を塞ぐことも、注入されたものをはじきだすことも私にはできないけれど、せめて〉 シルフィードが歌うように呪文を唱えると、傷口からどす黒い影のようなものが溢れだし、白く輝く風に溶けた。 〈これで大丈夫。少しずつですが傷もふさがっていくはずです〉 「ありがとう、シルフィード」 シルフィードはその言葉に優しく微笑んだ。 〈本来は、貴方たちと戦って力を示してもらうつもりでしたが、乱入者もありましたし傷とアートゥルムで弱っている資格者をいたぶるような趣味もありません。先ほど、傷とともにケイ、貴方の記憶にも触れました。そして私は貴方の力になりたいと思った〉 「じゃあ……」 〈ええ。資格者として契約の名を告げ、そして聖剣に名前を刻んでください〉 「資格者としての名はケイ・リュフトヒェン。そして聖剣に与える名はヴェント・アーラ!ここに汝と力を結ぶ!」 柔らかな風が舞い、聖剣がひときわ強く輝き、そしてまたダイアモンドに戻った。 〈ここに力は結ばれました。そしてこの『旋律断章』を貴方たちに〉 シルフィードはそういうと澄んだ緑色の石を手渡す。石の中には楽譜のようなものが入っている。 「『旋律断章』って一体……」 リカの問いに、 〈『しらべの笛』をこの石に触れさせてください。そうすれば旋律が目を覚まし、唄うでしょう。『しらべの笛』は地の資格者に渡ったと聞いています〉 「地の資格者……つまりはユキ、か。あいつは無事試練を越えたんだな」 「良かった……」 シルフィードの言葉にふたりはほっとしたように笑った。 〈さあ、行きなさい。貴方たちの行き先を輝く風が導かんことを――〉 ―― 「ありがとう、エアロ」 「どーいたしまして。じゃあ、頑張ってねおふたりさん」 風見の搭の前でエアロと別れ、ケイとリカは帰路に着いた。 「お疲れ、ケイ」 「リカも。ごめんな、だけど多分あと少しだから」 「あと少し?」 ケイはリカの耳元で囁く。 「ユキもアズサもこの街にいる。舞踏会の晩までだ、そうしたら」 「……うん、わかった」 リカは小さく頷いた。
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