その話は、数年前に遡る。 ※※※ 専門学校を卒業し、無事国家試験に合格して研修等も済ませた玲二は、その日、就職先での勤務初日を迎えていた。 緊張しながらも気分良く、充実した時間を過ごしていた玲二だったが、昼過ぎの時間帯になって、ワゴンの備品を補充しながら一人首を捻って呟く。 「……何か変だ」 「何がだ? 分からない事があったら、恥ずかしがらずにすぐ聞けよ?」 三十手前で店を任されている中村が、入ったばかりの新人に対して面倒見が良さそうに思われる台詞を口にすると、玲二は困惑気味に訴えた。 「店長……、実はさっきから、時々変な視線を感じる様な気がしまして……」 「おいおい、自意識過剰だな、お前。確かに見た目良い男だが、客の目を気にして仕事が出来るか。仕事に集中しろ」 今度は若干叱責のニュアンスが含まれていたが、玲二は益々困惑しながら、待合席とは反対側の、窓の外を軽く指で示しながら弁解した。 「いえ、客からの視線じゃなくて……、窓の外からなんです」 「は?」 それを聞いた中村は思わず呆けた表情で窓に顔を向けたが、壁面がガラス張りのビルの二階に入っている店舗であり、窓の向こうには通りを挟んで建っているビル群の二階以上しか、当然目に入らなかった。その事実を確認した中村が、ゆっくりと玲二に向き直る。 「……もしかしてお前、霊感とかあるタイプ?」 「今までは、そんな気は無かったと思うんですが……、目覚めたかな?」 こめかみを軽く指で擦りながら、真面目な顔で考え込んでしまった玲二に、若干顔を青ざめさせた中村の小言が投げつけられた。 「初日から変な事を言ってないで、さっさと備品を揃えろ! あ、その前に、あそこの席の周りを掃け!」 「分かりました」 そこで玲二は(どうやら店長には、ホラー系の話はタブーらしい)との情報を頭にインプットしながら、床に散乱しているカットされた髪を掃き集めにかかった。 そして翌日。 「……おかしい」 「だから何が。おかしいのはお前の方だ」 窓の方に目をやりながら眉を寄せて考え込んだ玲二に、中村が些かうんざりとした表情で問い掛けると、既に中村から前日の話を聞いていたらしい他の何人かのスタッフが、玲二達の周りに様子を見に寄って来た。 「え? どうかしたの?」 「店長から聞いたけど、また視線を感じるとか?」 「はい……」 先輩に声をかけられて、何となく納得しかねる顔で頷いた玲二に、中村は勿論、他の者達も心配そうな顔を向けた。 「おい、神経過敏ってわけじゃ無いよな?」 「まだオープン前で客は居ないのに……。柏木君、派手な外見に似合わず、結構繊細なのね。大丈夫?」 「それとも就職したばかりで、まだ緊張しているのかしら?」 そんな風に、口々に気遣う声を掛けて貰った玲二は、(もう気楽な学生じゃないんだぜ? 家から出て自立の第一歩だって言うのに、一社会人として恥ずかしいだろ? しっかりしろよ!)と自分自身を叱咤しつつ、周囲に笑顔を向けて力強く告げた。 「そんなにヤワな神経をしているとは、思って無かったんですが……。別に具合が悪いとかじゃありませんので、これからは仕事に集中します。ご心配お掛けして申し訳ありませんでした」 そう言って軽く頭を下げた玲二に、他の者達も笑顔を見せる。 「よし、その意気だ。今日もビシビシこき使うからな?」 「店長酷~い! 頑張ってね?」 「苛められたらすぐお姉さん達に言うのよ?」 「おい、何だそれは?」 「でも具合が悪くなったら、すぐに言いなさいよ?」 「はい、店長、香川さん、仁木さん、高瀬さん、ありがとうございます」 そうして和やかな雰囲気になったところで、皆手際良く開店準備を再開した。しかし開店して忙しく立ち振る舞いながらも、笑顔を浮かべている玲二の中では、まだモヤモヤした気分が晴れないままだった。 (しかし、何なんだろうな……。見た目や実家のせいで、他人からジロジロ見られるのには慣れている筈なのに。しかも羨望とか嫉妬とかじゃなくて、……強いて言えば悪寒を感じる) 「それでは先に、そちらの一番手前のシャンプー台へどうぞ。髪を濡らしておきますので」 「はい」 にっこり微笑むと釣られた様に笑顔になった女性客を誘導しながら、玲二はチラッと背後のガラス窓に目を向けた。 (第一、窓の外から視線を感じるなんて有り得ないのに。逆に視線に敏感になりすぎて、烏か鳩に見られてるのが気になったりしてるのか?) 密かにそんな事を悶々と考えながらも、問題無く髪を洗い流した玲二は、次にカット席に誘導した。 「シャンプーはカットの後に致しますので。それでは一番窓側の席へどうぞ」 「分かりました」 そして椅子に座った客にカット用のケープを掛けていた玲二は、窓の方に視線を向けながら、ふと笑いを噛み殺した。 (鳥相手でも、見られるならやっぱりメスの方が良いな…………って!? ちょっと待て、今のって!) しかし次の瞬間、異常な物を認めてしまった玲二は、固まって窓の外を凝視した。そして冷や汗を流しながら、我知らず小声で呟く。 「おい、ちょっとまて。あれってまさか……」 そこで不自然に立ち尽くしている玲二に、カットに取り掛かるためやってきた中村が、怪訝そうに声をかけた。 「うん? 柏木、どうした?」 「……いえ、何でもありません」 若干引き攣った笑顔を見せながら玲二が振り向くと、中村が鷹揚に笑って頷いてみせた。 「それなら柏木、手が空いたら休憩に入れ。一段落ついたしな」 「ありがとうございます。じゃあ入らせて貰います」 「ああ、お疲れ」 玲二は軽く頭を下げて客を中村に引き継ぐと、店内をゆっくり移動して腰に付けていた商売道具を所定の位置に戻した。しかし従業員用のスペースに入ると更衣室に駆け込み、ロッカーから財布だけを取り出して、一目散に外へと駆け出す。 それから店が入っているビルの正面玄関から道路に出て、行き交う車の流れを見ながら一直線に広い道路を横断し、向かい側に建っているほぼ同規模の商業ビルに飛び込んだ。そして迷わずその二階の、道路側に入っている喫茶店を目指す。 『本日貸切の為、入店できません』の札が下がったドアを勢い良く押し開けると、カラカラン……というカウベルの音と共に、落ち着き払った男性の声がかけられた。
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