それから三十分程は比較的穏やかに時間が過ぎたが、腕を組んで来店した一組の若いカップルによってその平穏が破られる事になった。 「……どうよ? ここ、割と美味いだろ?」 「うん、良いかも~! ねぇ、たっつん、そっちのお魚も食べてみたいぃ~」 「お、食うか? じゃあ口開けてみ? ほれ、あ~ん」 料理が来るまでも周囲にお構いなしに声高に喋っていた二人だが、食べ始めてからは更に辺りを憚らなくなってきた。 「あ~ん…………、やっぱり美味しいぃ~、たっつんやっぱり詳しいよね~」 「当たり前だろ? あ、そっちのしんじょをくれるか?」 「これ? うん、いいよ。はい、あ~ん」 互いに食べさせ合い、飲ませ合いの上馬鹿話を垂れ流しているカップルに、周りの者達は迷惑そうな視線を向けていたが、清人はそれの上を行く、冷え冷えとした視線を隠さなかった。 「何だ? あの周りの空気を読めないバカップルは。あんなのが常連か?」 料理を持ってきたついでに清人が尋ねると、修も困った顔で応じた。 「いえ、常連客ではないですが、確か……、男性客の方は、前に一度いらしたことがあるような……。でも清人さん、ご本人達は楽しくお食事されてますし」 「目障りだ」 「目障り、って……」 思わず顔を引き攣らせた修の前で、清人が件のカップルを横目で見ながら冷静に評した。 「あんなの、どうせ大した付き合いじゃないな」 「あの……、清人さん?」 「ほら、向こうの客が呼んでるぞ」 「……はい」 何となく危険な物を察知してしまった修だったが、清人だけに張り付いている訳にもいかず、清人に促されて他の客の元へ向かった。 それから二十分程、一心不乱に働いていた修だったが、カウンターの向こうで突如発生した怒声に、思わず顔を上げた。 「……ちさ! お前いい加減にしろよ!? さっきから俺が話しかけても上の空で、どこ見てやがるんだ!」 「何よ! いい男の顔鑑賞するのがそんなに悪いわけ!? あんたが大して見栄えしないから、目の保養してるだけじゃない!」 「何だと!? ふざけんなよ!」 「ふざけてんのは、あんたの顔でしょ?」 突然発生した怒鳴り合いに、慌てて奈津美が件のカップルの元に駆け寄って声をかけた。 「あ、あの、お客様? 他のお客様のご迷惑になりますので、お静かに願います」 「はぁ? あたし達だって客よ。引っ込んでなさいよ!」 しかし女は奈津美を一喝し、続けて相手も一喝する。 「この際はっきり言わせて貰うけど、あんたがあたしに釣り合うと本気で思ってるの? 付き合ってあげてるだけで、感謝して欲しいわね! ちょっとよそ見する位、大目に見なさいよ!」 その罵倒に相手の男は顔を紅潮させた。 「ざけんな! てめぇなんか金輪際御免だぜ!」 「あぁら、私もよ。お互い同じ意見で良かったわね。サヨナラ! ここに引っ張り込んだのはあんたなんだから、会計はあんた持ちよ」 「寄越せ! 二度と俺の前に顔を見せるな!?」 突き出した伝票を男が引ったくる様にして奪い、乱暴に出入り口前のレジへと向かう。 「それはこっちの台詞よ!」 「あのっ、お客様……」 「会計だ。早くしろ!」 「はっ、はいっ!」 男に怒鳴りつけられて慌てて奈津美が会計を済ませているうちに、女の方は真っ直ぐカウンターへと足を進めた。 「……ねぇ、ここ、空いてるんでしょ? 一緒に飲みましょうよ」 その女は清人の隣の席に手をかけながら、媚びる様な視線と声で清人に話し掛けてきたが、清人は一人酒を飲みながら一顧だにしなかった。 「空いているが、君と一緒に飲まなければいけない理由は皆無だ」 「そんな事言って。さっきまでずっと、私の事を見ていた癖に」 「いや? 別に見てはいないが。何かの勘違いだろう」 「嘘よ! だってあんな熱っぽく見てたじゃない!」 「……うん? ああ、確かにあの招き猫を見ていたな」 「はぁ? 招き猫?」 窓際に顔を向けた清人の視線を、彼女が思わず追った。すると確かに清人の位置からすると、先程自分が座っていたテーブルの向こう側の窓の縁に、鎮座している招き猫が目に入る。 呆然とそれを眺める女には構わず、そこで清人が感嘆の呟きを漏らした。 「あの実に愛らしい表情、絶妙な滑らかなカーブを描く腕、本体に対する小判の大きさのバランス、それにあの発色とテカり具合……。どれを取っても完璧だ。何度見ても惚れ惚れする」 「…………」 恍惚とした表情で評する清人に、女の顔が強張る。そこで恐る恐る修が口を挟んだ。 「あの……、清人さん?」 すると清人が修に顔を向け、晴れ晴れとした笑顔で懇願した。 「ああ、ちょうど良かった、修。あの招き猫を是非俺に譲ってくれ。リビングに飾りたいんだ。……君、俺の隣に座りたかったら、それなりの容姿と体型と教養をモノにしてから出直してくれ。……到底無理だとは思うがな」 続けて傍らの女性視線を移し、上から下まで無遠慮に眺めてから鼻で笑った一言に、彼女が完全に切れた。 「……っ! 冗談じゃないわ、ふざけないでよっ! もう二度と来ないわ、こんなとこっ!」 清人を怒鳴りつけ、鼻息も荒く彼女が店を後にすると、我に返った修は小声で清人に訴えた。 「清人さん! お願いですから、客に色目使った挙げ句、あっさり切り捨てないで下さいよ!」 しかしその抗議にも、清人が悪びれる事無く言い返す。 「俺はただあの招き猫に惚れ込んで、一人で眺めていただけだ。勝手に勘違いした、あの痛すぎる女が悪い」 「あのですね…………」 次に続ける言葉が出ずに修が頭を抱えた時、些か乱暴に入り口の戸が開けられ、両側から支えられる様にして泥酔した中年男が入って来た。
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