同じ頃、都内でも有数の規模を誇る総合病院内で、消灯時間を過ぎた病棟内を、極力足音を響かせずに歩く、二十代半ばの男性の姿があった。仕事帰りであるのか片手にビジネスバッグを持ち、薄暗い廊下を迷わずに進んで行く彼は、目指す個室に辿りつくと、入口の引き戸をするすると音も無く開ける。 中の人間に気付かれる事は無いと思ったのだが、予想に反して当面のそこの主である小笠原由紀子が気配を察した様に顔を向け、それを見た彼は心の中で舌打ちした。 「…… 聡?」 「ごめん。起こしたかな?」 自分譲りの、多少癖のかかった柔らかな髪を持つ息子が申し訳なさそうに謝ってきた為、由紀子はベッドから体を起こしながら笑って首を振った。 「ううん、何となく目が覚めたところだったから。それより何かあったの?」 僅かに首を傾げつつ尋ねた母親に、聡は鞄から一冊の文庫本を取り出し、彼女に向かって差し出した。 「大した事ではないけど……。東野薫の新刊が、今日発売だったから持って来た。もう寝ていると思ってたから、置いて帰るつもりだったんだけど」 「え? まさかわざわざ仕事帰りに買って来てくれたの?」 それを見た由紀子は僅かに目を見開き、目の前の本と息子の顔を交互に見やる。その視線を居心地悪そうに受け止めた聡は、まるで反抗期の様な受け答えをした。 「今日は偶々、外に出る用事があって。ついでに買って来ただけだから」 ボソッとそう呟いて視線を逸らした聡を見つめた由紀子は、ほんのりと嬉しそうに笑った。そして愛おしそうに受け取った文庫本のカバーを撫でる。 「ありがとう。明日、ゆっくり読ませて貰うわね」 そのまま本の表紙に視線を落としている母親に顔を戻し、聡が静かに声をかけた。 「母さん」 「何?」 顔を上げた由紀子と真正面から向き合った聡だが、少ししてから自分からその視線を外した。 「いや、何でもない。遅いしもう帰るよ。次の休みの日にゆっくり来るから」 そう言って踵を返した聡の背中に、由紀子が気遣わしげな声をかける。 「来月には退院できるんだし、忙しい思いをして無理に顔を出さなくても良いのよ? お仕事が大変だろうし」 「ああ、分かってる。それじゃあ」 些か重い気分で母親の病室を抜け出た聡は、そのまま依然として喧騒を保っている夜の雑踏の中へ戻って行った。そして家路を辿りながら、日中の出来事を反芻する。 (一応、電話をしてみたが、やはり直接は無理か。予想通りと言えば予想通りなんだが) 未だに直接顔を合わせた事の無い、異父兄の事を頭に思い浮かべた聡は、無意識に渋面になった。 (だが、このままで良い筈がないだろう?) そう決意を新たにした聡が、地下鉄のホームへと通じる階段を降りながら呟く。 「本人が駄目なら、この際、妹から接触してみるか」 そんな風に、聡の当面の方針が決定したが、それによって更なる嵐が発生する事となった。
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