「それじゃあ、お兄ちゃん、恭子さん、行ってきます」 コートを着て、出掛ける支度を済ませた清香が、清人の仕事部屋のドアを開けて顔を覗かせると、清人は机に向かったまま幾分不機嫌そうに、恭子は本棚から何かのファイルを抜き出しながら、笑顔で答えた。 「……ああ」 「行ってらっしゃい。気をつけてね?」 「はい」 そうして清香が笑顔で出て行ってから二・三分して、マンションの前の通りを一台の車が走り去って行った。それを窓際に移動した恭子が見下ろしながら、誰に言うとも無しに呟く。 「聡さんは、BMWなんですね。あれは3シリーズかしら? 先生は」 「川島さん、無駄口は叩かないで下さい」 ピシャリと釘を刺された恭子だが、しかしそれほど恐れ入る様子は無く、両手で抱えていたファイルの束を、清人の目の前にドサリと置いた。 「はい、それではこちらも端的にお伝えします。こちらの銀行口座入出金額と購入品の伝票の名前と金額、それと必要経費として計上する領収書を、今日の夕方まで全てチェックして下さい」 「量が多過ぎませんか? 全部川島さんの方で、適当に処理してくれて構わないんですが」 憮然として、丸投げしようとする清人に、恭子がにこりと笑いかける。 「先生?」 しかし全く目が笑っていないその笑顔を見てしまった清人は、神妙に頷いて、ファイルに手を伸ばした。 「分かりました。やります」 「全く……。下手すれば本業収入より副収入の方が多くなりそうで、そちらの計算で手一杯なんですから、本業に関わる事位、責任を持ってちゃんとやって下さい」 ぶちぶちと文句を言いながら部屋を出て行こうとする恭子の背中に、清人が傍目には素直に頷いてみせながら、疲れた様に付け加える。 「ああ。…………しかし、最初の頃は、こんな女じゃ無かったんだが」 「聞こえていますよ? それ以上文句を言うなら、夕方から清香ちゃんのデートの監視に出掛けるのも、断固として阻止しますからね! 第一、誰のせいで私がこうなったと思っているんですか?」 途端にピタリと足を止めて背後に向き直り、恭子が本気で怒った顔を向けてきた為、清人が懇願する様に呻く。 「……終わらせるから、出掛けさせてくれ」 「勿論です。頑張って下さい、先生」 最後は笑いを堪える様な顔で恭子が部屋から出て行ったのを確認してから、清人は溜息を一つ吐いて携帯を取り出した。そして予め予定していた番号を選択して、短く告げる。 「もしもし? ……ええ、宜しくお願いします、長野さん」 その頃、清香はマンションまで迎えに来た聡の車に乗り込み、のんびりと聡との会話を楽しんでいた。 「迎えに来て貰って、すみませんでした」 「これ位何でも無いよ。それより……、今日は無理に付き合わせてしまったみたいで悪かったね。先生に何か言われなかった?」 運転しながら慎重に尋ねてみた聡に、清香が自信満々に請け負う。 「流石にちょっとだけ渋い顔をしていましたけど、ちゃんと了解して貰えたし、大丈夫です!」 「それは良かった」 それを聞いた聡も笑顔で答えたが、チラリとバックミラーに目を走らせ、清香を乗せた辺りから二台程後ろにチラチラ見えている様に感じる、一台の車を確認した。 (しっかり尾行を付けているみたいだがな。あの黒のカローラか? 取り敢えず様子を見るか) 色々思う所は有ったものの、聡は余計な事は口にせず、清香との会話を楽しみながら目的地へと車を走らせた。
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