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◆◆◆◆ 「つ、疲れた……」  襲ってくる疲労に耐えられず、部屋に戻って早々、寝台にパタリと倒れ込んだ。  薬草園で雑草取りの手伝いをしてもらっている最中も、カガチさんの様子がかなりおかしかった。 あれからカガチさんは、私の傍から離れようとしなかった。食事の時は隣に座るし、どさくさに紛れて手は握るし、薬香を作っている時も常に作業を見ている有様だ。  周囲の剣士達は今も私が院瀬見さんの婚約者だと思っていることもあって、カガチさんの行動にヒヤヒヤする始末。「カガチさんは人のものに手を出したがる癖があるから」と、剣士達が噂まではじめていた。 「何だか、やけに触られたような気がしたんだけど……カガチさん、何を考えているんだろう」  最近はレンゲさんとの距離が近くなっているように見えたのに、あれは何だったのか。いや、もともとは街の娘達が毎日のように会いに来るような色男だもの。真面目になったと思った私が間違っていたのかもしれない。きっと、気まぐれでも起こしているのだろう。 「理由はわからないけど、本当……疲れちゃった。四六時中見張られているみたいで、思うように作業も進まなかったし」  寝台からのろのろと降り、部屋の隅にある作業台についた。  開きっぱなしの香術書の間に挟んだ紙を手に取る。そこには、今日一日でこなそうと思っていた仕事を、優先順位をつけて記してある。ずらりと並んだその項目を見て、力なく溜息をついた。 「今日は夜までかかりそうだなぁ。レンゲさんから頼まれている桜の香を作って、残りの材料で隊の分の薬香を作って、それから――」  指折り数えるそこへ、トントンっと戸を叩く音がした。  戸越しに「どうぞ」と答えると、一拍置いてから戸が開いた。顔を覗かせたのがカガチさんだったせいか、反射的に奥歯を噛みしめて身構えてしまった。 「カ、カガチさん……こんな時間にどうしたんですか?」 「お茶を淹れたので、一緒にどうかと思いましてね。お時間、よろしいですか?」  フフッと爽やかに笑ったその顔が、いつにも増して綺麗で怪しく見えた。  手にしたお盆には急須と湯呑が乗せられ、熱そうに湯気を上げている。本音を言えば、早く仕事を片付けたかったし、何より今は独りになりたかった。ただ、ここまで来て追い返すのも申し訳なくて、渋々部屋に引き入れてしまった。 「少しだけでもよければ、どうぞ」 「では、失礼しますね」  カガチさんは迷うことなく部屋の中心にある机に向かい、手にしたお盆を静かに置いた。様子を窺いながら私が長椅子に座ると、カガチさんは向いには座らず私の隣に座ってしまった。  なぜ隣なのか、なぜ足が触れるほどの距離なのか。その意図が読めず、混乱して思考が上手く働かない。ただただ無言のまま、膝に置いた手を握り締めるばかりだ。  しばらく大人しくしていたけれど、どうにもこの距離感が気まずくて、なんとか気づかれないよう拳一つ分くらいの距離を開けた。 「もしかして、これからお仕事でしたか?」 「えっと、そうですね。今日はやらなければならいことが多くて。作業を始めようと思っていたところに、カガチさんがいらしたので」 「あぁ、それは申し訳ありませんでした。ですが、あまり無理はいけませんよ。綺麗な肌が荒れてしまいますからね」  何の前触れもなく指先でスーッと頬を撫でられた。予測していなかった行動だっただけに、私の体は大袈裟なくらいビクリと跳ね上がった。  毎度のことながら、カガチさんと一緒にいると心臓がいくつあっても足りない。予測不可能な行動をとるカガチさんと長い時を共にし、おまけに好きだと言うレンゲさんが奇特な人に思えてきた。 「そ、そんなことより、お茶ですねっ。せっかく淹れてくれたのに、冷めてしまいます」 「あぁ、そうですね。では」  さすがは女性に優しく、気が利くカガチさん。私が飲もうと言えば、素早く私の分の湯呑を取ってくれる。  それを受け取り、何度か息を吹きかけて冷ましながら少しずつ飲んでいく。その間も、隣にいるカガチさんが気になり、何度も横目で様子を窺った。  緊張と困惑で挙動不審になっている私を余所に、カガチさんは優雅に茶を飲んでいる。一体、この綺麗な表情の下で何を企んでいるのか。じっと眺めていると、不意に目が合って微笑みかけられ、慌ててお茶を飲んで誤魔化した。 