水囚の鏡姫
四話 もしも、あの時……2

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 海を見下ろせる山の頂上に、小さな建物が建っていた。建物の周囲は清らかな水をたたえた池で囲まれていて入り口に建てられた鳥居が、建物と山、聖域と俗とを分けていた。鮮やかな魔除けの朱も今は灰色に色褪せ、周囲に植えられた木々は強い風に大きくしなっている。時折みしっと建物が軋んだ。 (……いよいよなのですね……)  巫女としての自分の使命が近づいていることを悟り、馨月姫は深く息をついた。建物の中は薄暗く、窓ひとつない。淡く揺らめく蝋燭の明かりだけが彼女を照らしていた。その炎も、彼女の不安な心情を映すかのように時折儚げに揺らめいた。 (……贄姫として荒れ狂っているシレナを鎮める……そのこと自体に恐怖はないのだけど)  幼い頃から鎮めの儀式を執り行う巫女姫として生き、必要な時以外は村に下りることもなかった彼女に俗世での未練はない。  そのはずだった。 「……でも、ひとつだけ叶うなら……」  彼女が願いを口にしようとしたその瞬間―― 「すみませーん……」  か細い声と戸を叩く音が彼女を現実に引き戻した。 (……遭難者?……外はこの嵐……とりあえず助けないと……)  彼女は小走りに出入り口に向かうと扉を開けた。 「……た……助かった……」  そこに立っていたのは風でぐちゃぐちゃに乱れた髪と、泥だらけの着物を身に纏った青年だった。髪の色は茶。ここまでは一般的な村人とそう変わらない。だが、馨月姫は彼の瞳を見た瞬間、胸の高鳴りを感じた。 (……綺麗な……朱色……)  彼の瞳は朱色だった。いつも見る鳥居の色であると同時に、生きとし生ける全ての者を見守り育む優しい太陽の色。彼女は一目で彼に惹かれてしまった。 「……み……巫女姫?す……すみません!道に迷ってしまって……」  一方で目の前にいる人物の正体に気付いた青年は申し訳なさそうにそう告げた。聖域に立ち入ってはならないというのは村の暗黙の了解である。彼も何度か馨月姫の姿を見たことはあった。腰まで伸びる美しい黒髪に、海の色を映したかのような蒼い瞳。さらに身に纏っているのが朱色の巫女服とくればあてはまる人物はひとりだけだ。 「いいのです。このような嵐の中、村に帰ることはできないでしょう。もし、悪いと思っているのならひとつだけお願いしてもいいでしょうか?」 「何でも。僕にできることなんてたかが知れていますけど……」 「……わたしは、恋をしてみたいのです」  この馨月姫の言葉に、青年は飛び上がるくらいの勢いで驚いて 「……ぼ……僕なんかで……いいんですか?」 「ええ。あなたの瞳、とっても綺麗……。それにわたしは後数日の命です。あなたを逃せばもう誰にも会えないでしょう。……こんな感情を抱くのは巫女失格かも知れません。でも、生まれてきたからにはたとえ僅かな間でも恋をしてみたい……村人たちを見ていてそう思ったのです。……これはわたしの『人間』としての最期の願いです。どうか……叶えてくださいませんか?」  そう告げる馨月姫の体は小さく震え、瞳はわずかに潤んでいた。 (……巫女姫って言っても……女の子だもんな……) 「わかりました。僕でよければ。僕は旭っていいます。よろしくお願いしますね」  村の一青年と巫女姫。身分違いの決して許されることのない恋。仮にこの恋が村長にばれてしまえばどれだけの罰を受けるかはわからない。でも、そうだとしても。 (ずっと村を守ってくれた巫女の最期の願いを叶えることがいけないことだと、僕には思えない)  むしろこれは彼女への恩返しだ。ずっと孤独を抱えて、ささやかな願いを胸の奥に押し込めて、今にも折れそうな細い体で全ての運命を受け入れて、小さすぎる肩に全ての責任を乗せたひとりの「女の子」への。 「……唐突なお願いをして本当にごめんなさい。