水囚の鏡姫
第四話 もしも、あの時…… 1

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 時は大きく遡る。  福本 旭が生まれたのは一九三八年、今から約百年前の春だった。当時日本は戦争の真っ只中にあったが結市――当時はまだ小さな漁村だった――は田舎だったためかそれとも何かもっと別の魔術的な力が働いていたのか、空襲もなく、家族は全員無事に戦後を迎えた。福本家は祖父の代から「忘れ水」という名前の古本屋を営んでいた。幸い本が焼けるという被害も無く、戦後すぐに店は再開された。そして旭が物心着く頃には、父の利雄の得意な西洋菓子を出す喫茶コーナーも再開されていた。その菓子の評判がすこぶる良かったためか、異国の血が混ざっているからと差別されることもなく彼はのびのび育った。 しかし、彼のその力が目覚めないということはなかった。  それは彼が十三歳になった春のこと。学校の帰り道で彼は道端にうずくまる不思議な生物を見つけた。見た目は猫に近いのだが首に宝珠があり、海草らしきものが巻きついている時点でどう考えても猫ではない。 「……大丈夫?」  旭は迷わずにその手をその生物に差し出した。その生物は少し戸惑っていたが、やがて彼の手をぺろぺろとなめ始め、ゆっくりと起き上がろうとした。しかし衰弱が酷いらしく、立ち上がることも出来ない。 「……とりあえず、ここからは離れよう。ちょっと我慢してね」  彼はその生物を抱きかかえて、その場を去った。幸いにも、家までの道では誰とも出会わなかった。家に着くとすぐに彼はテラスにその生物を連れて行き、皿に牛乳を入れたものを与えた。しかし、一向に飲む様子は無い。 「うーん。牛乳は嫌いなの?海草か……もしかして……海水?」  彼は再びその生物を抱えあげると波打ち際に連れて行った。すると、その生物は嬉しそうに海水をごくごくと飲みだしたのだ。そしてすっかり元気になった。 「良かった。もう大丈夫かな?」 「旭だよ。君は?」  シーリーブは美しい石を旭に渡すと、海の彼方へ消えていった。 「……うーん。僕には『視る』力はないと思ってたんだけど……やっぱおばあちゃんの血かなぁ」  物心ついた頃からなんとなくそういう類のものを感じ取る力はあったのだが、今回のように精霊そのものを見るのは今回が初めてだった。 「……とりあえずおばあちゃんにエアメールで報告かなあ」  それから数週間後、彼の母方の祖母であるイグレーヌ・ローズミラーからのエアメールが彼の元に届いた。彼女は生粋のイギリス人だが、母が日本に嫁いだために今ではバイリンガルになっている。 Dear 旭 お久しぶりです。元気にしているかしら? ずいぶん不思議な体験をしたのね。やはり私の血を引くだけあるのかしら。精霊語では「シレナ」と呼ばれるその力は、基本的に十三歳以降に目覚めるとされているの。あなたのシレナがどのようなものかはまだわからないけれど、恐らく攻撃系の力ではないでしょうね。きっと人もそれ以外の者も笑顔にできる素敵な力だわ。人を喜ばせられるというのはとても素敵なことよ、旭。だって人が笑ってくれればあなたも笑顔になれるでしょう?日本には笑うと幸せが来るっていう言い伝えがあるみたいだから、きっとその力はあなたを幸せにしてくれるでしょう。そう信じているわ。また素敵な体験をしたら、ぜひ私に教えて頂戴ね。                                                 愛を込めて  イグレーヌより 「なるほど。人も人以外も幸せにするチカラか……素敵だよね」  その意味では彼の父親もお菓子で人を笑顔にしていた。名づけるなら「お菓子のシレナ」だろうか。 「僕は……紅茶淹れるくらいしかまだできないからなぁ」  そう言って彼は苦笑した。父親と違って不器用なところがある彼は、料理やお菓子作りはあまり得意ではなかった。その代わり、本好きで頭も良く、紅茶だけはおいしく淹れられる。 「おーい、旭!お客さんだ!」 「あ、はーい。今降りるよー」  父親が自分を呼ぶ声に気付いて、彼は足早に階段を駆け下りていった。 ――  学校で授業を受けて、家の古本屋兼カフェの手伝い。その繰り返しの日々が何年も続いた。転機は彼が十八才の時に訪れた。 「旭、ちょっといいか?テラスで菓子でも食べながら話そう」 「?うん」  その日の夜、唐突に父親にテラスに来るように誘われた旭は、言われるままにテラスに向かい腰を下ろした。