「え……えっと、つまりはどういうことなの?」 智はわけもわからず戸惑いの表情を浮かべた。まあ無理もない。夢の中で会ったとはいえ、現実では全くの初対面で名前もまだ知らない少女に意味不明なことを言われたのだから。 「あのな、智困ってるだろ。まずそっちから名乗るとか……何か……こう……」 心なしか棘が感じられるひなの言葉に少女は申し訳なさそうに答えた。 「……ごめんなさい……わたしは……馨月。名前以外は何もわからない……解放者を探しているの……あのひととの約束を果たすために……」 憂いを帯びたその表情は一枚の絵画のようにさえ見える。 「……解放者か……確かあの水でできた魔物みたいなやつは『解放者を狩る』って言ってたな……『鏡姫』のためとか言ってたような……どのみち迷惑な話だがな」 隼斗がそう毒づいた。 「鏡……姫……?」 馨月の脳裏を一瞬何かがよぎる。しかしそれは形を成すことなく霧散した。 (この感じは……何?) 彼女は思わず顔をしかめる。何だか気持ちの悪いこの感覚は何なのか…… 「どうしたんや?顔色悪いみたいやけど」 和希の言葉に、 「……ごめん…何でも……ない」 馨月はそう呟いて俯く。しかし何らかの気配に気付いてすぐに顔を上げた。 「……来る……」 何が、と言う暇もなく屋上の床を突き破って水の蛇が出現した。 「……」 水の蛇は鋭い緋色の瞳で智を睨みつけた。刺すような冷たい視線に射られて、智は凍りついたように動けない。 「……『狩人』……このひとを……狩らせたりしない……」 馨月は彼を庇うように一歩進み出る。 「馨月……危ないよ……」 搾り出すようにして告げた制止に、 「……大丈夫……見てて……」 彼女は首を横に振ると、不思議な歌のような旋律を紡いだ。 「I Epoh Rof Fo Eulbad Aes Evig Su A Ecarg」 蒼い光が溢れ出し、その場にいた全員を守るように包みこんだ。 「精霊歌――ユチェカリナだって?」 精霊歌――ユチェカリナと言う言葉に驚いたのは蛇だけではない。智たちもまた同様だった。精霊歌――ユチェカリナは石守の民の一部が使えたとされる古代呪文の総称だ。精霊言語で紡がれるその詠唱が歌のように聞こえることから名づけられた呼び名らしい。その存在がはっきりと確認されたのはたった十八年前の話で、それまでは一種の伝説としてしか見られていなかった。それには純血の石守の民のほとんどが戦争で亡くなり、残った者も混血が進み、精霊言語を操れる者が事実上いないとされていたことが大いに関係している。存在は明らかになったものの、研究は全く進んでおらず、どういう者が使えるのか、どういう呪文があるのかすらわかっていない。 そんな力を目の前の少女、馨月は簡単に使っている。単純に考えれば彼女はただ者ではない。 「……この力……そういう名前なの?……初めて聞いた。わたしにとっては珍しくもなんともない力だから」 「め……珍しくもなんともないって……」 更に続けられた馨月の言葉に彼女以外の全員が絶句する。 「……どうでもいい。それより……『狩人』。鏡姫について教えなさい。鏡姫って何なの?……鏡姫がこのひとを……智を殺そうとしているの?」 馨月の強い瞳に睨みつけられて、『狩人』は一瞬たじろぐ。 そして真実をこのように告げた。 「……わたしが……鏡姫……?」 衝撃の事実に馨月は力なくその場に座り込む。 「じゃあ……わたしは……このわたしは……誰なの?あのひとの記憶は……偽物なの?」 あの時に感じた気持ち悪さの意味が今なら分かる。自分であって自分でない名前を聞いたからだった。そしてその真実など知りたくなかった。馨月という名前も恐らくは鏡姫に与えられたものなのだ。そして欠片である自分には約束を果すべき相手など初めからいないと。 だとすれば全ては彼女の心や意志によるものではない。解放者を探すことだって鏡姫の願いにすぎない。まるで都合のいい人形ではないか。 「いや……」 頭痛がする。頭の中が真っ白で何もわからなくなる。自分が自分でなくなっていく。熱にうかされたように―― 「……馨月は馨月だよ」 そんな彼女の肩に冷たい手が触れる。その感触と言葉に馨月は自分を取り戻した。 