「そう言えば話は変わりますが、真澄さんは先生と付き合いが長いですから、《小笠原聡》と言う人物と先生の関係をご存じではないですか?」 「小笠原? ……勿論知っているけど、どうしてその名前が恭子さんが口から出てくるわけ?」 自分が降った話題にピクッと反応し、瞬時に怒気を醸し出し始めた真澄に、恭子は話題を変えた事が正解だった事を悟り、ほくそ笑みそうになるのを堪えながら、まじめくさって話を続けた。 「実はこの前、先生の弟だと名乗ってかけてきた電話を取り次いだんです。でも先生は『自分に弟はいない』と言うし、しかもその人物が『角谷聡』の名前で清香ちゃんに近付いているみたいで」 「清香ちゃんに偽名で近付いている?」 「正確には仕事上の通称ですが。それで先生が、その角谷聡の職場への妨害工作の下準備を始めてます」 「それで恭子さんも忙しくなりそうなわけね」 素早く事情を察した真澄が苦笑いすると、恭子も同様の表情で肩を竦める。 「既に忙しくなりつつありますが。でも忙しいのは構いませんが、理由位は聞かせて貰いたいものだなと思いまして」 そう言われて、真澄は心得た様に一人頷いた。 「きっと口にするのも不愉快だから、あまり説明したくないんでしょう。そのうち話はあるでしょうけど、一応ここで教えておくわ」 「ありがとうございます。何となく気になっていたもので」 それから真澄は清吾の最初の結婚についてと、離婚後の清人と小笠原家の関係について、自分が知る限りの事を纏めて順序立てて伝えると、恭子は最初唖然としていたものの、最後は得心して頷いた。 「なるほど……、そういう事情だったんですか。良く分かりました」 「あそこの夫人が最近大病をしたとどこかから聞いた覚えがあるから、恐らく息子が独断で動いたんだと思うけどね」 そう言って小さく肩を竦めた真澄に、恭子が皮肉っぽく口元を歪めながら応じる。 「はぁ、如何にも世間知らずのボンボンの、短絡思考っぽいですねぇ」 「そもそも清香ちゃんに身元を明かさず、偽名で近付くってのが許せないわ」 「同感です。これで邪魔をするのにも、気合いが入りますね。あと情報を一つ。その彼が、清香ちゃんを映画の試写会に誘ったんです。先生が外せない用事があるとかで、柏木さんに何とか試写会の券を入手して、邪魔する様に厳命したみたいですよ?」 そう告げられた真澄は、無意識に眉を寄せた。 「柏木さんって……、浩一の事よね? そんな事、一言も言って無かったわよ、全く……」 「因みにそれは榊原康孝原作の『春の波濤』です。主な後援企業名は春日堂、日興放送、徳沢エージェンシー、中林証券等ですが、最近その名前に聞き覚えは?」 そう言って真澄の反応を窺いつつ不敵に笑った恭子に、真澄も楽しそうな笑顔で返した。 「恭子さんは相変わらず目端が利いて、仕事が早いわね。勿論その中に柏木産業、もっと詳しく言えばうちの二課と取引がある企業があるわ。恩に着るわね、恭子さん。これからも情報の横流しを宜しく」 「どういたしまして。でもこれで、そろそろ真澄さんとの関係をオープンにしても、先生にそれほど不審がられなくて済みそうですね。『清香ちゃんを心配した真澄さんに色々尋ねられている間に、自然に親しくなった』と言えば済みそうですし。勿論小笠原さんの事は、先生に説明を受けた時に、盛大に驚いてみせますが」 「そうね。そもそも恭子さんとは、清人君自身に引き合わされているんだしね」 そこで二人で顔を見合わせて含み笑いをしてから、恭子はこれまで放置していた入力用のパネルを取り上げ、嬉々として曲を選択し始めた。 「さあ、そうと決まれば、景気付けにガンガン歌いますよ! 生意気な若造を、懲らしめてやらなくちゃいけないんですから、気合い入れていかないと!」 「あ、ちょっと! 勝手に入力しないでよ! 今度は私の番だったのよ? しかも『時雨酒』は私の持ち歌なのに!」 「早い者勝ちです。男に振られた位で、ウジウジしてる方が悪いんですよ」 「何ですって!?」 それから、女二人は先程までの重苦しい空気を一掃する様に、何時間か熱唱を繰り広げた。 その翌日、真澄は早速行動に出た。 「浩一、ちょっと良い?」 「姉さん? 何か用かな?」 夜に浩一の私室を訪れた真澄は、右手で細長い紙片を浩一に向かってかざして見せた。 「これ、欲しくない? 取引先から貰ったのよ。榊原康孝原作『春の波濤』の、試写会招待券なんだけど」 「本当に? 助かったよ。それが欲しかったんだ。是非譲って貰えないかな」 にっこり笑って説明した真澄に、浩一が喜んで手を伸ばした。そこで真澄が券を摘んでいた指を滑らせると、彼の眼前で、綺麗に重なっていた二枚の券がずれる。 「そう? 良かったわ、喜んで貰えて。じゃあ一緒に行きましょうね?」 笑みを深めた姉から満足そうにそう言われた浩一は、思わず顔を引き攣らせた。 「ちょっと待ってくれ、姉さん。一緒に行くって」 「浩一? あなた何か、私に隠している事が有るわよね? 私に隠し事しようなんて、百年早いわよ?」 ここで目を眇めて問い質してきた真澄に、浩一は冷や汗を流した。 「いや、別に意図的に隠していたわけじゃ……」 「清香ちゃんに近付く害虫は、皆で徹底駆除が原則でしょ? 私だけ除け者にするなんて良い度胸ね」 「除け者って……。ただ単に、姉さんが絡んでくると、必要以上に騒ぎが大きくなる気がして。それに清人にも『真澄さんには言うなよ』と念押しされたのに、一体どこからその話を……」 尚も弁解しようとした浩一だったが、真澄はそれを一刀両断した。 「と・に・か・く、私もこれに一緒に行くわよ? 身元を隠して清香ちゃんに近付く様な、不心得者で腑抜け野郎の間抜け面を、とっくりと拝んでやるんだから!」 「……分かった、一緒に行こう。だけどくれぐれも変な騒ぎは起こさないでくれ」 「それはそいつの態度次第ね」 それを聞いた浩一は深い溜め息を吐いて項垂れ、真澄は(清香ちゃんに面白半分でちょっかい出す気なら、さっさと粉砕してやるわ!)と意気軒昂のまま、試写会当日を迎えた。
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