初夏の爽やかな夜風が、髪を揺らして吹き抜けていく。反対側に座る父は、酷く真剣な表情で旭を見つめていた。 しばし、沈黙。そして父は重い口を開いた。 「……旭。古本屋を継いでくれないか?俺は正直菓子作りだけでもう手一杯だ。本は重いし腰にくる。母さんだけに無理をさせるのも悪い。お前なら若いし、大丈夫だろう。どうだ?」 「えっと……うん、わかった」  旭は驚くほどあっさりと了承した。 「お前……そんなあっさり……」  聞いたほうの父親が思わず面食らってしまったほどだ。 「だって、僕はこの場所好きだし、本好きだし。はじめっから時期が来たら継ぐつもりだった。いつ言われるのかな、と思ってたくらいだよ。それに、僕……普通じゃないし」 「……旭……」 「でも、僕はそれでいい。このチカラ――おばあちゃんの言う『シレナ』は人も人以外も喜ばせるチカラだって。それってすごく素敵なチカラだと思うんだ。そんな古本屋さんって素敵じゃないかな。訪れた人がみんな笑顔になれるような、そんな場所。そしてみんなが不思議がって僕をこう呼ぶんだ。『本屋の魔法使い』って」  彼の表情には迷いも不安も見えなかった。 「……わかった。頼むよ、三代目店主」 「はい」  こうして彼は古本屋兼カフェ『忘れ水』の三代目店主となったのだった。 ――  それから毎日のように人間も人間以外のお客さんも海からやってきたりして、忙しくも平和な毎日が続いた。暗い表情を浮かべていた人も、帰り際には笑顔になっている。その笑顔を見るのが彼は何よりも好きだった。旭が高いところの本が取れなくて困っていると、以前に助けた精霊達がやってきてその本を取ってくれた。中には肩を揉んでくれる精霊や、精霊言語やシレナに関する知識を教えてくれるものまでいた。  「本屋の魔法使い」。予想通りにそう呼ばれるようになった旭の周りには常に笑顔と明るい声が溢れていた。小さな港町で、皆顔見知りだったためか、それともそのチカラのためか――それはわからないが、とにかく旭と忘れ水は町人たちに温かく受け入れられており、彼が「普通ではない」ことを知っても差別も見下しもしなかった。しかし、あるきっかけで彼の人生は大きく動くことになるのだった。 ――ある年、巨大台風がその小さな港町を襲った。船と言う船は岸に打ち上げられ、屋根瓦が吹き飛んだ。幸いなことに死者はなく、洪水や高波も起こらなかった。「馨月姫のおかげじゃな」と年寄り達は言う。  昔、この一帯には小さな村があった。しかしその村は台風で海の藻屑と消え、儀式の生贄であった馨月姫という巫女も命を落とした。しかし、彼女は不思議な鏡に宿ることで鏡の精霊『鏡姫』となり、台風が来るたびにその進路をわずかに逸らして下さるのだ、と。その伝説ももう知る者は少ない。しかし、老若男女がなんとなく『鏡』の存在は信じていた。旭もその一人だった。様々な精霊と出会ってきた彼だが、さすがに『鏡姫』に会ったことはない。伝説によれば、とても美しい巫女だったという。 「鏡姫か……きっとすっごく綺麗な精霊なんだろうなあ……」  せっかく精霊が見えるのだから、一度くらいは会ってみたい――そんな淡い思いを旭が抱き始め、台風が去った次の日の早朝。その出会いは『運命』のようにもたらされた。 ――いつものように穏やかに波が打ち寄せる砂浜を、いつものように旭は散歩していた。 「うわ、さすがに流木とかゴミとか凄いな。後で拾わないと……」  台風は大量のゴミや流木を残していった。ついでに言うなら塩害もだ。窓ガラスが白い粉を吹いたようになってしまっていて、台風一過の快晴である以上、今日が大掃除になることはほぼ間違いない。そういえばテラスのテーブルもイスも倒れていた。植えてある木のおかげでだいぶ被害は軽く済んでいるけれど。 「まあとりあえず散歩してから考えよう」  彼は岬の方へと歩を進める。それが彼の日課だった。そしてその途中で、彼は足を止めた。 「え?」  波打ち際に倒れているのは少女だった。普通の少女と異なっているのは月光で染めたかのような銀色の髪ぐらいでその部分を抜きにしてしまえば普通の少女と何も変わりはなさそうだった。 「君、大丈夫?」 「うっ……」  旭の声に気付いて少女はそっと目を開いた。その瞳の色は美しいエメラルドグリーン。 (……精霊……だよね……この子)  その瞳の色と髪の色で旭は彼女が人間ではないと確信した。しかし、だからと言って彼が取る行動を変えることはない。 「大丈夫?立てる?」 