「……でも……わたしは……欠片で……ありえない存在で……自分の意思も記憶もなくて……」 「ううん。ないってことはないよ。だって今僕の目の前にいるのは『鏡姫』じゃない。馨月って名乗った女の子だよね?」 「それは……そうだけど……」 「だったら僕たちが出会ったのは『馨月』。そして馨月が出会ったって記憶を持ってるのも僕たちだよね。だから馨月は馨月なんだよ」 「……よくわからない……」 だけど、智が自分を勇気付けようとしてくれているとわかる。それに彼の言う通り、智に出会ったのは彼女だけだ。『狩人』に『狩れ』と命令を出している時点で鏡姫に智との面識がないのは明らかだった。 「でも……ありがとう……もう大丈夫……」 だから、これは馨月だけの記憶。そしてあの時に智を助けたいと願ったのも馨月自身だ。 だから、この想いも記憶も偽物なんかじゃない――本物なのだ。 「良かった」 その言葉を聞いて安心したように智が微笑む。 「……」 一瞬馨月の瞳はその笑顔に釘付けになる。もっとも、気付かれないようにすぐに逸らしたけれど。 「ところで『狩人』さん」 次の智の言葉に全員が絶句した。 「お願いがあります。僕を鏡姫のところに連れて行ってください」 ―― 「……お、おい」 「な……何言ってるんですか?相手は……あなたを殺そうとしてるかも知れないんですよ?」 「……わかってる。でも、気になるんだ。……色々」 智は仲間の制止を無視して、『狩人』に一歩近づく。 「わたしも行く!」 そう言って駆け出す馨月を、智は静かに制す。 「ダメだよ。馨月はみんなと一緒にいて。もしも本当に鏡姫がそのことを望んでいるのなら……馨月がいなくなった時点でそれは不可能になってしまう。影の者がうろうろしていないとも言い切れないしね」 「でも……わたしは……」 あなたを―― 言いかけた言葉を馨月は飲み込む。告げてしまえば彼を困らせるだけ。さらにはその決意が堅いことも優しいけれど真剣な瞳から痛いぐらいに伝わってきたから。 「……智……」 ひなの心配そうな視線に気付いて 「……ごめんね。心配かけてばっかりだけど……ちゃんと戻ってくるから。大丈夫だよ。戦いに行くわけじゃないんだし」 彼は優しくそう告げる。 「……あんまり遅く帰ってきたらサイト限定販売のペンギンのぬいぐるみ限定生産品を奢ってもらうからな。二日越えたら」 「わかった。でも、いくらくらい?」 「一体五千円」 この値段に思わず智は微苦笑する。 「それは早く帰らないとね。五千円って結構キツい金額だし」 「ああ」 本当はそんなものが心から欲しいわけじゃない。約束という貸しが作りかっただけだ。その言葉が彼をこの場所に繋ぎとめてくれることを祈って。 「約束するよ。良かったら指きりでも」 「……そ……そうだな」 差し出された指に、震える指を絡ませてふたりは約束を交わす。 「はい。お願いします。じゃあみんなまた後でね」 そう言葉を残して、狩人と智の姿はその場から消えうせた。 「……」 ひなは何も言わずに、虚ろな瞳で智が消えたその場所を見つめる。 (……必ず……戻ってきて……) 「……ひな」 その肩を冷たい手が優しく叩く。 「……和希……」 「大丈夫。俺も正直……心配やけど、智が約束を破ったことは今まで一度もないんや。それにな、よく父さんが言ってたんや……『九十九パーセントダメだとしたって最後の一パーセントの可能性があるのならそれを信じ続けろ』って。これは父さんの友達の言葉の受け売りらしいけど……素敵やと思う」 「……そうだな……本当にその通りだ」 ひなは小さく頷くと、 「ありがと。落ち着いた。あたし達はあたし達に出来ることをしよう。そろそろ満からのメールも届いてるんじゃないか?」 そう言って顔を上げる。その表情には不安は微塵も感じ取れなかった。 「そやな。そう思ってパソコンの受信メールを携帯に転送するように設定してあるんや。夜の校内でいきなり携帯が鳴ったらびくっとしそうやからサイレントマナーにしとったんやけど……」 和希がポケットから取り出した携帯にはしっかりと『Eメール受信しました』の文字があり、タコのキーホルダーが受信を告げる青い光を放っていた。