「どうしたんですか? そんなに慌てて」 「いえ、その……カガチさん、いつもと違うような気がして」 「おや、どのあたりがですか?」  質問したのは私なのに、逆に訊ねられてしまった。  普段から冗談なのか本気なのかわからないような、飄々としていて心を読むことができない人だ。私のことを誘うような言動はあっても、それはただ言葉を発しているだけで、からかって反応を楽しんでいるだけのはず。そこに深い意味も企みもない。  ただ、今日に関しては違う。いつもは中身のない言動なのに、今日はやけに中身が詰まっているように感じる。悪く言えば、何かを企んでいるようにしか見えないのだ。 「やけに付き纏われているように感じているのですが、気のせいですよね?」 「おや、気のせいではありませんよ。お察しの通り、しっかり付き纏っていますからね」  またしても予想外の返答に、返す言葉に困って呆気にとられる。すると、カガチさんはいつものように微笑む。指先で背筋をなぞられたような悪寒が走った。 「何か魂胆でもあるんですか……?」 「ありますよ。あなたを手中におさめようという、魂胆がね」 「はい!?」 「はい、隙あり」     驚いたその隙をまんまとつかれ、気づいた時には長椅子に押し倒されていた。 こんなことをするのは、きっといつもの冗談だ。そうに決まっている。けれど、どういうわけか目の前のカガチさんは真剣そのもの。いつものような不敵な笑顔もなく、恐ろしいくらいの色気を纏って私を見下ろしていた。 「カカ、カガチさん、何してるんですか! レンゲさんに言いつけますよっ」 「どうぞ。レンゲなど所詮遊びの女です。本気じゃありませんよ」  信じられない発言に、頭の中の言葉がどこかへ吹っ飛んだ。  数刻前まで桜華通りであんなにも仲睦まじくしていたのに、それをこうもあっさりと〝所詮遊びの女です〟と、どの口が言うのか。 「私が単なる好奇心でこんなことをすると思いますか? 言っておきますが、私は気に入った女性にしか手を出しません」 「そんなこと言って、私を騙そうったって駄目ですよ!」 「おや、私は至って真剣なのですがね。アオバさん、どうです? 総長など諦めて、私のものになりませんか?」  カガチさんがさらりと口にしたその一言に驚いた。 「どうして私が、院瀬見さんのことを……」 「気づいていないとでも思っていたのですか。私を誰だと思っているのです? 元情報屋の頭、甘く見てもらっては困ります」  そうだ、カガチさんは裏の世界で生きてきた人間だということをすっかり忘れていた。それも情報を売買していた盗賊の頭で、その上幾人もの女性を手玉にしてきたような人だ。人の言動から心を読み取るなど容易い。私がいくら本音を隠したところで、この人が相手では勝ち目がない。 「私が院瀬見さんを好きだって気づいているなら、私がカガチさんのものにはならないってわかりますよね?」 「ええ、もちろん。ですが、そういう女性の心を強引に奪って、自分のものにしてしまうというのも、また刺激的で好きなのですよ」  真剣だった表情がほんの少しだけ緩み、ゆるりと目を細めた。その妖しくも不敵な様に、私はごくりと息を呑んだ。  まさにその目は獲物を狩る黒い獣のよう。黒龍隊という名が、カガチさんにこそ相応しいような気がした。 「カガチさん、早まっては駄目ですよ⁉ ほらっ、よく考えてみて下さい。私はただの小娘ですから! レンゲさんみたいに大人じゃないですし、食べても物足りないだけです!」 「わかっていませんね。初心な小娘だからこそ、美味しいのではありませんか」  あぁ、これは何を言っても上手く流されてしまいそうだ。カガチにはどんな言い訳も嘘も通用しないのだ。 そうこうしている内に、カガチさんの手がついに首筋に触れた。くすぐったさに思わず身を捩れば、カガチさんは満足気に微笑む。これは本当に危険だ。 「カガチさん、冗談にもほどがありますよ!」 「んー、いいですね。抵抗する姿も新鮮で。何も怖いことなんてありませんから」  囁きながら顔が徐々に近づく。  もう、駄目だ。これで私もカガチさんの手に落ちるのか――ぎゅっと目を瞑った、戸を叩く音が室内に響いた。 「アオバ、俺だ」  聞こえたのは院瀬見さんだった。ハッと目を開けると、私を見下ろしていたカガチさんが「静かに」と、口に人差し指を押し当てた。