「慣れない家事で神経をすり減らすのも、少ないお金で家計の遣り繰りするのも、手のかかる清人の世話も。何よりもそれ以上に、私のせいで必要以上に負担がかかっている筈の、清吾さんに対する負い目もあって!」 「母さん」 段々激しい口調になってきた由紀子を抑える様に聡が口を挟むと、由紀子は聡に向かって頷きながら、自分自身を落ち着かせる様に呟いた。 「ええ、良く分かっているわ聡。今となっては言い訳に過ぎないのは。同じ様な環境で育った香澄さんは、ちゃんと家計を切り盛りして、立派に子育てもしていたもの。単に私は清吾さんと一緒に暮らしていけるだけの覚悟も力量も無い、父が言う通りの馬鹿で無分別の女だったと言うだけだわ」 「そこまで自分を卑下しなくても、良いんじゃないか?」 流石に母親が気の毒になり、聡が宥めたが、それを受けた由紀子は自虐的に笑った。 「私はそれだけの事をしたもの。発作的に清吾さんと暮らしていた部屋から飛び出した時、私が何をしたと思う?」 「ごめん、全然想像ができないんだけど」 全く予想がつかなかった聡が本気で困惑した声を出すと、由紀子は真顔になってとんでもない内容を口にした。 「一歳直前の、やっとよちよち歩きしていた清人を、空の浴槽の中に入れて上から蓋をして出て行ったのよ。勿論その時、清吾さんは仕事で居なかったわ」 「母さん!? まさか本当に、兄さんにそんな事をしたのか?」 言われた内容に驚愕した聡は思わず椅子から立ち上がり、ベッドに両腕を付いて由紀子に詰め寄ったが、由紀子は固い表情のまま小さく頷いた。 「清人は、最初何が起こったのか分からなかったみたいだけど、蓋を閉められた途端大泣きし始めて。でも、まともな判断力を無くしていた私は、そのまま周りの誰にも言わずに、小笠原に帰ったの」 あまりと言えばあまりの内容に、聡は思わず目眩を覚えた。そしてふらりと元の椅子に腰掛けてから、無意識に問い掛ける。 「……その後、どうなったの?」 「人伝に聞いた話では、団地の一階下に住んでいた岡田さんという方が、『お風呂場の窓辺りから、子供の泣き声が微かだけどずっと続いている。呼び鈴を鳴らしても中から応答が無いし、もしかしたら奥さんが倒れているかもしれない』と、管理人室に駆け込んだそうよ」 「普段から付き合いがあった人?」 「多少ね。それで管理人の方と岡田さんが合い鍵で部屋に入って、清人を発見したそうよ。私の姿は無いし、連絡を受けた清吾さんも居場所を知らなかったから、事件かと警察沙汰になりかけたらしいわ。その頃実家に戻っていた私は、訳の分からない事をわめき散らして父に精神科に強制入院させられてたから、詳しい事は知らないの。その間に協議離婚の手続きも勝手に進められていたし」 「じいさんがそんな事をしてたのか!?」 先程の由紀子の衝撃告白に驚愕した聡だが、血の繋がった祖父の行為にも愕然とした。しかしそんな聡の反応に、由紀子は悲しそうに首を振る。 「一方的に父を責めないで。一番悪いのはこの私なんだから。事実、父に『この離婚届にサインしろ』と目の前に持って来られるまで、1ヶ月の間病室で自分だけの世界に浸っていて、清吾さんや清人の事をろくに思い出しもしなかったんだから。……本当に、最低の妻で母親だわ」 どこか遠くを見ながらうっすらと笑って見せた由紀子に、聡は慎重に問い掛けた。 「それで、大人しくサインをして別れたの?」 それに対する由紀子の反応は、聡の予想を裏切った。 「いいえ、私は別れたくは無かったの。逆にはっきりと自覚したわ。もう一度清吾さんと清人とやり直したいんだって。それでこっそり病院を抜け出したの」 「そんな事、良く出来たね? あのじいさんの事だから、付き添いって名目の見張りとか張り付けそうだけど」 本気で驚いたらしい聡に、由紀子は苦笑いで応じた。 「詳細は省くけど、家の使用人で味方してくれる人が居てね、服とかお金とか調達して貰ったわ。それで暮らしていた団地に、一ヶ月ぶりに戻ったの」 「そうだったんだ……」 「それで、そこに着くまでに決心してたのよ。清吾さんを怒らせたかもしれないけど、本気で謝ってやり直そうって」 「それで謝ったの?」 その何気ない聡の問いに、由紀子はピタリと口を閉ざした。 「母さん?」 流石に不審に思った聡が再度問い掛けると、由紀子が徐に口を開く。 「いいえ。……結局、清吾さんとは、私が家を飛び出した朝に玄関から見送って以来、会ってないわ」 「え? どうしてそうなるんだ?」 予想外の話の流れに聡が軽く目を見開くと、由紀子が静かに語り出した。 「団地の入り口に公園があって、そこで岡田さんが清人を遊ばせてくれていたの。それを家に向かう途中で、通りかかった私が認めたと同時に、私と目が合った岡田さんが清人を抱えてやって来て『佐竹さん、心配していたのよ? ご主人から外出先で倒れてそのまま病気療養中って聞いていたけど、元気になったのね。良かったわ』と笑顔で挨拶してくれて。清吾さんが、私が戻ってきた時に気まずい思いをしない様に、私が家を飛び出した事や父と揉めている事を、周囲には誤魔化してくれていたのよ」 「そうなんだ。佐竹さんって、優しい人だったんだね。でも、それならどうして、会ってないだなんて……」 先程聞いた様な騒ぎになった後では、さぞかし戻った時に気まずかったのではと、密かに母を気遣っていた聡は思わず本心から安堵したが、と同時に先程の由紀子の話の内容と食い違う事に違和感を覚えた。それを受けて由紀子が説明を続ける。
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