そして聞いてくれて本当にありがとう」  馨月姫は照れたようにそう笑うと、改めて青年の瞳をまじまじと見つめる。 「ど……どうしたんですか?」  その視線を感じた青年は困惑したような表情を浮かべる。 「あ、ごめんなさい。でも、あなたの瞳何度見ても綺麗……」  その表情に気付いた馨月姫は慌てた様に瞳を逸らす。 「え……そんなこと言われたの……初めてです……むしろ……」 (……この瞳の色のせいで……僕は……)  根も葉もない噂を立てられて、どれほど心を傷つけられたかわからない。そういう経験をしてきたため、旭にとって自分の瞳の色はずっとコンプレックスだった。普通の人間と同じ茶色や黒の瞳ならどれほど良かったか。 「……何か気に障ることでも言ってしまいましたか?」  瞳に影が落ちた旭を気遣うように、馨月姫は申し訳なさそうにそう告げる。 「あ、いえ。……あなたには話してもいいかもしれません。何でも秘密を共有することから恋が始まると母さんは言ってましたから……普通の人間の瞳って大抵茶色か黒でしょう?少なくともこの国では」 「……ええ。厳密に言えば『石』の力が強い人間はその石の色が髪の毛や瞳の色に反映されることがあるのですけど……これはわたしたち『石守の民』にだけ伝わることですから……普通の村人はまず知らないでしょうね」 「どうも僕の母親か父親のどちらかに『石守の民』の血が流れていたらしくて、僕の瞳の色はご覧のとおりに緋色です。でも多くの御伽噺では、緋色の瞳というのはどちらかといえば闇の象徴、人ならざる魔の特徴とされることが多いようです。そのために僕は村で生まれたときから不吉な存在だと思われてきました。母も父親も僕には優しかったので性格がひねくれるようなことはなかったんですけど……」 「だった……っていうことは……」  旭は少し俯くと、 「ええ。父も母もあまり体が丈夫なわけではなかったようで……十年前に。その後、また僕のせいだって噂がたって……」  幾度も胸を抉る言葉。 「あの一家は呪われている」「あの子供が不吉をもたらした」「人ならざる魔」  決して彼に責任はないのに繰り返されるのは心無い言葉。掌は差し出されることもなく――代わりに差し出されたものは誹謗と中傷と罵声。 「……っ」  馨月姫は胸からこみ上げてくる怒りを必死で噛み殺していた。自分が守ろうとしている者たちが今目の前にいる青年をどれだけ傷つけたのか―― (人間は綺麗なだけの存在じゃない……そんなのはわかってる。だけど)  あんまりではないか。彼だって望んでそう生まれたわけではないのに。 「馨月姫?」  涙が溢れて止まらなかった。悲しくて悔しくて許せなくて。 「……あんまりです……あなたは……そう望んだわけじゃないのに……それに……それだけの仕打ちを受けてもあなたをとりまく光はとても優しい……怒ったって憎んだって……神様だって精霊だってあなたを責めはしなかったでしょう」 「……ありがとう。僕のために泣いてくれた女の子は初めてです。でも、もう泣かないで。目の前で誰かが泣くのを見るのは……もう嫌なんです」  馨月姫は首を振ると、 「……これはあなたの代わりです。きっとあなたは……もう泣けないから」  旭は一瞬息を呑んだ。 「……どうしてそれを?さすが……巫女姫ですね。」 「いいえ!」  馨月姫は大きくかぶりを振ると、旭の手を掴んだ。 「……全部我慢してもそれを悟られないようにするには……空笑いしかないの……母さまがそうだったから。いつも誰に対しても優しく、でも悲しそうにずっと笑ってた……私にだけ……『我慢しすぎてもう泣けない』って教えてくれたから母さまのかわりに泣いてあげたの……だから……わかるの」 「馨月姫……」 「……わたしが贄姫として消えてもあなたはきっと泣かないと思います。でも、心の中で泣いていたらわたしにはわかるから……だからそのことで思い悩んだりするのはやめてください」  旭はそっと馨月姫の体を抱き寄せると、 「いいえ。