その表情からは、さっきまでの妖しさも消え、いつもの飄々とした雰囲気に戻っていた。 「アオバさん、私に協力していただけませんか?」 「協力……?」 「このままじっとしているだけで結構です。少し試したいことがあるのです」 「カガチさん、何を企んでいるんですか?」 「まぁ、見ていればわかりますよ」  小声でそう告げた次の瞬間、カガチさんは机の上に置いてあった湯呑を、勢いよく手で払い落した。  転がった湯呑はけたたましい音をたてて転がり、床に落ちた衝撃で見事に割れる。ついでに机の端を軽く蹴り飛ばしてガタガタと揺らして見せた。  一方、室内での様子が見えない院瀬見さんはどう思ったのだろうか。呼びかけても返事がなく、代わりに室内からは聞こえてくるのは奇妙な物音だけ。当然、暴れているような音がすれば異変を感じとるはずだ。 「アオバ! 入るぞ!」  院瀬見さんは慌てた様子で声を上げ、蹴り壊す勢いで戸を開けた。  視界に飛び込んできたのは、カガチさんに押したおされた私の姿。その光景を目の当たりにした院瀬見さんは、戸に手をかけたまま立ち尽くしている。辺りの空気が凍りついていくのを、今日ほどはっきりと感じたことはない。 「おや、いいところでしたのに。総長も無粋な方ですね。こちらが答えてもいないのに、戸を開けるなんて失礼ですよ」 「……っ! カガチ!」  無表情から一変、血相を変えた院瀬見さんは、部屋に飛び込むなりカガチさんの胸倉を掴んで長椅子から引きずり下ろした。  こめかみや首に青筋を立てる院瀬見さんとは逆に、掴みかかられたカガチさんはなぜかいつもの調子で飄々としている。 「カガチ、何をしたのかわかってるのか!」 「わかっていますよ。欲しいと思った女性を我が物にしようと思っただけです」 「や、やめて下さいっ!」 「アオバ、どうして止めるんだっ。あんなことされて黙ってるのか!」 「な、何もされてませんよっ」 「……何も?」  院瀬見さんは険しい表情のまま首を傾げた。今にも白狼の力を開放しそうな形相の院瀬見さんを鎮めようと、必死に頷いて否定した。 「押し倒されはしましたけど、それ以上は何もされていませんから!」  そんなやり取りを交わす中で、ククッとカガチさんの含み笑う声が割り込んだ。  何とか堪えようとしていたけれど、我慢すればするほど笑みが溢れ、今までにないくらい腹を抱えて笑って長椅子にドカッと座った。なぜ、こんなにもカガチさんが笑っているのかわからず、私と院瀬見さんは怪訝な表情のまま顔を見合わせた。 「下手な芝居もここまでにしておきましょうか。おかげで、それぞれのお気持ちがよくわかりましたから」 最初は眉間にシワを寄せて見下ろしていた院瀬見さんだったけれど、ふと何かに気づいたらしい。とたんに深い溜息をついて額を押さえた。 「カガチ……どういうことだ?」 「飴屋でレンゲに会った時、頼まれたのですよ」  桜華通りの飴屋で私と別れた後のこと――  私を心配したレンゲさんが、私と院瀬見さんの関係を白黒はっきりさせようと、カガチさんに一芝居うってもらうように頼んだらしい。つまり私に付き纏っていたのは、院瀬見さんがどういう反応を示すのか試していたというのだ。 「つまり、今までのことは全部?」 「ただの小芝居です。言っておきますが、私はレンゲを〝遊びの女〟だと思ったことは一度もありませんよ。私の人生の中で、彼女ほど愛おしいと思った女性は他にいませんからね」  まるで当然のように軽く惚気を口にして、カガチさんはスッと素早く席を立った。  呆気にとられている院瀬見さんの前に立ったかと思えば、小憎らしいくらいの綺麗な笑顔を見せた。 「他の男に触れられるのが嫌なら、最初から素直にならないとだめですよ」 「なっ! お、俺はっ」 「何も興味がなさそうな顔していたようですが、私にはお見通しです。その目が全てを物語っていましたからね」  院瀬見さんの瞳を指さしながら言い放ち、カガチさんは鼻歌混じりに部屋を出ていった。  戸が閉まり、室内に静けさが戻ってくる。どちらからというわけもなく、私と院瀬見さんは顔を見合わせる。私が長椅子に腰を下ろしたのを確認し、院瀬見さんも遠慮がちに隣に座った。 「今日、やけにカガチさんが付き纏っていたのは、レンゲさんに頼まれたからだったんですね」 「……思い返せば、おかしなことばかりだったんだ」  院瀬見さんは体中の息を全て吐き出すような勢いで、深い溜息をついた。 