「これが……その鏡?」 「……ただの鏡にしか見えないけど……」 ひながそう呟いて顔をしかめる。 「やっぱり普段は普通の鏡の姿をしてるんじゃないのかな?常に鏡の下が水浸しだったりしたら、気味悪がられて、お払いされた上で壊されるんじゃないかな……」 「そやな。聡の言う通りやろ。大体化け物だってモンスターだってまずは人間に化けるもんや。おおっぴらに正体見せびらかすもんは少ないやろな」 和希が納得したように頷いた。 「それはそうと……どうすればいいんだ?やっぱり開放ってなると鏡をかち割りゃいいのか?」 おもむろにバットを構えた隼斗を、 「かち割っちゃダメだよ」 智が制す。 「……わかった。けど、どうしてなんだ?何か知ってんのか?」 「……今のこの鏡はいわばふたりの魂のよりしろになってるんだ。下手に壊せば簡単に魂が壊れてしまう。そしてその時点で『願い』は永久に叶わなくなる。それは避けたいんだ……」 「智……ごめんね……」 馨月は俯き、そう口にする。 「どうして馨月が謝るの?馨月は何も悪くないよ?」 「ううん。そんなこと……ないの。いきなり『解放者』だって……わけのわからないことを言って混乱させて……一方的なお願いを押し付けて……智の友達まで巻き込んじゃって……それに……」 彼女はそこで言葉を切った。智の瞳が「言わないで」と訴えているような気がしたから。 「……馨月。……そのひとつだけいいか?」 おもむろにひなが口を開く。 「……うん」 「……初めは正直むかついてた……智を危険にさらす原因を作ったのは……馨月だったから」 智が結果的に無事に帰ってきたから良かったものの、もしも彼が『偽者』の鏡姫なり狩人に殺されでもしていたら。ひなは多分一生馨月を恨み、そして無理にでも止めなかった自分を悔いたことだろう。 「でも……今は違う。こうして時間を共有して、悩みとか過去とか知った以上はあたし達と馨月はもう友達だ。だからこそ、あたし達は友達である馨月を助けたい。……謝るくらいなら『ありがとう』とでも言えばいい。そっちのが言う方も言われた方もよっぽど気分がいいしな」 「……ひな……みんな……ありがとう……」 「さ、どうすればいいんか教えてや。ジルヴァ」 「頼むよ。馨月。」 馨月は小さく頷くと鏡に向かって手をかざした。 同時に鏡の表面が水のように変化し、全員を包み込むと鏡の中へと引き込んだ。 ―― 鏡の中の世界は静かだった。どこが空か地面かはわからないが上も下も一面の水。まるで海の中にいるような気分だった。実際、偶然取り込まれてしまったのか魚が泳ぐ姿も見受けられる。太陽はないが、淡い光が世界を照らしていて、その様子はとても幻想的なものだった。 「……綺麗……だけど……なんだか……」 怖い。ひなはそう思った。空がないから、地面がないから、一面水だから……それだけが理由なわけではなかった。音がしない。歩いているはずなのに、その足音すら。さらには淡い光が照らしているのに、自分の後ろに影がなかったのだ。 「本来はこの鏡は魂しか受け入れられないの……だから、実体のある智たちは不安定になってる……本来影のない人間なんていない……あまり長居すると……危険」 「なるほど。今の俺達は『精神体』に近いような状態ってことだな」 馨月は小さく頷くと、先頭に立って駆け出した。どうやら何かを見つけたらしい。 「……あれが……あのひと……旭……」 その先には、巨大な結晶があった。先が鋭く尖り、鎖が巻かれたその結晶の中にひとりの男性が閉じ込められていた。年齢は二十台前半。彼にも智たちと同じように影はない。 「……あれが……旭さん……馨月の……大切な人なんだね……」 「旭……お願い……出てきて!」 馨月は結晶に駆け寄り、中で眠る旭に語りかける。しかし、彼は応えない。 「……まずいですよ。……あの人の『精神体』……相当弱ってる……早くしないと……」 聡が真剣な表情で智に告げる。 