僕は恐らくあなたを失った時に泣くでしょう……出会ったばかりなのにおかしいかも知れません。でも、真っ直ぐに……『僕自身』を見てくれる女の子に出会うことはきっともうないでしょうから」 「……あなたは『巫女姫』ではなくわたし自身を見てくれるのですね……最期にあなたに会えて本当に幸せだと思います。生まれ変わることがかなうのなら、今度は――」 「僕も誓います。馨月姫、あなたを」  ――必ず幸せにすると。  そしてその誓いを胸に秘め、馨月姫は贄姫として散った。しかし報いを受けたのか村は台風で消滅。その後の旭の行方を知るものはいない。これが遠い遠い昔の恋物語の顛末である―― 「まあ、こういうわけだったのよ。」 「へー……なるほど……」  自分の前世を改めて聞き、何だか不思議な感覚に囚われたまま福本 旭は小さく頷いた。 「方向オンチから始まる恋もこの世にはあるってことか……」  かと言って、現世で馨月と出会ったきっかけは方向オンチには直接関係ない……いや極度の方向オンチでなかったらどこかに出稼ぎにでも行っていたかもしれないから、多少は関係があるのかもしれないが。それよりも旭が気になっていたのは別のことだった。 「ねえ、馨月。『石守の民』って何なの?歴史書には日本にそんな種族がいるって一言も書かれてはいないんだけど……」 「えーと……これは『石守の民』しか知らないことなんだけど――」  馨月の説明はこうだ。  そもそもこの世界の『人間』には三つのタイプが存在しているという。  全く石の力――いわゆるシレナを持たない『ジェティア』  石の力を持つ『レルリア』  最も強力な石の力を宿す『パーリア』  このうち『石守の民』は『レルリア』に分類され、シレナを崇拝し、時には操って自然と共存してきた一族で、現在はわずかに生き残るのみ。純血のレルリアはその中でも特に数が少なく、混血が進んでいるらしい。最後の『パーリア』に至っては全てが謎に包まれていて、現在世界に存在しているのかもわかっていないらしい。 「なるほど……じゃあ僕やおばあちゃんは『レルリア』で『石守の民』の血が混じってるってこと?」  馨月は少し考えて、 「厳密に言えば血ではなく前世から石の力を受け継いだ特殊な『レルリア』もいるらしいけど……その認識でほぼ間違いはないと思うわ……ただ、旭のおばあさまはこの地域の人ではないのよね?わたしは鏡に宿っていたから国内のことしかわからない。もしかしたら後者なのかも知れないわ。前者の定義はこの地域でしかあてはまらないとも言われているから」 「なるほど。よくわかった。ありがとう馨月。お礼に……」  そう言って旭は店の奥にひっこみ、少しして湯気を立てる紅茶と焼きたてのアップルパイを持って戻ってきた。 「ご馳走するよ。作ったのは父さんだけど」 「すっごくおいしそう……」  テーブルの上に置かれたそれらを見た馨月は嬉しそうに微笑むと、 「いただきます」  そう言って焼きたてのアップルパイにかじりついた。口の中で熱くて甘い果汁と果肉がとろける。その味は言うまでもなく絶品。 「すっごくおいしい!」  満面の笑みを浮かべる馨月を見た旭は、 (精霊って言っても……普通の女の子にしか見えないや) 「すっごく美味しかったです」 「いえいえ。精霊に気に入られるなんて、ウチの味は世界を超えましたね。お菓子の作り手として誇りに思いますよ」  その後、結局紅茶を二杯、アップルパイをもう一枚おかわりした馨月は心から満足した様子で椅子に座っていた。テーブルには旭と、その父親も座っている。旭は馨月が見た目は細いのに意外と大食いだったことに少しきょとんとしていたが父親は自分の作ったお菓子を本当に美味しそうに食べてくれた馨月が相当気に入ったようで、さっきから始終にこにこしていた。 