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 室内は至って殺風景で、あるのは寝台と机くらい。散らかっているどころか片付き過ぎているほどだった。そんな殺風景な室内に、仄かに花の香りが漂っている。見ると、窓際に置かれた机の上には、たくさんの花が飾られていた。竜胆りんどう水仙すいせん、それから牡丹ぼたん。それが院瀬見さんの外見からは想像のつかない光景だった。  花が好きなのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、背後でパタンと戸が閉まる。とたんに緊張感が増して、目の前に置かれた現実が急に輪郭を現し始めた。 今日からここで院瀬見さんと寝起きする。覚悟を決めたはずなのに、どうにも落ち着かない。こういう時、どんな態度を示せばいいのかわからず、あたふたしてると―― 「おい、どうした? 寒いのか?」 「ひっ!」  急に肩に触れられ、思わず変な声を上げて飛び退いていた。目を丸くして驚いた院瀬見さんだったけれど、堪え切れずに吹き出していた。 「ははっ、面白いな」 「お、面白いってなんですか!」 「なぁ。俺のこと、襲うなよ?」 「何言ってるんですかっ、襲いませんよ!」  相手は私よりもずっと歳の離れた大人の男性。私のことなんて、迷い猫を拾った程度にしか思っていないはず。頭ではわかっていても、こういう状況に不慣れな私には、落ち着くまでに時間が必要だ。 「あのっ、院瀬見さん」 「どうした?」  羽織っていた外套がいとうを脱ぎ始めたその背中に、躊躇いがちに声をかけた。 「私、物置とか蔵とかでもいいです。だから、別の部屋がいいというか……」 「なんだ、俺と一緒なのは嫌か?」  嫌とか嫌じゃないとかの問題ではない。世間一般の常識というか、簡潔にいえば恥ずかしいの一言だった。 「物置ってのは、さすがに怪しまれるだろう」 「怪しまれます?」 「カガチやシオンには本当のことを話したが、他の隊員にはアオバを婚約者と思い込ませておきたい。そうしないと、いつどこで渡会さんの耳に入るかわからん。それに、ここに居た方が安全だ」  何を根拠にここが安全だというのだろう。疑いの眼差しを向けると、院瀬見さんはフッと笑って頭をガシガシといた。 「黒龍隊には女っ気がない。ヒユリも紅一点ではあるが、あいつは男みたいなやつだ。ただ、お前は可愛い」 「か、かわっ!」  その言葉に不覚にも鼓動が跳ねり、とたんに羞恥心が腹の底から心臓に向かって駆け上がってきた。 どうしてこの人は、表情一つ変えずに、しれっとそんな恥ずかしい言葉を簡単に口にできるのだろう。少しくらい照れくさそうにするとか、顔を見られないように逸らすくらいしてもいいのに。妙に堂々としているから、言われた私の方が恥ずかしくなってしまった。 「妙な気を起こす隊員がいないことを信じてはいるが、何も起こらないと断言はできない。ここに居れば、そんな連中を牽制することくらいはできるだろうさ」 「まぁ、そうだとは思いますけど……」  院瀬見さんが言うように、総長の婚約者に手を出そうって命知らずはいないはず。  それにしても、この人は一体何を考えているんだろう。さっきまで私と同室になることを面倒そうにしていたかと思えば、物置でいいという私を心配するようなことを言ったりと、なかなか心の読めない人だ。  偽の婚約者として取引を持ちかけるほどの人だ。これも何か魂胆があるに違いない。 「何だ、これでもまだ俺と同室になるのが嫌なのか? 俺ほど安全な男はいないと思うぞ? まぁ、それでも嫌だと言うなら、カガチにでも頼むか」 「そ、それは断固拒否させて下さい。問題ありませんっ、院瀬見さんと一緒がいいです!」 「安心しろ。俺は小娘を襲う趣味はない」 「こ、小娘って。私はそこまで子供じゃ……」 「ん? そうか? 俺には17・8に見えるし、10以上、歳が離れているように思ったが?」 「確かに一八ですけど」 「なら小娘だ」    院瀬見さんはニッと白い歯を見せて笑って、私の頭を撫でた。 〝それでも納得がいかないなら、男女というよりも年の離れた兄妹と考えればいい〟と院瀬見さんは言ってくれた。たったそれだけの言葉ではあるが、不思議にも不安が和らいだ気がした。 「あ、ありがとうございました」  ふと、その言葉を口にしたくなって告げた。当然、前触れもなく礼を言われたのか理由もわらず、院瀬見さんは首を傾げていた。 「ここへ連れてきてもらったお礼を、まだ言ってなかったので」 「いや、礼を言うのはこっちだ。縁談の件もそうだが、仕事の件も引き受けてくれて助かった。アオバはいい腕を持っているからな。今の黒龍隊には必要不可欠だ」  そう言って、院瀬見さんは自分の頬に触れた。そこは少し前までついていた切り傷のあった場所だった。 「あの薬香はよく効く。少なくとも、以前までここにいた香術師より何倍も腕がいい」 「お世辞でも嬉しいです」 「いや、俺は本当のことを言っただけだ」  お義父さんに店と己を売られ、全てを失って、自分のすべきことや香術師としてやりたいことまで奪われてしまったかと思った。けれど、院瀬見さんのおかげで、こうしてまた香術師を続けられる。  失ったことをなげくより、今は前を見て、ここですべきことや私にできることを見つける。それが今、私がすべき最優先事項だ。 「院瀬見さん、何かお仕事はありませんか?」 「仕事? これから働くつもりなのか?」 「まだ申ノ刻さるのこくを過ぎたばかりです。明日に備えて準備くらいはできますよ?」 「仕事熱心だな。これはいい拾い物をしたかもしれんな」  まるで、こき使ってやると言わんばかりの眼差しに、思わず身震い。こちらの言葉を真に受けて、それこそ馬車馬のようにこき使われても困る。 「院瀬見さん、私も人間ですからね? 仕事の後は適度な休息も欲しいですよ? それに、香術の研究もしたいですし」 「何だ、残念だな。ここぞとばかりにこき使ってやろうと思っていたのに」 「えっ!」 「ははっ、冗談に決まってるだろう。本当、アオバをからかってると飽きないな」  面白そうに笑う姿が、妙に憎らしく見えた。  町娘達は「院瀬見様」と呼んで憧れを抱く者が多いと聞いていたけれど、院瀬見さんの何に魅力を感じているのか、私にはさっぱりわからない。   強いて言うならば、容姿だろうか。剣の腕もたちそうだし、顔立ちも整っている。おまけに国を守る黒龍隊の総長だもの。どこか危険で、ほんの少しだけ甘さを含んだような雰囲気が町娘達を虜にしているのだろう。きっと、そうに違いない。 「あの、ちゃんとお休みもいただけますよね?」 「当然だろう。香術師としての仕事が済めば、好きなようにしていい。香術の研究をするなり町に出るなり、アオバの好きにしていい」    そう言って、院瀬見さんはなぜか戸の方へ向かった。 「院瀬見さん、こんな時間にどこへ行くんですか?」 「これから夜間の見回りだ。帰りは遅くなるだろうから、先に寝てろ。寝台、使っていいからな。留守番、頼むぞ」  院瀬見さんはひらひらと手を振って部屋を出て行った。

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