ちなみにこのタコのキーホルダーは和希御用達の全国チェーンのたこ焼き専門店「クラブオクトパス」で百ポイントを集めると貰える非売品タコグッズのうちのひとつだ。 「ひなの予想通り、満からのメールや。件名……調査報告」 満から届いたメールは次のようなもの。 件名 調査報告 差出人 華阪 満 本文 こんばんは。といっても日本は今午前中だろうな。さて、本題を手短に話すことにする。 まず『魔法使い』のことだ。親父の会社の郷土データーベースのリンクを辿っていったら興味深い記事を見つけた。時代は一九三八年。場所は結市の結高校近辺。そこに一軒の古本屋があった。その本屋の名前は「忘れ水」。親子二代続いた小さな店だけど、地元の人にとっては憩いの場所だったらしい。何でも特製の洋菓子が好評だったとか。当時は珍しかったみたいだけど。さすがに戦争の間は店を閉めていたそうだけど、田舎だったのが幸いして空襲に遭うこともなく、戦後すぐに店を再開して、やがて当時の店主福本 利雄の息子がその店を継いだらしい。誰に対しても分け隔てなく優しい人で、どんなに暗い顔をしている人でもその人と話すとたちまち笑顔になったらしい。 そんな彼を子ども達が『本屋の魔法使い』と呼ぶようになって、その愛称が定着したらしい。 名前は、福本 旭。本屋を継いだときは十九歳。洋菓子が作れたことから分かるように福本家には海外の血が流れているらしい。父親はそうじゃなかったけど彼のおばあさんはイギリス出身で薬草の知識やちょっとした占いとかが出来たらしい。現代で言えば『魔女』だったと考えればいいんだと思う。彼女が戻ってきたのは旭が失踪してからだって言われているらしいけど……失踪。この言葉を聞いてひとつ浮かんだ想像は、彼にも俺達みたいなシレナがあったのではないかってことだ。そしてそのシレナによって『何らかの事件』に巻き込まれたのではないか?あくまで仮説だけどな。 次に銀色の髪の少女だけど……正直分からない。ただ、旭の古本屋にある日突然現れて、やがて恋人となった女性がいて、その女性の髪が月の光で染めたかのような銀髪だったらしい。 初めは彼女を気味悪がる人もいたらしいけど、その女性は明るく優しい性格だったからか、しばらくすると打ち解けたらしい。その女性も旭の失踪と同時に姿を消している。その女性になんらかの力があったならば時代を越えた今、智に何かを伝えることも可能なのかもしれないな。 これはおまけだ。智は夢の中の月が印象に残ってるみたいだから、月について少し調べてみた。まず月と関連づけられるものだけど、海(水)、鏡、女性、銀、真珠、異界。これから後は個々の簡単な説明。海は誰でも分かるな。潮の満ち干があるのは月の引力があるからだ。 次に鏡。満月を鏡に例えた言葉があるらしい。鏡は多くの文化で太陽や月と結び付けられている。女性と月が結び付けられたのは女性の体のリズムが月に影響されていること、そして月が満ち欠けすることだろう。最も神話では全ての月の神が女神ではないけれど、有名どころ……ギリシア・ローマの月の神は女神だな。銀は……例えばインカみたいに太陽を金と考える文化が多いから、逆の月を銀に結びつけたんじゃないのか?と俺は思う。錬金術の暗号でも太陽は金、月は銀のことらしい。真珠は「月の雫」とも呼ばれたりするな。月と海の関連性から派生しているんじゃないのか?最後に異界。月を死者の住む異界と捉えている神話もある。 ケルト神話とか。インドでも確か死者が赴くのが月だったはずだ。 解放者についてはさっぱりわからない。シレナ関係のサイトを当たってみたけどダメだ。だけど、何かを解き放つんだろうな。この中で何かを封印するとしたら『鏡』だな。鏡についての伝承とか当たってみようと思う。またメールする。それじゃ。 「……正直頭がパンクしそう……月の関連ものなんてムーンストーンと海ぐらいしか知らない……」 「専門的やな。なんか……真珠とか海とかならなんとか……」 満のメールを読んで、ひなと和希は頭を抱えた。 「満さんって物知りなんですね……あ、でも僕も結構本読んでるから少しはわかるよ。例えばインカでは金のことを「太陽の汗」と呼んでたとか、日本で太陽神アマテラスのご神体は鏡だとか。