「そんな大げさです……でも、本当に美味しかった……それに、こもってる気持ちがとってもあったかいから、食べると元気になって……そこもすっごく素敵だと思います」  前世である馨月姫は優れた巫女姫であったが故に、その修行という理由で幼い頃に実の両親とは引き離され、親の愛情を充分に得ることは出来なかった。そんな中でも月に数回は両親と会うことができ、その際にこっそり手渡される母親の手作りの饅頭にはとても暖かい気持ちがこもっていて、こっそりとそれを口にするとどんなに厳しい修行でも耐えることが出来た。それは彼女にとっては両親の愛そのものだったから―― 「まあ、お菓子にしろ何にしろ……人に食べてもらったり、買ってもらうようなものを作る時は、愛がこもってないといいものはできないのだけれど……改めて言われるとやはり嬉しいものだな」 「僕も愛を込めてお菓子を作ってるつもりなんだけど……父さんには勝てないんだ」  少し悔しそうに笑った旭に、 「それはお前。父さんはな、亡くなったお前の母さんに対する愛情も込めてるからだよ。母さんに食べてもらっても恥ずかしくないようなお菓子しか作ってないつもりだからな」  父親は笑ってそう言うと、じっと馨月を見た。 「そうだ。旭、お前は馨月のためにお菓子を作ってみるってのはどうだろう?期限は三週間。条件は完全新作」 「えええ?」  驚いて目を丸くする旭に、 「旭なら、きっと出来るわ」 馨月は力強い励ましの言葉をかけた。 「……わかりました」  さすがに前世で自分の方から「必ず幸せにします」宣言をした相手の頼みなら断れない。それに―― (さっき、父さんのお菓子を本当に美味しそうに食べてるのみてたら、ちょっと悔しかったし)  どうせならば、自分のお菓子で同じように笑ってもらいたい。 「よし、交渉成立、だな」 「頑張ってね。楽しみにしてるから」  すべては馨月の笑顔のため。  こうして、福本 旭は人生初の創作洋菓子作りにチャレンジすることになったのであった。 ―― 「とは言ったものの……」  旭は目の前に積み上げられた大量の料理本を前にため息をついた。 「そもそも種類が多いからまず系統が決まらない……簡単なものじゃないと今の僕の腕じゃ作れないし……」  きっとどんなものを作っても馨月は喜んでくれるだろう。極端な話、焦げまくった失敗作だとしてもだ。でも、それじゃ駄目だ。自分自身が納得できないようなものを食べさせるわけにはいかない。 「……こだわりがないような人間はきっと成功できないし、作り出す何かに『愛』を注ぐことなんてできないから」  馨月が言っていたように、父親のお菓子は市販のものとはまったく違う。そしてその違いとは間違いなく『愛』だ。父のお菓子を食べた人たちが皆笑顔で帰っていくのはきっとそのせいに違いない。 「僕は父さんみたいに、お菓子作りは得意じゃないけど……その代わりに来た人がみんな笑顔になるような店にするって……誓ったんだから」  これは三代目「忘れ水」店主としての意地だ。 「だから、この店にやってきた馨月を笑顔にすることは……絶対成し遂げなきゃいけないことなんだ」  旭はそう呟いて、再び本の山に向かおうとした。だが―― ぐーきゅるるるるるるるるる。 「……お腹空いたな……サンドイッチでも作ろうかな……」  腹が減っては戦もできぬと言うし。そう自分を納得させて椅子から立ち上がったその時だった。 「……あ」  一冊の本が彼の目に飛び込んできた。タイトルは……「月彩」。お菓子作りとは一見関係なさそうな月の画集だったが、迷うことなく彼はその本を手に取った。そして淡い色彩で描かれた夕暮れの三日月の絵のページで手を止めた。 「これだ……三日月形のケーキを作ろう」  彼はそうはっきり言うと、しおりを挟んでから、何やら完成予想図を描き始めた。 ――そして三週間後。 「出来たみたいだな?旭」 「頑張りましたよ。馨月が気に入ってくれると嬉しいんだけど……」  旭はそう言って蓋がかぶせられた皿を馨月の前に差し出した。緊張しているらしく、その指は微かに震えている。 