これは……桜の香りだろうか。 その嗅ぎ憶えのある香りが、私を眠りの淵から引き上げた。そろりと目を開けると、私を覗き込んでいるレンゲさんの姿が映った。 「アオバ! よかった……目が覚めないんじゃないかって心配したのよ」 そう声をかけながら、レンゲさんは私の前髪の辺りを優しく撫でた。 どうしてレンゲさんがいるのか、どうして私は眠っていたのか。はっきりしない頭で色々考えてみるけれど、どうにも状況はさっぱりつかめない。けれど、ここが火龍楼であり、レンゲさんの部屋だということを、そこに漂う桜の香が教えてくれた。 「子供達は、どうなったんですか?」 「子供? あぁ、夜叉の子達のことね。大丈夫。誰一人かけることなく、無事に夜叉の地に戻ったわ。孤児院の院長も捕まったらしいから、安心して」 私の額に乗せていた布を取り、そっと手を当ててくれた。ひんやりと冷たいレンゲさんの手が心地よくて、自然と微笑んでしまった。 「熱も下がったみたいだね」 「そういえば、私……寺院で院瀬見さんに助けてもらって、それからどうなったんですか?」 「毒香だったかしら? そのせいで、アオバは倒れたのよ」 そうだった。院瀬見さんに助けられて、そのまま気を失ってしまったんだった。ただ、その後のことはまったく記憶にない。 「毒が思いのほか早く体に回って、途中で息が止まりかけたらしいの。町の香術師に応急処置をしてもらって何とか持ち返したんだけど、とても危険な状態だったのよ? でもね、彼が治療してくれたのよ」 そう言って、レンゲさんは半身だけ振り返った。 少し体を起こして、レンゲさんが何を見ているのか視線を追った。窓際にある座布団に腰を下ろすウツギさんと、その傍で眠っているナバナの姿があった。目が合うなり、ウツギさんはクスッと笑った。 「アオバは寄宿舎に運ぶつもりだったんだけど、彼が治すって聞かないから。城に夜叉の二人を出入りさせることはできないから、ここに運んだのよ」 「そう、だったんですか……」 「あまり体を起こすな。まだ完全には治ってないだろ」 ウツギさんは私の枕元にやってきて、音もなく静かに座った。 「ありがとうございました」 「礼ならナバナに言ってやってくれ。三日三晩、つきっきりで治療していたんだからな」 そんな長い時間を眠っていたことにも驚いたけれど、それ以上に、ナバナが私にそこまでしてくれたことに驚いた。あんなに人間の私を嫌っていたのに。 「妹を無事に助けてくれた礼と、その借りを返したかったらしい」 「それ、割に合わないじゃないですか。私は自分から協力しただけなのに。その借り、また私が返さないといけませんね」 「そうしたら、またナバナが借りを返すと言い出しそうだ。あいつは頑固だからな」 きっと、その通りだと思う。ナバナはヒユリさん並みに頑固そうだ。私が借りを返したら「借りがあるままは嫌だ」と言い出しかねない。その姿を想像するとなんだかおかしくて、少しだけ嬉しくなった。 「子供達が無事に戻ってきたのはアオバのおかげだ。ありがとう」 「いいえ。もう、お礼を言い合うのはナシです。きっと、ここに私のお師匠様がいたら叱られそうですから」 「どうしてだ?」 「〝当然のことをしただけだわ。それに、やることはまだ残ってるでしょう?〟って。二度とこんなことが起こらないよう、方法を考えなければいけません」 「……確かにな。おそらく〈タンガラ〉の領主のような連中は他にも大勢いるはずだ。一人捕えたところで、状況は何も変わらない」 「少しずつ互いに歩み寄って、協力しなければいけないのかもしれませんね」 全てを変えることは無理でも、小さなことから〝何か〟を始めることはできるはず。きっと、私にもできることがあるんだ。 「こんな所で寝てる場合じゃないですね。早く治して、色々と――」 そう言いかけたところで、遮るように背後で何かが倒れる音がした。気づけば、壁に寄りかかっていたナバナが床に突っ伏している。それでも起きなかったため、ウツギさんはククッと吹き出していた。 仕 方がないな、と言いつつも放って置けないらしく、ナバナの所へ戻って静かに抱き起こす。案外、面倒見がいいらしい。そんな姿を眺めていて、ふと院瀬見さんのことを思い出した。 「そういえば。レンゲさん、院瀬見さんは……?」 「総長なら城に追い返したよ。見ているだけで鬱陶しかったからね」 なぜか呆れ混じりに笑った。私の顔を見ると、堪えきれなくなって更に笑う。私の顔に何かついているのだろうかと、気になッて頬や額に手を当てた。 「本当、アオバにも見せてやりたかったよ。総長の、あの慌てっぷりをね」 「あ、慌てっぷり?」 「あんなに動揺したのを見たのは初めてよ」 子供達を解放した後、院瀬見さんは私を抱えて火龍楼にやってきたそうだ。その時も滅多に見ないような慌てぶりだったらしいけど、酷かったのはその後。 どんな様子だとか、しっかり治せだのとナバナに訊ねたり指示を出すものだから、ナバナも「邪魔だから出て行け!」と怒鳴ったらしい。けれど、院瀬見さんは何を言われても出て行かず、私の手を握ったまま離れなかったそうだ。 「いつ目が覚めるんだとか、大丈夫なんだろうなって何度もナバナに聞くから。目が覚めたら連絡するからって、私が追い出したのよ」 「それは、追い出されて当然ですね」 「アオバ、よかったわね」 よかった……のだろうか。 目が覚めるまで手を握ってくれていたことは嬉しかった。その反面、この場所にいないことが、なんだか寂しいような気もする。 目が覚めた時、一番に顔を見たかった――なんて、わがままだったかもしれない。
コメントはまだありません