零れた欠片が埋まる時
第15話 過去の残像③

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「岡田さんが『清人君は私達で面倒をみていたけど、手がかからない、とっても良い子だったわよ? ほら、清人君、お母さんに抱っこして貰いなさい。久しぶりで嬉しいでしょう』と言いながら、私に清人を渡そうとしたの。私も清人を抱き上げようとして、手を伸ばしたら……、思い切り指先を噛まれたわ」 「え?」 「まだ乳歯が生え揃っていないのに、前歯だけでね。目を閉じて、渾身の力を込めて、歯を食いしばったのよ。凄かったわ。噛みちぎられるかと思った」 「かあ、さん?」  そこで小さくクスクスと笑った由紀子を見て、聡は母が精神的にどこかおかしくなったのかと、恐る恐る呼び掛けてみたが、次の瞬間、由紀子は真顔に戻って続けた。 「思わず悲鳴を上げてしまったけど、見ていた岡田さんも真っ青になって『清人君、どうしたの! お母さんでしょう! 口を開けなさい!』と慌てて片手で清人を抱き抱えながら、もう片方の手で清人の口をこじ開けようとして。だから岡田さんは清人の口元だけを見ていたから、見ていなかったわ」 「何を、見ていなかったの?」  唐突に主語を省いて話した母の顔を見て、聡は何となくそれを確認しない方が良い予感に駆られたが、そのままにしてもおけない為、敢えて続きを促した。すると由紀子が決定的な一言を放つ。 「清人が、ゆっくり目を開けたと思ったら、私を睨み殺しそうな視線で見上げてきたの。私があの子にした事を、きっとしっかり理解してたのよ」 「ちょっと待って母さん! 兄さんは当時一歳前後だろう? 理解できないし、覚えているわけないだろう!」  再び腰を浮かし、殆ど悲鳴で訴えた聡を、由紀子は悲しそうに見やった。 「ちゃんと理解していたわよ。母親としての勘だけど」 「そんな馬鹿な!?」 「それで《この子は私を憎んでるし絶対許さない》って思ったら、もう駄目だったの。清人の顔をとても正面から見られなくて、やっと清人が私の指に食いつくのを止めた瞬間に、振り返りもしないで実家に逃げ帰ったわ。そして離婚届にサインしたの。……それで全部、お終い」  淡々の述べた由紀子に、聡は呆然となりつつも、何とか声を絞り出した。 「だから、それ以降、佐竹さんと会わなかった?」 「ええ。手続き一切は、父が手配した弁護士が全てやってくれたらしいわ」  自分から視線を逸らしながら、どこか他人事の様に告げた母親に、聡は激しい怒りと憐れみを覚えたが、何も口にしなかった。  そのまま重苦しい沈黙が少し続いてから、由紀子が再び静かに語りかける。 「未練がましいって笑われるかと思うけど、その後も定期的に二人の様子を、興信所で調べて貰っていたの。ひょっとしたら、清人が私を必要としてくれる時がくるんじゃないかって」 「未練がましくなんかないさ。親としては当然の気持ちだと思うけど?」 「でも、あの子は本当に聞き分けが良くて、手のかからない子に育ったみたい。親子二人で支障なく、仲良く暮らしてたわ。きっと清人は自分が父親の手に余る子供だと、私が戻ってくるかもしれないから、それが嫌で物分かりの良い子供を演じてたのよ」 「それは考え過ぎだって! 単に兄さんは、そういう性格の子供だったってだけの話だろ?」  どんどん後ろ向きな考えになっていく母親の話を、何とか打ち消そうと試みた聡だったが、由紀子は泣き笑いに近い表情で告げた。 「清吾さんが香澄さんと再婚してからは、流石に調査するのは止めて貰ったけど、いつかはちゃんと二人の顔を正面から見て、謝ろうと思っていたの。本当にそう思っていたのに、私が意気地が無さ過ぎて、とうとう間に合わなかったわ。言い訳にもならないけど、あんなに早く亡くなってしまうなんて、思っていなかったのよ……。もう、本当に、どうしようもない馬鹿ね」  自分に対する悪態を吐いた由紀子の姿を、聡はただ黙って見守った。 