「……あけていい?」 「うん」 「じゃあ、あけるね」  馨月が蓋を取るとそこには…… 「……可愛い……」 「なるほど、考えたな」  皿の上の夜空に小さな三日月が浮かんでいた。生クリームにイチゴを混ぜたものとブルーベリーのソースで夜空を再現し、三日月を象ったシフォンケーキにカスタードクリームを塗り上から粉砂糖をふりかけたもので月を表現していた。菓子としてはシンプルだが、見た目はとても可愛らしい。 「なんだか……食べるの勿体ないけど……頂きます」  馨月はフォークで三日月の端を切り取り、口に運ぶなり 「美味しい!ふわふわしてるし……」 そう言って満面の笑みを浮かべる。 「どれどれ……」  父親も同じように三日月の反対側を口に運んだ。 「……技術はまだ父さんにはかなわないが……センスはいいし、何より――」  彼は言葉を切って馨月を見た。その視線の先にある彼女の笑顔には偽りひとつない。 「馨月は心から喜んでるみたいだからな。合格だ」 「よ……良かったぁ……」  旭はその言葉に肩の荷が下りた気がして、安堵の表情を浮かべる。 「ごちそうさま。そして……ありがとう」  そして自分に向けられた彼女の笑顔に、 「どういたしまして。あと、僕からも……ありがとう」 心からの笑顔を見せたのだった。 ――それから二年間、全ては穏やかに平和に過ぎていった。旭と馨月は正真正銘恋人となり、旭の店も繁盛。来た人皆を笑顔にする「忘れ水」の店主はいつしか、「本屋の魔法使い」と言われるようになった。出会った人(以外も)を笑顔にする彼の力は人々の心を癒し、その場所を暖かな光と笑い声で満たした。それは彼の望んできたことが叶った、その何よりの証だった。  しかし、その力は皮肉な形で彼の命を奪うことになった。その年の台風は史上最大の勢力で上陸し、小さな港町はほぼ壊滅状態に陥った。馨月の力により全ての住人はその命を取り留めたが、その嵐はこの土地に封印されていた「あるもの」の封印を解き放ってしまった。そしてそれが放つ負のオーラ――アートゥルムが地上に溢れ出し始めるにつれて、人々の心にも変化が起こり始めた。恐怖と不安、そして疑い――その気持ちが大きくなるにつれ、人々はこの土地を離れていった。時は一九五九年。高度経済成長期の真っ只中。人々の生活が大きく変わり始める時代の波も手伝って―― 「……」  旭は以前のような笑い声が消えた店のカウンターに座り、本のページをめくっていた。父親はその腕を買われて都会で菓子職人として働いていて、もうこの場所にはいない。 「……旭……」  馨月が彼の不安を感じ取って、そっと手を握る。その手は小刻みに震えていた。 「……ねえ馨月。僕は……これからどうしたらいいのかな……もう古本屋を続けていくのは厳しそうだから。それに、新しく越してきた人たちは……僕らのこと気味悪がっているみたいだから……」 「旭……わたしは旭がいれば大丈夫……何を言われたって……」 「いいわけないだろ!」  珍しく強い調子でそう言い放った旭に、馨月は思わずびくっとなった。 「……馨月が無理してるのはわかってる。もう君が傷つくのは見たくない。それに、この気……何とか食い止めないと。本当に誰ひとり笑っていられない場所になってしまう。変わってしまったけど、僕はやっぱりこの町を守りたい。だから……」 「……まさか……」 「うん。……昔、君がそうだったように……僕も――」  この場所を守るために。せめて未来で誰かが笑っていてくれるように。 「『それ』に力を使ってみて、力が足りなければ……そのまま贄になるよ」 ――  薄暗い校舎の中にふたりはいた。手に持った懐中電灯だけが空間を照らす。満ちる空気は暗く淀んでただ息苦しい。 「もう準備は済んだ。どう転んでも『封印』は成立する。……馨月のおかげで」 「旭……本当にいいの?あの人たちは私たちを冷たい眼で蔑んでた……そんな人たちのために……消えてもいいの?」  