「……うん。でも、彼が結晶から出てくれないと……僕の『力』は……」 彼がその力を使うためには、手に触れるのが絶対条件である。つまり旭が結晶の中に居る限り、力は使えないのだ。 「こうなったら、結晶ぶっ壊すか?」 バットを構える隼斗を、 「あはははは。無理よ。すぐ力技に訴えようとするのは馬鹿の証拠ね」 冷たく嘲笑う声が制した。 「……なんだ……てめぇ……」 隼斗はいきなり現れた黒衣の少女を思いっきり睨みつける。普通の人間なら間違いなくびびって逃げ出すであろう眼光の鋭さだが、少女は全く動じる気配がない。 「旭の結晶はね、あたしが作ったの。だから、あたしを追い払うことができたら、消してあげてもいいわよ?」 「上等だぜ。智、ぶっ潰そうぜ。」 「そうだね。ここで負けるわけにはいかない……」 智の右手に水が集う。 「無垢なる水の浄化の旋律……アクア・パージ!」 詠唱で解き放たれた水は真っ直ぐに少女を狙って飛んでいく……はずだった。 「うわあっ!」 「智さんっ!」 しかし実際にはその呪文は少女に当たる寸前で跳ね返り、智を直撃したのだ。 パールゲイザーは自らの使うシレナに対して耐性を持つので、致命傷になるわけではない。ただし、まったく無傷というわけにもいかないのだ。 「……大丈夫。このぐらいはかすり傷だよ。……聡、どうやらこの世界では水に属するシレナは使えないみたいだ」 「じゃあ、あなたは戦力外決定かしらね?」 勝ち誇ったように少女は嗤う。 「じゃあこちらの番かしら。受けなさい!漆黒と沈黙の螺旋の槍を!サイレンス・スピラ!」 そして漆黒のオーラを槍の形に具現化させて智たちに放った。直撃したと思われたが―全員が無傷なままでそのままの場所に立っていた。 「ど……どういうことよ!」 少女はさすがに驚いたらしく、焦燥を露わにする。 「……こういうことなんだよ」 「……あ……あなたまさかっ……『吸収』したっていうの?」 少女の言葉に頷いたのは和希だった。しかし、今の彼は普段の彼とは……別人になっていた。 「そういうこと。たまたま俺の両親はその力を持っていたから受け継いだんだ。滅ぼすためではない、誰かを『守る』ための闇の力を」 まず、普段の関西弁が影を潜めていた。彼は関西出身なので、常に関西弁で話す。この小説の中でも彼は常に関西弁を喋っていたはずだ。 そしてもうひとつは―― 「あいつ、黒髪に緋色の瞳……変身でもしたっていうのか?」 身に着けている服に変化はないものの、髪と瞳の色が変化していた。その色は正に『闇』の象徴だった。ただし、少女の身に纏う『深淵』や『奈落』を思わせる色とは違う。もっと優しい……例えるならば『夜色』だった。夜は恐ろしいだけではなく人々を眠りにいざない、疲れを癒してくれる優しいもの。そんな雰囲気が彼の『闇』にはあった。 「とりあえず、黙っててごめん。びっくりしたと思うけど……この事件が終わったら詳しく話すから……それまでは聞かないで欲しい……いいかな?」 「ああ。後でたっぷり聞くことにしよう。とりあえずはこの子におしおきをしなければいけないようだからね」 満はそう言うと意識を集中する。 「綺麗な薔薇には棘がある……可憐な花も狂い舞えば刃となる……フィオーレ・ロラージュ」 花びらが狂ったように舞い踊り、刃のようになって少女の肌を浅く裂いた。 「くっ……この鏡界はシレナ・セレナイカの領域……抵抗属性のシレナ・シカイはその力を増すということなの?」 唇を噛む少女に、 「とっととあきらめるんだな……どうせてめぇの力は和希に無効化されて俺たちにはきかねえんだからな?」 隼斗はそう言って手にした刀を突きつける。 「……ここでは分が悪いし、今回はあなたたちの勝ちにしてあげるわ……智。本当のあなたを知っても彼らは仲間でいてくれるのかしらね?……旭の結晶は解除していってあげるわ。