「清吾さん達が事故死した時、死亡記事を新聞で見つけて、どうしても行かないといけないと思って、勝さんに断りを入れて通夜に出向こうと思ったら、一緒に行ってくれる事になったの」 「え? 父さんが? 本当に一緒に行ったの?」  意外すぎる話に思わず話の腰を折ってしまった聡だったが、由紀子は気を悪くした風でもなくそのまま続けた。 「ええ。そうしたら通夜の会場になっていた集会所に入ろうとした途端、私の姿を目ざとく見つけた清人に、勝さん共々腕を捕まれて凄い力で引きずり出されて。その時一瞬だけ、清香さんらしい女の子を見かけたわ」 「……そうだったんだ」  少し前、母親が漏らしていた言葉の意味が分かり、思わず納得した聡に、由紀子はあっさりと言ってのけた。 「その時、人気の無い所まで連れて行かれて、清人に『今更何の用だ? 自分を追って来ない様に、俺を閉じ込めてトンズラしやがった人間が、今度は邪魔な人間が居なくなったからと、嬉々としてちょっかい出しに来たってのか? どこまでも自分本位の女だな!』と怒鳴られて殴られたの。だからやっぱりこの子は、私のした事を分かってて、今でも恨んでるんだなって」 「ちょっと待って! 殴られたって、一緒に行った筈の父さんは何をしてたんだ!?」  聞き咎めて思わず憤慨して詰め寄った聡に、由紀子は落ち着かせる様に言い聞かせた。 「あの人はちゃんと二発目は止めてくれて、その場を何とか取りなしてくれたから怒らないで? それで清人の『この人を連れて、さっさとお帰り下さい』で話は終わったし。本当に、少しでも力になってあげられたら、なんて、自分本位でおこがましい考えだったわ」  そう言ったきり俯いた母親に、聡はどういう言葉をかけたら良いかが分からず、再度病室内に沈黙が訪れた。下手をすると永遠にこのままかもしれないと、埒もない事を聡が考えていると、思い切った様に由紀子が口を開く。 「それでね、聡。今日この話をしたのは、あなたにお願いしたい事があったからなの」 「何? お願いって」  そこで由紀子は一瞬迷う素振りを見せてから、切々と訴えた。 「もし……、この先清人が、本当に困る様な事があったら、一度だけで良いから、無条件であの子の力になってあげてくれない? あの子は、絶対私には頼らないと思うし、なんとなく私が生きているうちは、困った事態にもならない気がするから」 「母さん……、縁起でも無いんだけど」 「それに、私の存在は認めて貰えなくても構わないけど、あなた達はちゃんと血の繋がった兄弟だから、仲良くして欲しいの。ううん、仲良くはしなくても良いから、せめてお互いに存在だけは認め合って欲しくて。これは私の我儘でしかないんだけど」  段々呟き声になっていく由紀子の台詞に、聡は力強く請け負った。 「母さん、分かったから心配しないで。そんな事態になったら、どれだけ邪険にされようが、必ず兄さんの力になるから。約束する」 「ありがとう、聡」  そこでやっと微かに笑った由紀子の気持ちを、幾らかでも楽にしようと、聡は些かわざとらしく明るく言ってみた。 「でも、あの人の事だから『お前なんかの手を借りる位なら、舌を噛み切って死んだ方がマシだ』とか言い放ちそうだな。やっぱり少しは、心証を良くしておく必要があるか」 「苦労かけるわね、聡。清香さんには私と清人の関係は、無理に話さなくて構わないから」 「取り敢えずはね。だけどまずは目障りな馬の骨としてだけでも、兄さんに俺の存在を認めさせるから」 「聡……、それは心証を良くするのとは、真逆の様な気がするんだけど」 「そうかもしれない」  そんなやり取りをした親子は、ここで2人でクスクスと笑い出してしまい、先程までの深刻な空気は夜の闇の中に徐々に消え去っていった。

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