「母さん。少し話があるんだけど、良いかな?」 消灯時間ギリギリに病室に現れた息子が、神妙な顔をして自分にお伺いを立ててきた為、ベッドの上で本を読んでいた由紀子は、本を閉じながら優しく微笑んだ。 「勿論構わないわよ、聡。どうかしたの?」 手振りで傍らの椅子を勧めると、彼がおとなしくそれに座ってから、どこか言い辛そうに口を開く。 「一応、事前に母さんには話しておこうと思って」 「あら、何を?」 不思議そうに問いかけると、聡はまだ少し迷う素振りを見せたものの、意を決した様に口を開いた。 「その……、この前も謝った事だけど。母さんが兄さんに会いたがってると思っていたから、俺は兄さんに母さんに会って貰おうとしたけど」 「聡、だからそれは」 「それは、現時点ではお互いの本意では無い事が良く分かったから、この件については潔く諦めようと思ってる」 「そうね。そうして頂戴」 窘めようとしたものの、聡にはっきりと宣言され、由紀子は俯き加減で微妙な表情を見せた。しかし続く聡の台詞で、弾かれた様に顔を上げる。 「だけどそれとは別に、清香さんとはこれからも会うから。早速、次の約束もしたし」 「聡!?」 驚いて聡を見やった由紀子と、黙り込んだ聡の視線が絡まる。 互いに視線を逸らさないまま十数秒が経過し、どうやら息子が本気らしいと悟った由紀子は、聡の顔を眺めながら穏やかに問い掛けた。 「それはどうしてか、聞いても良いかしら?」 しかしその問いに、聡は幾分困った様に曖昧に笑いながら答えた。 「さあ……、正直に言うと、まだ自分でも良く分からないかな」 「あら、そうなの?」 「だけどそのせいで、これから母さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれないから、先に謝っておこうと思って」 何かを吹っ切ったらしく、悪びれずに言ってのける聡に、今度は由紀子が小さく笑う。 「馬鹿ね……、私なんかに詫びる必要は無いわ。清香さんと今後も関わっていくつもりなら、私の事で嫌な思いをするのはあなたの方よ?」 「その事なんだけど、今日はその理由を聞かせて貰おうと思って。それは単に佐竹さんと離婚後に、兄さんと会ってないだけでは無いだろう?」 いきなり真顔で切り込んできた聡に対し、由紀子も表情を消して無言で見つめ合った。そして小さく溜め息を漏らす。 「分かったわ……。前々からあなたには、一度きちんと話すべきだと思っていたし、良い機会かもしれないわ」 そう言ってから、由紀子は重い口を開いた。 「私が清吾さんとの結婚を親に反対されて、家を出た経緯は知っている?」 「ああ、五年前に父さんから兄さんの話を聞いた時、簡単な流れだけは。二年強で小笠原に戻った事も。どうして佐竹さんと離婚したのか、兄さんを手放したのか聞かせて欲しい」 「手放したんじゃないわ。置き去りにしたの」 「え?」 その言葉の不穏な響きに反射的に聡がたじろいだが、由紀子はどこか懐かしむ不応上で話し始めた。 「清吾さんと結婚した事については、私、後悔はしていないわ。確かに生活は大変だったけれど、最初はそんなに苦痛に感じていなかったし。好きな相手と一緒だったし、結婚してすぐに清人を妊娠して、あまり細かい事に構っていられないって言うのが、正直なところだったかもしれないけど」 「それで?」 そこで一旦話を区切った由紀子を、聡は慎重に促した。それを受けて由紀子が淡々と話を続ける。 「清人を産んでから、何か少しずつ歯車が狂っていったみたいで。何もかもが嫌になってきたの。後から育児ノイローゼだって言われたけど、その頃はそんな意識は、全然無かったしね」 「母さん、それは…。どういう状況だったか俺には正確には分からないけど、仕方なかったんじゃないか?」 一応庇う発言をした息子に、由紀子は軽く首を振った。 「そんな事は無いわ。私がさっさと、変なプライドを捨てていれば良かったのよ。家を飛び出した手前、何も出来ないなんて思われるのが嫌で、所詮お嬢様のお遊びだなんて陰で馬鹿にされてる様な気がして、親切にしてくれた周囲の人に、素直に頼れなかったから。何でも一人で完璧にやろうとムキになって、段々全ての事が苦痛になっていった……」 当時の事を思い出しているらしい由紀子が無意識に布団をきつく握り締めたのを見ながら、聡は黙って話の続きに耳を傾けた。
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