旭はそっと睫毛を伏せると、馨月の肩にそっと触れた。 「いいんだ。笑い声が響いてた頃の記憶はちゃんと胸の中にある。それに、やっぱり……暖かい思い出の詰まった場所はどんなに変わってしまっても守りたい。それに、アートゥルムが不安や恐怖や疑いの……負の感情を増幅させているのだというのなら……それを封じればまた、笑顔が溢れる場所に……いつかは戻れるはずだから」 「……なんで……笑えるの?……でも……」  思えば前世でもそうだったわね、と馨月は微苦笑する。 「……本当に僕は甘いよ……自分でそう思う。でも、きっと……切り捨てるよりは受け入れることの方が……素敵だよ」  それを見た彼はそう言って頭を掻いた。 「……次、生まれ変わったら絶対死ぬまで一緒にいるんだから……三度目の正直」 「そうだね。今度は……ちゃんと結婚して……綺麗なドレスも着せてあげるよ。あと、あのお菓子も覚えてたらもう一回作ってあげるよ。小さな家かもしれない。お金持ちにはなれないかもしれないけど……」 「お菓子、絶対作ってよね?」  馨月はそう言って悪戯っぽく笑う。 「うん、忘れないようによーく念じておくよ……馨月。ありがとう。君に出会えてよかった」 「……わたしも……あ、でもまだ決まったわけじゃないし……ね?」 (……本当は……わかってたんだ……全て。でも思いを譲りたくはなかったから……) だから。 「うん。……行こう」 (代わりに僕はそう告げたんだ)  校舎の一番奥に「それ」はいた。見た目は少女そのもの。黒髪に緋色の瞳。ただひとつ違うのは少女を取り巻くアートゥルム。巨大な負の思念は荒れ狂う嵐のようにただ、吹き出している。 「わたしを封印しようとでもいうのね」 「……この場所を守りたい。……君も望んでそうなったわけじゃないと思う……でも……」 「……そんなことを言われたのは初めてだけど」  少女はそう言うと旭に一歩近づいた。 「……あなたもわかってるでしょう?願いなんて同時には叶わない。誰かが笑えば誰かが泣く。平等な幸せなんて理想よ。ただの夢物語なの。だからあなたの願いは叶わない……」  そして一瞬の間。 「……君が僕を殺すから……だよね……でも……」  旭は地面に倒れこんだまま続ける。彼に外傷はないが、直接アートゥルムを心臓に注ぎこまれれば生きていられる人間はまずいない。 「……叶わないのは……君の願いの……ほうだよ……」 「そんなこと……?」  いつの間にか少女を包むように光の鎖が出現していた。 「……これは……全属性封印……あなたが……――でもないあなたがどうして!」 「……これが、旭のシレナ。人だけでなく精霊とも結ばれた絆があるからできたことよ」  馨月はすでに事切れた旭を抱きかかえたまま、静かに告げた。 「……認めない……せめてお前とあの男の魂を歪めて――ひとつに……」  黒い光が炸裂し、一瞬の沈黙。その光が消えたとき、ふたりの姿はどこにもなかった。 「……鏡の結界……歪められた魂はもう元には戻らない……転生もできない者たちが巡り会うことは叶わない――」  少女は嘲笑うようにそう言うと、高笑いを響かせながら意識を手放した。  こうして封印は成立した。また同時に新たなる『水囚の鏡』が生まれることになった。その中にふたつの魂を閉じ込めて。  旭は今でも――鏡に囚われた今でも考えることがある。もしも、あの時にあの場所に行かなければ。もしも、もっと自分に力があったなら――そもそも、封じるのではなく消し去っていたならば――このようなことにはならなかったのではないかと。 (……封印は三度解かれ……今この場所には魔物が溢れている。結局未来にこの学校に通う子供たちまで危険にさらすことになってしまった)  そしてそれこそが……自分と馨月が背負った罪なのだと。

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