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―― 時々ね、全てを壊してしまいたいって衝動に駆られるの  灯籠華を見た日の月はやけに青白かった。それに灯籠華は妖力が満ちる夜に綿毛を飛ばす。あの日、妖力が最も満ちていたのだとすれば、院瀬見さんの血が暴走したのも、レンゲさんが破壊の衝動に駆られるのも全て辻褄があう。 「ねぇ! その香はどうやって作るの?」 「〈月下大樹げっかたいじゅ〉という白い巨木が咲かせる花から作られる。だが、詳しい調合方法は俺達も知らん。それに……俺達が持ってる香は、似たような材料を使って作った紛い物だ。もう、本物は手に入れられないからな」  と、彼は何とも含みのある言い方をした。どういうことか聞こうとすると、彼はごろんと寝転がって背を向けてしまった。 「作り方が知りたいなら、夜叉の里にでも行って香術師に聞くんだな。もう、いいだろう。さっさと消えてくれ。煩くてかなわん」 「待って、最後にもう一つだけ! 〈月下大樹(げっかたいじゅ)〉なんて聞いたことがないの。それはどこにあるの?」  服の裾を思いっきり引っ張った。  彼はしばらく無視していたけれど、私がしつこく引っ張り続けてうんざりしたのだろう。ようやく半身だけ振り返ってちらりと見、面倒そうな溜息をついた。 「……この地にはない。〈黒ノ森〉を抜けた先の、夜叉の住む地にしかないものだ。銀色に近い白い幹と葉をしている。夜叉の地へ行けば、どこにでもある巨木だ」  帝都から真っ直ぐ北へ向かった先に、人を寄せ付けない〈黒ノ森〉と呼ばれる地帯が広がっている。人の住む領土と、夜叉の住む領土を分断するように広がるその森は、一度足を踏み入れたら最後、出口を見失い彷徨って命を落とすと古くから言い伝えられている。でも現に、彼らはその森を抜けてこの地まで来ている。帝都まで辿りつけるということは、必ず帰る方法も存在するということだ。 「ねぇ、あの森の噂は知っているでしょう? 足を踏み入れたら戻ってこられないって」  すると、彼らはククッと低く、馬鹿にしたように鼻で笑った。 「教えてやるよ。あの森に〈常闇ノ謌とこやみのうた〉と呼ばれる結界が張られている。我ら夜叉の先祖が、人間の侵略から里を守るために施した力だ。〈常闇ノ謌〉がある限り、人間はあの森を越えることはできない。常闇ノ謌は踏み入れた者の方向感覚を狂わせるからな」 「なるほど……私達を遠ざけるために施された力ということは、あなた達には何の影響もなく森を越えられるってわけね」 「そういうことだ。俺が夜叉である限り〈常闇ノ謌〉は牙を向かない。里へ導くための歌をうたってくる。もっとも、お前には容赦なく牙を向くだろうがな」    私は鉄格子を握りしめたまま、嘲笑う夜叉達の声をじっと聞いていた。  院瀬見さんが心を閉ざそうとしているのは、血の暴走を恐れているからだ。それさえなくなれば、何も恐れるものはない。何としてでも、夜叉の地へ渡って香の作り方を見つけなければならない。残る問題は、どうやって黒の森を抜ければいいのか。  私が迷わずに里へ辿り着くには、夜叉の同行が必要不可欠だ。もちろん、彼らがおいそれと素直に協力してくれるとは思えない。仮に首を縦に振ったとしても、森の真ん中で置き去りにされるのが目に見えていた。 夜叉の力に頼らず、私一人で里に辿りつく方法――その答えは、案外すぐそばにあった。目に留まったのは怪我をした夜叉の腕と、彼の首元に下がっている黒曜石の首飾り。それを見てハッとした。 「そうよ、黒ノ森を抜ける方法は……これしかない」  きっと、その方法を聞けば誰もが無謀だと言うかもしれない。  もし院瀬見さんが知ったら何と言われるだろう。きっと「馬鹿だ」とか「考えが甘すぎる」と怒鳴られそうだ。私自身、そこまでする必要があるのかと思うけれど、今は迷っている場合ではなかった  答えがあるなら、それを手に取る。後のことは、その時になったら考えればいい。 「お兄さん。私が黒ノ森を抜けるために、協力して」 「何言ってるんだ? まさか俺に案内を頼むって言うんじゃ」 「そんなの必要ないわ。自分の足で歩いて行くから」 「はぁ?――って、おま、またっ、いぃぃぃ痛ぇっ!」  鉄格子の間から思いっきり腕を伸ばし、血の滲む彼の腕を再び掴んだ。少し力を入れれば包帯から血が滲み、握った指の間に溜まって手の甲へ伝った。 「おいっ、離せって!」 「わかった、離すわ。それから、これも借りるね」  腕から手を離すと同時に、首に下がっていた黒曜石の首飾りを引き千切った。 「お兄さん、ありがとう。私、これで黒ノ森を抜けられる」  私は血に染まった手で黒曜石を握り締め、それを体に引き寄せる。それが何を意味しているのか、夜叉の彼らには容易に想像がついたはずだ。彼らは驚倒し、とっさに身を乗り出した。 ――― 大将は〝置き土産だ〟と言って、俺の心臓に〈夜叉ノ契〉を刻んだ  院瀬見さんと同じように、〈夜叉ノ契〉を刻めば白狼の力を手に入れられる。それで黒ノ森を抜けられるのかどうかは大きな賭けではあるけれど、一か八か、身をもって証明してみせる。 「おいっ、よせ!」  制止を振り切り、私は力強く胸に押し当てた。  手の平から胸、喉、鳩尾が焼けるように熱くなり、やがてその熱は全身を駆け抜ける。鼓動が速くなると同時に、ふと感覚が鋭敏になるのがわかった。  地下牢の入口で誰かが話しているのが聞こえる。それだけじゃない。天井裏を駆けまわる鼠達の足音や鳴き声はもちろん、そこに何匹存在するのかもわかる。  本来だったら聞こえるはずのないその会話や音が、まるで隣に座って聞いているみたいにはっきりと聞き取れた。 「これが夜叉の力なの? 院瀬見さんも、こんなふうに……」  大きく息を吐いて俯いた拍子に、肩にかかっていた髪がハラリと落ちて視界に入った。髪の先が薄らと銀色に変わっているのを目の当たりにし、これで私も後には引けなくなったのだと覚悟した。 「お前、どうしてそこまで……?」  馬鹿だ、とでも言いたいのだろう。彼らは呆れたような、或いは訝しむような目を向ける。何と言われようと、私は自分の信じた道を進むだけだ。 「何かを手に入れなければならない時ってね、必ず何かを犠牲にしなければならないの。全てが思いのままに自分だけが得をするなんて、世の中はそこまで上手くできてないでしょう?」 「だからって、自分を犠牲にするのか?」 「他人を犠牲にするより、最善且つ有意義な犠牲だと思うわ」  人としての体と引き換えに白狼の力は手に入れた。あとは森を抜けられるかどうか、この体で、この目で確かめるだけ。  私は、覚束ない足取りで地下牢を後にした。

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