そしてバレンタインを控えた日曜日。朝食を食べながら清人は清香に確認を入れた。 「清香、今日は正彦君と出掛ける予定だったか?」 「悪いけど、正彦さんには昨日急遽断りを入れたの。どうしても今日じゃ無いと空かないと言われたから、そっちを優先しようと思って」 あっさりと言われた内容に清人の箸の動きが止まり、若干声のトーンが低くなる。 「……じゃあ誰と出掛けるんだ? 小笠原君か?」 何とか顔を普通の状態に保ちながら、(清香に無理を言って予定を入れさせたのか?)と密かに憤っていると、そこで清香が思いもかけない事を言い出した。 「午後から真澄さんが、ここに来るの。昨日言ってなかったかな?」 「は? いや、聞いていないが……。彼女が何をしに、ここに来るんだ?」 「バレンタインのチョコを作りによ」 「はあぁ!?」 驚きの声を出しただけでは足りず、無意識のうちに箸を取り落としてしまった清人に、清香は非難がましい視線を浴びせた。 「何? 別にそんなに驚く事は無いでしょう?」 「……彼女、食べられる物を作れるのか?」 思わず漏らした内容に、流石に清香が怒りの声を上げた。 「もう! お兄ちゃんまで、聡さんと同じ事言わないで。幾ら何でも真澄さんに失礼じゃない!」 「彼が何だって?」 「明日出掛けないかと言われて、真澄さんと一緒にチョコを作る約束をしたからと断ったら、少し黙った後『食べられるの? それ』って言ったの。当然叱りつけたわよ、全くもう! キャリアウーマンだからって、料理ができないなんて思い込みは、失礼極まりないわ!」 その時のやり取りを思い出したらしく、怒りを増幅させた清香を眺め、清人は不覚にも(初めてあいつに、親近感らしき物を感じた)と思ってしまった。 そんな風に呆然としていると、清香はまだ怒ったまま、清人に宣言した。 「そういう訳だから、お昼過ぎからキッチンは使うから」 「ああ、分かった……」 そして清人は何となく落ち着かない気分のまま午前中を過ごし、昼食を取って後片付けが済んだ所で、エントランスからの呼び出し音が鳴り響いた。それは予想に違わず真澄からの連絡で、清香がモニター越しにやり取りしてから、出迎える為に玄関へと向かう。 そしてすぐに大きめの紙袋を抱え、片手にはバッグを提げた真澄が、清香と話しながらリビングに現れた。 「本当に、今日は押し掛けちゃってごめんなさいね。お邪魔します、清人君」 「こんにちは」 ソファーに座って新聞を読んでいた清人に、真澄が愛想良く声をかけたが、清人は辛うじて非礼にならない程度に挨拶を返しただけだった。しかしそんな態度を気にもせず、ダイニングテーブルの上に真澄が持参したチョコの材料らしき物を取り出しながら、女二人は話を続ける。 「真澄さん、話を聞いた事無かったんですけど、毎年チョコを作っていたんですか?」 「今年は偶々よ。ちょっとあげたくなった人が居たから、作ってみるのも良いかなって」 その真澄の言葉に、清人は新聞を捲る手の動きを止め、清香は期待に目を輝かせた。 「どんな人ですか? 職場の人とか?」 「それなら手作りなんかしないで、既製品を買うわ。でもよくよく考えてみれば、私、義理チョコの類も渡した事は無かったわね。買いに行く時間と、お金の無駄だと思っていたし」 小さく笑いを零しながら真澄が答えると、清香が尚も答えをねだった。 「それなら益々、どんな人か気になるなぁ」 「それは内緒。だけどいざ作ろうとしたら、家のシェフが『厨房を破壊しないで下さい!』と言って、断固として使用拒否するんだもの。ふざけてるわ」 手の動きを止めないまま憤慨してみせた真澄に、清香は僅かに顔を強張らせ、慎重に尋ねてみた。 「真澄さん。どうしてその方は、真澄さんが厨房に入るのをそんなに嫌がるんですか?」 「真顔で『危険過ぎる』って言うのよ。確かに以前、ちょっと炎が燃え上がって火事になりかけて、何かの弾みでオーブンが爆発して、ちょっと手が滑って包丁が飛んだ時、偶々シェフが水を飲みに来て、鼻先にそれが刺さったけど。年を取って、心配性になったみたい」 真顔で淡々とそう述べた真澄に、清香と清人は無言になり、心の中で突っ込みを入れた。 (それなら、当然だと思う) (それなら、以前のあの特製ジュースのレシピは、どうやって考えたんだ?) そんな動揺している兄妹の心境など推し量る筈も無く、真澄は明るく清香に声をかけた。 「清香ちゃんの指示通り、材料は揃えて来たわ。指導を宜しく」 「うん。任せて」 一応笑顔を浮かべた清香だったが、心なしかその顔が微妙に強張っているのを見て取った清人が、ソファーから立ち上がりながら、恐る恐る口を挟んだ。 「清香? 一応、俺も見ているか?」 しかしここで顔付きを険しくした清香が振り返り、清人にきつく言い聞かせる。 「一緒にお兄ちゃん用のチョコを作るんだから、見ていたら駄目でしょう!? 毎年貰った時の、お楽しみなんだから」 「いや、しかし」 「締切が近いから、今日は頑張るって言ってたじゃない。ほら仕事仕事!」 尚も言いかけた清人に清香は走り寄り、両手で仕事部屋の方へと押しやった。それで清人は説得を諦め、大人しくリビングを出て行きながら一言付け加える。 「それじゃあ、何かあったらすぐ呼ぶんだぞ?」 「分かってる」 力強く頷いた清香に一抹の不安を覚えながらも、清人は大人しく自身の仕事部屋へと入った。そして真っすぐ机に向かって、やりかけの原稿に再び手を付け始めたが、十分も経たないうちに両手で頭を抱えて音を上げる。 「……勘弁してくれ。気になって仕事になるわけないだろうが」 しかしそんな愚痴を零しても、締め切りが待ってくれる筈も無く、五時近くになってから清人は漸く何とか仕事に一区切りつけ、立ちあがって仕事部屋から出て行った。
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