「……」  手を差し出している旭を、少女は不思議そうにしばらく見つめていたが、やがて敵意がないことを感じ取ったかのようにその手をとって立ち上がった。 「わたし……ここ……は?……鏡はどこ?」 「……鏡?」  旭が辺りを見回すと、細かい幾何学模様が掘り込まれた不思議な鏡が打ち上げられていた。彼はためらわずにそれを拾うと、少女に手渡した。 「ひびが入ってるみたいだから、気をつけて」 「……あ……ありがとう……」  優しい言葉を言われるのに慣れていないのか、それとも何かを思い出しているのかはわからないが、少女は頬を紅く染めて、小さく礼をした。 「君、名前は?」 「……わたしは……馨月。……あなたは……もしかして……旭?」 「え……どうして僕の名前……」 「……思い出して……わたしの手を……そっと握ってくれる?」 「あ……うん……」  旭は少し戸惑いながらも、言われた通りに少女の手をそっと握る。 その刹那―― 「!」  彼の中に馨月の記憶が一気に流れ込んでくる。同時に彼の奥底で眠っていた前世の記憶の蓋が開いて溢れ出す。 (……僕は……)  そして彼は全てを思い出した。 「……ばあちゃんたちの言ってた『馨月姫』って……君のことだったんだね。そして僕は……前世での君の恋人だったんだ……」 「ごめんね……急に思い出させてしまったから、二日ぐらい記憶が混乱してしまうかもしれない……精霊になって、かなり強力な力を使えるようになったこと……忘れてたの。精霊が人と手を繋ぐと、その人の魂にその糸は繋がる。だから記憶に干渉したり、力を目覚めさせたりも出来るのよ。……そういう力を持つ存在が精霊以外にも昔はいたらしいの。今はきっともういないけれど」 「それが……君のシレナ、なんだね」 「その呼び名を知ってる人、まだいるんだ。教えてもらったの?」 「うん」  旭は頷くと、イギリスに住む祖母のことを語った。 「……いぎりす……ってどこ?」  馨月はどうやら海外のことは知らないらしい。精霊になっても結局鏡から遠くに離れられなかったからなのだろう。 「えーと……そうだ。今から僕の古本屋においでよ。まだ疲れてるだろうし。それに、世界地図があるから色々と説明してあげられるよ」 「ほんとに?」  馨月は嬉しそうに目を輝かせる。 「うん。ついでにお菓子もごちそうするね。和菓子じゃなくて洋菓子。気に入ってくれると嬉しいな」 「お菓子、大好き……巫女だったから、ものすごくたまにしか食べられなかったんだけど……わらび餅とか好きだったんだよ」 ―― 「ほら、ここだよ」 「わあっ……素敵」  淡く優しい光に照らされた、少し薄暗い古本屋に足を踏み入れると同時に、馨月は嬉しそうにそう言った。精霊としても巫女としても初めて見るものばかりなのだろう。きょろきょろとしきりに首を動かしている様子はどこか滑稽で微笑ましい。 「ここ、とっても暖かいオーラで満ちてる……それに、古びた本の匂いがなんだか懐かしい。普通、古いものは干渉しあってオーラが乱れてしまったりするんだけど……すごく居心地がいいわ」 「そう言ってもらえると嬉しいな。一応、僕のお店だから」  旭は照れたように微苦笑する。 「え?旭が……経営してるの?ここ?」  驚いたように問う馨月に、 「言ったよね?『僕の古本屋』って」 「……言ったけど……同じ年くらいの男の子がまさか立派にお店を経営してるなんて思わなかったんだもの……わたしの住んでいた村ではみんな漁に出てたし……それか巫女を守る任に就くかのどっちかだったから……」  そう言って彼女は少し頬を膨らませた。 「……僕の前世って……どんな感じだったの?君の恋人だったってことはわかったんだけど」 「んー……」  馨月は少し考えこんだ後、 「……極度の方向オンチ」 そうはっきりと言い放った。 「ほ……方向オンチ……生まれる前からそうだったんだ……」  旭はそう呟くとがっくりと肩を落とした。実際、旭自身はかなりの方向オンチだった。地図が読めないわけではないのだが、気付くと体が目的地とは別の方向に向かっている。小さい頃はよく迷子になり、その度に祖母であるイグレーヌに居場所を占ってもらったらしい。父親が彼に店を継がせようと決意した最大の理由は、彼の極度の方向オンチを心配して……かもしれない。 「でも、そのおかげでわたしたちは出逢えたの……」  肩を落とす旭に優しく告げ、馨月はその記憶を辿るようにそっと長い睫毛を伏せた。

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