鏡は邪悪なものの正体を映し出すから魔除けに使ってたとか……」 「……充分、聡も物知りやな……わけわからんわ」 どうやらメールの内容をある程度理解できたのは聡だけだったようだ。馨月は不思議そうに携帯電話をじっと見ている。 「……すごい機械……見たことない。あのひとは持ってなかった……」 「それ聞いて思ったんだけど……馨月ってもしかして過去から来たのか?」 隼斗の言葉に彼女は少し考え込んだが、 「……『来た』のかはわからない。でも……この場所、わたしがあのひととここに来たときは……もっと緑が多かった……かも。……この場所は……封じられた場所で……」 やがて呟くようにこう告げた。 「……ここに……来たのか?それに……封じられた場所?一体何が……」 彼の呟きに、馨月は我にかえった。 「……あ、ごめんなさい……わたし……今何か……?」 (馨月の意志とは関係なく……無意識に記憶を思い出してるのか……) そうだとすればそれは今まで語られなかった『鏡姫』自身の記憶なのかも知れない。どうしていきなり語らなかった記憶を語りだしたのかはわからないけれど…… 「……ここに、お前が言うあのひと――つまりは魔法使い……もっと言えば福本 旭と共に来たと言っていた。そしてこの場所には何かが封じられているとな……記憶はあるか?」 「……ない……けど……」 そう呟くと彼女は嬉しそうに顔をあげる。そして優しい眼差しを浮かべ、微笑んだ。 「……やっと名前がわかった……そう……あのひとはわたしに『馨月』という名前をくれた……わたしと正反対の名前の持ち主のあのひと……そう……『旭』……わたしは彼を……なのに……わたしは……」 そう頭の中で声が響いたと同時に、鋭い痛みが彼女を襲う。 「……あっ……」 彼女は思わずその場に膝をつき、頭を抱えた。 「違う……違うの……あなたは……あなたがそんなことを願ったら……あのひととの約束は………果たされないの……気付いて……お願いだからっ!」 「馨月!しっかりしろ!」 馨月の異変に気付いて隼斗が声をかける。しかし彼女は耳を貸すことなく独り言を、しかし誰かに伝えるように呟き続ける。 「……お願い……心を閉ざさないで……智なら……彼ならきっとあなたを……わたしたちを救ってくれる……だから……おねが……い……」 そして疲れ果てたように、気を失った。 「……っ……」 その顔は色を失い、ひどく蒼白で熱帯夜にはあまりにも似つかわしくない。 「……どうすれば……」 戸惑い、言葉を失った彼らの背後からふと、声がした。 「海水に浸けてやれば大丈夫だと思うな……美しい華を散らすのはあまりにも惜しいからね」 その気障な台詞に思わず振り返った彼らが見たのは―― 「……満?」 「ハワイでバカンスじゃなかったのかよ?」 「気になったので帰って来たのさ。バカンスは今度でもいいけれど、高みの見物で君たちを失いでもしたら俺は後悔するだろうからね。」 派手な半袖のアロハシャツにジーンズ。いかにも急いで帰ってきたという感じの満の姿だった。 「……とりあえず早く海水に浸けてあげよう!馨月さん、本当に苦しそうです……」 「そやな。隼斗、馨月を担げるか?」 「ああ。行くぞ!」 彼は頷くと、彼女の華奢な体をその背に担いで駆け出す。月は大きく、これからの運命を知り、夏の終わりを嘆くかのようにどこか物悲しく、けれど優しく輝いていた―― ** 彼らが海岸に辿り着いたその頃、智は波打ち際で目を覚ました。 「……ここ……どこだろ……」 ゆっくりと目を開き、体を起こす。 (……この潮の香り……知っているような……でも少し違うような……) おぼろげな記憶の糸は繋がらず、急に立ち上がったので躓き、転びそうになる。 「わ……」 そんな彼を支えたのは…… 「大丈夫?今日はこの海岸、『お客様』が多いみたいだね」 柔らかい栗色の髪に同じように同じように優しい栗色の瞳。『忘れ水』と書かれたエプロンをかけた青年だった。 (この人……もしかして……) 「……あなたは?」 そして青年の次の言葉で智の予感は確信へと変わる。 「僕は福本 旭。あだ名は『本屋の魔法使い』だよ」
コメントはまだありません