「カガチから〝アオバさんが話したいことがあるそうですよ〟なんて言われて、この時刻にここへ訪ねるよう言われていたんだ」 「その時点で仕組まれていたってことですね」 「おそらくな。アオバが押し倒されたところに、俺が偶然にも訪ねて出くわすなんて。偶然にも程がある」 「そう、ですよね……」  返事をしてから再び会話が途切れ、やがて互いの視線だけがぶつかり合う。院瀬見さんは、少し苦々しい顔をして頭を掻いた。 「カガチの行動は、ずっと気になっていたんだ。やけに傍を離れないし、触れることも多かったからな」 「でも、それは全て芝居だったわけですし」 「あいつもレンゲも、俺の本心に気づいていて――」  中途半端なところで言葉を区切ったかと思えば、院瀬見さんは目元を手で覆い隠して力なく俯いてしまった。それからまったく顔を上げなくなってしまったから、心配になってそっと腕に触れた。  義手ではあっても、おそらく触れられた感触は伝わるらしい。院瀬見さんはその大きな体に似合わないほど、びくりと怯えたような驚き方をした。ちょうどその時、見えた顔は信じられないほど赤くなっていた。  もちろん、それは怒っていたからではない。紛れもなく、この場から逃げ出してしまいたいと思うほどの羞恥心。その証拠に、その姿を見た私にも恥ずかしさが伝わって顔がカッと熱くなったからだ。  その顔を見たら、何もかもが吹っ切れた。自惚れでもいい。間違いでもいい。誰かに奪われて後悔するよりマシだ。 「院瀬見さん、私のこと避けていましたよね? だから私、嫌われたんだと思っていました」 「嫌う理由など何もないだろう! むしろ俺は――」 「わかっていませんね。あんな態度を取られたら、とても傷つくんですよ!」 「っ!」  院瀬見さんが再び俯こうとしたから、私は顔を両手で包むように掴んで強引に私の方へ向かせた。  至近距離で直視する形になり、院瀬見さんはいつになく逃げ腰になって視線を泳がせる。それでも私は真っ直ぐ瞳を覗き込んだ。  私よりもずっと大人で、数千という若い剣士達を束ねる黒龍隊の総長たる男が、小娘ごときに狼狽えている。こんな姿を見られるのは、きっとこの国で私だけだ。それだけは、誰にも譲れない。 「好きな人に無視されることが、どれだけ辛かったか。わからないでしょう?」 「ま、待て。お前、俺のこと! いや、いつから、その……」  私が「好きな人」と口にしたのは、院瀬見さんも予想外だったのか。きょろきょろと目を泳がせ、耳まで真っ赤にして慌てふためく様が新鮮で、涙が出そうになるほど愛おしくなる。 「もう待てません。どれだけ待たされたと思っているんですか?」 「いや、こういうことは男の俺が先に言うべきだろうっ」 「そんなことは関係ありません。私、待っているだけなんて嫌ですから」  少し得意気になって言うと、院瀬見さんは「お前はそういうやつだったな」と含み笑いながら、頬に触れている私の手を掴んで握り返した。 「それにしても……さっきのは効いた」 「さっき?」 「カガチに押し倒されていた、あの光景だ。カガチには血の通った腕がある。アオバの温もりも、その手で感じることができる。そう思ったら、無性に腹が立った」 「仮に温かさを感じられたとしても、想いは伝わらないと思いますよ。私の気持ちは院瀬見さんに向いていますから」 「本当に、お前はこうと決めたら真っ直ぐだな。まぁ、俺もそういう迷いのないところに惹かれたのは確かだ」  握り締めた私の手をそっと引き、手の甲に静かに唇を寄せる。たったそれだけの仕草が、甘く、心地よく、溢れだしそうになる感情で息がつまりそうになった。 「これ以上距離が縮まれば後には引き返せないし、何かのきっかけで失ってしまったらと思うと、怖くて仕方なかった。だが、もう引くつもりはない」 「望むところです! むしろ引かれては困ります」  その先の言葉を遮るように、院瀬見さんが静かに距離を詰めた。  鼻先が頬に微かに触れたところで、私は自ら身を乗り出し、院瀬見さんの襟元を掴んで引き寄せた。  唇に触れ、私の想いが伝わったからなのか。それとも動揺していたのか。少しだけ目を開けると、院瀬見さんの髪がうっすらと銀色に染まっていた。

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