零れた欠片が埋まる時
第11話 反発と後悔と③

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 その日の夜、病院の面会時間ギリギリに聡が母親の病室を訪れると、電動式のベッドの半分を持ち上げた状態で由紀子がそこに上半身を預け、静かに本を読んでいた。 「あら、聡。来てくれたの?」  自分の姿を見付けて嬉しそうに笑いかけてくる由紀子に、聡も照れ笑いで応じる。 「今日は何とか、消灯前に来れたな。いつもバタバタしてごめん。土日とかにゆっくり来れば良いんだけど、色々あって」 「良いのよ? もういい大人なんだし。良い加減、母親より彼女を優先にしないと、振られてしまうわよ? えっと……、何てお名前だったかしら、三宅さん?」  笑って確認を入れてきた由紀子に、聡は幾分気まずそうに視線を逸らした。 「……彼女とは、もう別れたから」 「あ、そうだったの? ごめんなさい、知らなくて」 「いいよ。俺もわざわざ言わないし」  しかも最後ではなく二代前の彼女の名前を口にされた事で、聡は(俺ってそんなに彼女の入れ替わりが早かっただろうか)と微妙に反省した。そして多少気まずくなってしまった室内の雰囲気を一掃しようと、ここで聡が持参した物を鞄から取り出す。 「母さん、今日はこれを持って来たんだ」 「これって、私の本よね。どうしてわざわざ本棚から持って来たの?」  見覚えが有りすぎる、自作のカバーをかけられたそれを受け取った由紀子が不思議そうに見返すと、聡は表紙を捲って見せた。 「母さんが喜ぶかと思って、東野薫先生のサインを貰ってきた」  『喜ぶかと』と口にした割には、些か心配そうに告げた息子に、由紀子の目が驚きで軽く見開かれ、サインと聡の顔を何回か交互に見てから、喘ぐ様に囁いた。 「貰った……、って、聡? あなた、まさか……、本人に直接名乗って、サインして貰ったわけじゃ……」  由紀子の顔色は白を通り越して、もはや蒼白になっており、その反応をある程度予測していた聡は、冷静に宥めにかかった。 「勿論、面と向かって『俺はあなたの弟です、宜しく』なんてやってないから。兄さんの異母妹の、清香さんって子と最近知り合って、俺と兄さんの関係は明かさないまま、その子経由で頼んだんだ。角谷って名乗ったし、心配要らないよ」 (名乗ったけど、兄さんにはバレバレだったみたいだが)  余計な事は自分の胸の中だけにしまって説明した聡だが、それを聞いた由紀子が何かを思い出そうとする様に、前方の壁の一点を見やりながら呟く。 「清香さん……。そう言えばあの時、側にかなり年下のお嬢さんが、制服を着て座って居たような……。あの子の事かしら?」 「あの時って、母さん。ひょっとして彼女と面識があったの? 初耳だけど」 「……いえ、そんな事は無いわ。言い間違っただけよ」  驚いて確認を入れた聡だが、それで瞬時に我に返った由紀子は誤魔化し、それ以上は余計な事を口にせずに黙り込む。何分かそんな沈黙が続いたが、開いたページに目を落とし、そこに書かれたサインを愛おしそうに手で軽くなぞっていた由紀子が漸くそこから顔を上げ、聡の顔を見据えながらゆっくりと口を開いた。 「聡? 嬉しいけど、こんな事はもう止めてね? 相手を怒らせるだけだから」 「怒っていたら、サインなんかしてくれないと思うけど?」 「それはこちらが、身元をきちんと告げなかったからよ。第一、清香さんにも迷惑だろうし」 「彼女に母さんが兄さんの作品を愛読してる事を話して聞かせたら、凄く喜んでくれて快諾してくれたけど?」 「余計な事はしないでって言ってるの! 人の気も知らないで、自分の自己満足の為に他人を騙して平気でいるなんて、人として最低でしょう! 黙って、親の言う事を聞きなさい!!」  いきなり由紀子が声を荒げながら叱責してきた為、常には有り得ないその光景に聡は驚いて固まったが、次に激しい怒りに駆られた。 「……へぇ、母さんは、余計な事だって言うんだ」 「当たり前でしょう? 先方とこちらとは、今ではもう無関係なんだから!」 「じゃあ発作で倒れて、意識が朦朧としてた時、兄さんの名前を何度も口にしてたのは? 父さんは勿論、俺の名前だって、母さんは一度も口にしなかったけど」 「え?」  そこで由紀子の声に勢いが無くなり、逆に静かに語り掛けた聡の口調が、段々激しいものに変化していく。 「ああ、確かにそうだね。兄さんと俺達は無関係だ。現に五年前に父さんから話を聞いた時、だから母さんが東野薫の本を読んでいるんだと納得したけど、本当にそれだけだったし。母さんが倒れるまで、正直存在すら忘れていたさ!」 「聡、ごめんなさい。さっきは、私が言い過ぎたわ」  慌てて謝ってその場を治めようとした母親の台詞を、聡は聞かぬふりで続けた。 「だけど母さんは、ずっと忘れて無かったって事だろ? そりゃあそうだよな。何と言っても家付き娘の母さんが、本気で好きになって駆け落ち同然に結婚した相手との間の子供だし。そりゃあ可愛いだろうさ! あの頑固爺に押し付けられた再婚相手の、あの面白味の無い父さんの子供の俺なんか、二の次だろうし!」 「聡! そんな事は無いわ!」  血相を変えて激しく由紀子が否定したが、それを見て逆に落ち着いた聡は、いっそ冷たいとも言える口調で淡々と続けた。 「何を今更……。あれではっきり分かったから、別に遠慮しなくて良いさ。正直に言ったら? 俺は兄さんの代わりだって」 「聡。だからそれは誤解よ。私は別に清人とあなたを比べたりなんかしていないわ」  必死で弁解する由紀子を真正面から見据えながら、母親が初めて“清人”と兄の名前を読んだ事実に訳も無く苛ついた聡は、以前からの疑問を母親にぶつけた。 「未だに気持ちを残してるなら、佐竹さんと別れた時、どうして兄さんを引き取らなかったんだ? 佐竹さんは再婚するまで、十年近く男手一つで兄さんを育てていて大変だったろうし、うちは昔から金だけは十分過ぎる程あるんだから。母さんが言えばあのジジイだって、いけ好かない男の子供でも、兄さんを手元に引き取ったんじゃないか?」  言うだけ言った聡は母親の反応を慎重に窺ったが、由紀子は聡から視線を逸らして俯いたまま、ボソッと呟いたのみだった。 「…………あなたには、関係の無い事よ」 「分かった。もういい、俺は帰る。おやすみ」  何となく母親に裏切られた気持ちで一杯になってしまった聡は衝動的に立ち上がり、吐き捨てる様に別れの言葉を口にしながら由紀子の顔を見ずに足早に病室を去った。  廊下に出た瞬間、幾らか頭が冷えて残してきた母親の事が気になったが、どうしても病室内に戻る気にはならず、苛々しながらそのまま歩き出す。ちょうどその病棟で待機していたエレベーターに乗り込み、一階フロアに降りて廊下に足を踏み出した直後、我慢できなくなって廊下の壁を拳で力一杯叩いた。 「くそっ……」  考え無しに殴った拳も痛かったが、これまで穏やかな性格の由紀子に対して、怒鳴ったり嫌味を言った事など皆無だった聡は、それ以上に胸の痛みを覚え、そんな自分自身の感情を持て余してしまった。

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