またね」 「てめ……待て!」 隼斗が言い終わるよりも早く、少女の姿はかき消え、旭を包んでいた結晶は砕け散った。 「……何なんだよ。後味わりぃ……・それに……何なんだよ智に対するあの態度は」 (……みんな……僕は……) 僕は本当は――の力を…… 「智……急いで」 智は馨月の声で我にかえると、すぐに旭のところへ駆け出していった。 ―― 「色々と迷惑をかけることになってごめん。全ては僕たちが百年前に招いたことなんだ……あの時僕があの少女を消すことができていたなら……君たちを危険な目に合わせることもなかったと思う……」 旭はすまなさそうにそう言うと百年前に起きたこと全てを語った。 「……謝らないでください。あなたは……そんなことが出来る人じゃない。それに、あの少女は――力では絶対に倒せません……いえ、倒したくないんです。僕もあなたと同じで……誰かが傷つくのも傷つけるのも嫌いなんです」 智は首を横に振ると、旭にそう告げた。 「智君は僕に似ている。でも、君は僕と同じ道を選んじゃだめだよ……君には仲間がいる。大切なものを失うほど誰かの心を傷つけてしまうことはないんだから……」 「……はい」 小さく頷いた智に、 「それならよかった」 旭は納得したように頷き返す。 「あ、そうや。旭さんにおれらは感謝せんといかんのやった。旭さんが封印止まりにしといてくれへんかったら、おれらは多分こうしてチームとして集まることはなかったと思う。ほんまにおおきに!」 そう言って微笑む和希を見て、旭は驚き、そしてそっと睫毛を伏せた。 「……ありがとう。そう言ってもらえると少し楽になれるよ」 「……智、そろそろ……」 タイムリミットが近づいていた。 「……旭さん。馨月さん。今度は人間として……幸せになってくださいね……」 「ありがとう……智……みんな……」 「また、どこかで……会えたら……いいな……」 智は小さく頷くと呪文を紡ぐ。 「癒しの雨……浄化司る光の雨よ……彷徨える迷い子たちをこの地より解き放ち……輪廻の輪に載せたまえ……ホーリィ・レイン」 降り続く光の雨に旭と馨月、ふたつの魂が溶けていく。 ――大丈夫。きっとまたこの世界で巡り会って、今度は幸せになれますよ―― そう小さく呟くと、彼の意識はそこで途切れた。 ―― 「智……智!」 「……え……ここ……鏡の……外?」 「……太陽照ってるよな?」 少し怒ったようなひなの表情を見るとぱっと飛び起きて「元気だよ」と言いたいところなのだが、彼の体力の消耗は彼が思っているよりずっと酷いようで、体を起こすことすらできない。 「……みんな……無事……だよね」 「もちろん。みんな元気やでー」 「……ごめん。何だか体に力が入らない……もうちょっとしないと起き上がれないかも……」 「ま、あれだけ頑張ったんだ。バテても仕方ないだろ……ひな、とりあえず今は寝かせといてやれ」 「……わかった」 「……ひな……みんな……ごめん……あと……ありがとう……」 それだけ呟くと、智は再び眠りに落ちていった。 「おれ、おぶっていくわ。同室やし……おれの力もみんな気になっとると思うけど……智が回復したらまた話すから、とりあえず今日は解散させてくれん?」 「異議なしです」 「僕も今日は解散でいいと思います。無理してもいいことってないと思いますし」 全員が同意したのでこの日はこれで解散となった。太陽はまだ昇ったばかりだが、気温は少しずつ上昇している。ただ少しだけ昨日と異なっていることがあるとすれば……ほんの少しだけ風が冷たくなったことだろうか。つまりは、もう夏が終わりに近づいているということだ。 季節は巡り、ゆく。同じようで全く異なる日々を繰り返しながら―― そして。その歩みを止めることは誰にも出来ない。
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