清人は出向いた出版社で担当者と結構有意義な打ち合わせを終えた後、軽く腹ごなしを済ませ、その足で待ち合わせ場所へ向かった。 高級ホテルとして名高いラルフリードホテルをエレベーターで上がり、最上階スカイラウンジのバーカウンターに出向く。そこに何人かの男性がまばらにスツールに腰掛けている中で、迷わず一人のスーツ姿の男に近付いた。 「よう、待たせたか?」 勝手知ったる仲である気安さから、いつもとは違う砕けた口調で声をかけつつ隣に座った清人に、浩一は苦笑いしてみせる。 「俺も少し前に来たばかりだ。しかし男二人で待ち合わせって言うのは、ちょっと虚しいな」 「呼びつけた本人が何を言う」 清人も苦笑いで返して早速注文を済ませ、顔見知りのバーテンダーと幾つか言葉を交わしてから、肘を付いて浩一に視線を向けた。 「それで? さっさと俺を呼び出した本題に入れ」 その詰問口調に幾分困った様に視線を彷徨わせてから、浩一は重い口を開いた。 「実は……、これから暫く俺達が清香ちゃんの回りをうろうろするが、黙認して欲しい」 「何だそれは。しかも『俺達』?」 「それなんだが……」 そうして浩一は、清香の誕生日に自分を含む総一郎の孫達に召集がかけられ、その場で清香との結婚を求められた経緯を話した。 「……そんなわけで、お前の気に障って強制排除されるのは勘弁して欲しいが、電話で済まそうとすると益々お前の機嫌を損ねかねないし。かといって家に押し掛けるのも、清香ちゃんの耳に入る可能性が、無きにしも有らずだ。それでお前とちょっと突っ込んだ話もしたかったし、呼び出したって訳なんだ」 事情を一通り聞き終えた清人は、その間に目の前に置かれたグラスを持ち上げながら小さく失笑した。 「それなら当然、ここの支払はお前持ちだな。しかし会長は相変わらずだと思っていたが、いよいよ棺桶に片足を突っ込んだのか? そんなくだらない、策とも言えん策を用いようとするなんて」 奇しくも当日、真澄が心の中で評した表現と酷似した言い方を清人はしたが、当然そんな事は知りようもない浩一は、憮然として清人の顔色を窺った。 「勿論、正直に名乗る事ができれば一番なんだけどな。その時、お前フォローなんかしてくれないよな?」 「当然。そんな義理は無い」 「容赦無いな」 溜め息しか出ない浩一の前でグラスの中身を一口飲み落としてから、清人はすこぶる冷静に相手に告げた。 「だが、告白自体を妨害しようとは、今も昔も思っていない。清香ももう二十歳だし、幾ら子供の頃に香澄さんから散々刷り込まれているとしても、少しは大人の対応ができる、かも……、と、思うんだが?」 その会話の最初と終わりの微妙な口調の変化に、浩一が鋭く突っ込みを入れる。 「あくまで疑問形か」 「流石に三十過ぎると、若い子の心境に疎くなってな」 ニヤリと笑いながら再びグラスを傾けた清人に、些か気分を害した様に浩一が肩を竦めた。 「言ってろ! あちこちで若い女を口説き落としてる癖に」 「向こうから言い寄ってくるだけで、自分から率先して口説いた事は無い。お前の方こそどうなんだ? 柏木産業の御曹司どの」 そこで不毛な言い合いになりかけた事を自覚した浩一は、話題を変える事にした。 「それはともかく。お前、母方の方と未だに連絡を取り合って無いのか?」 軽く顔を覗き込む様に尋ねてきた浩一から視線を逸らし、清人が途端に不機嫌そうに目を伏せる。 「愚問だな。酒がまずくなる話題を出すな」 その態度に浩一が軽く溜め息を吐き、手元のグラスを見下ろしながら淡々と続ける。 「やっぱりな……。実は先週親父の代理であるパーティーに出席したんだが、そこで小笠原氏を見かけたんだ」 「それで?」 「夫人が今入院中だそうで、単身で出席していた」 言うだけ言って浩一は再び清人の反応を窺ったが、相手はさほど関心が無さそうに呟くのみだった。 「へぇ? それはお気の毒に」 「別に命に関わるような大病じゃないらしい。来月末には退院するとの話だったし」 「…………」 途端に周囲に漂い始める冷気にもめげず、浩一はもう一押ししてみる。 「なあ、見舞いに行ったりとかは……」 「…………」 まるで取りつく島もない様子の清人に、浩一は完全に説得を諦めた。 「分かった。もうこの話は止めよう」 「今日、家に電話があった」 「は? 誰から?」 いきなりの話題の転換に浩一が戸惑った顔になると、面白く無さそうに清人が続ける。 「小笠原聡とか名乗りやがった」 数瞬かけて、その名前を記憶の底から引き上げた浩一が、思わず驚きの表情を向けた。 「え? それって確か、お前の異父弟の名前じゃ」 「問答無用でブチ切った」 「お前な……」 はあぁ、と重い溜め息を吐いた浩一に、清人が冷たく吐き捨てる。 「だがさっきの話で、大体のところは分かった。話を聞く気にはならんが」 それ以上、不用意に相手を怒らせたく無かった浩一は、続ける言葉を選びつつグラスを揺らし、琥珀色の液体に浮かぶ氷が微かな音を立てるのを眺めていたが、ふと面白い事を思い出したように口を開いた。 「しかしよくよく考えてみれば、大したものだよな、お前の親父さん」 「いきなり何だ?」 訝しげな顔を向けた義理の従兄弟兼親友に、浩一は茶化す様に指摘してみせる。 「だって考えてもみろ。柏木産業と小笠原物産、長年業界一位の座を争って、ガチンコ勝負している総合商社の社長令嬢二人をたぶらかして、両方と結婚したとんでもない人だぞ?」 それに清人は、相手以上に笑いを堪える風情で応じた。 「悪いが今の話、一点だけ訂正させてくれ。親父が口説いたんじゃなくて口説かれたんだ。『あの人』も香澄さんも、殆ど押し掛け女房だった筈だし」 「そうだったな」 浩一は失笑しながらも、心の片隅で(実の母親を『あの人』呼ばわりか。今更だが、相当根が深いな)と思った。しかしそれ以上は突っ込まず、持ち上げた自分のグラスを清人のそれに近付ける。 「それじゃあ、モテモテで羨まし過ぎる、良い男だった清吾叔父さんに乾杯」 「乾杯」 軽く触れ合ったグラスがカチンと小さな音を立て、男二人はそれから余計な事は言わずに酒と他愛も無い話を楽しむ事に専念したが、両者とも心のどこかで何かが少しずつ動き出しているのを感じていた。
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