同じ頃、清人達が住んでいるマンションでは、何やら騒々しい物音が玄関で生じていた。そして足音がドアの向こうから聞こえてきたと思ったら、自分が寝ている寝室のドアを開け放ちながら清香が声を上げた為、清人は壁を見ながらほくそ笑んだ。 「お兄ちゃん、居るっ!?」 ドアに背中を向けて寝ていた為、清人の薄笑いの顔は当然清香には分からず、さも今目が覚めたという風情を装いつつ清人はゆっくりと寝がえりを打ち、清香の方に向き直る。 「……清香? どうした、そんなに慌てて」 「どうしたもこうしたも! お兄ちゃん、急に具合が悪くなって病院に行ったんじゃなかったの? 正彦さんに偶然会って聞いたんだけど!?」 ベッドに歩み寄りながら問い質してくる清香に、清人は多少考え込む様子を見せてから、気まり悪そうに微笑んでみせた。 「そうか……、悪い。正彦との電話の後急に痛みが落ち着いてきたから、腹痛で救急車を呼ぶのも気恥ずかしいし、休んでれば良くなるかと思ったんだ。実際もう落ち着いたし、大丈夫だ」 「電話は? 家の電話も、携帯も繋がらなかったんだけど?」 「眠ってたから気が付かなかったかな? 携帯は……、ああ、正彦からの電話を切った時、うっかり電源を落としてしまったみたいだな。ほら」 枕元に置いておいた携帯を取り上げて清香に差し出すと、確かにディスプレイが真っ黒になっており、清香は呆れ半分安堵半分の溜息を吐き出した。次いでベッドの端に腰かけ、清人の顔を見下ろしながら猛然と説教モードに突入する。 「もう、本当に人騒がせなんだから! どれだけ心配したと思ってるのよ!! それに腹痛だって甘く見ちゃいけないのよ! 第一お兄ちゃんは仕事し過ぎよっ! 不摂生な生活してると、病気にもなりやすいんですからね! 言われ無くても自重して頂戴!!」 「うん分かった、反省している。これからは十分気をつけるから、そろそろ許してくれるかな? 清香」 「反省してるならもう良いわ。もう……、本当に何かあったらどうしようかと思ったんだから。お父さんとお母さんだって病気じゃなかったのに、急にいなくなっちゃったし……」 「清香……」 最後は涙声の清香の訴えに、清人は流石に罪悪感を覚えた。布団の中から片手を出して伸ばし、清香の頬を軽く撫でながら謝罪しつつ、これ以上暗い雰囲気にならない様に話題を変える。 「すまなかったな、心配かけて。そう言えば角谷さんには会えたのか? 途中で引き返したのなら、約束を反故にさせて申し訳無かったが……」 待ち合わせ場所で正彦がちょっかいを出した事は知りながら、素知らぬふりで清人が尋ねると、清香は気持ちを落ち着かせながらそれに答えた。 「大丈夫。本の受け渡しをした直後に、正彦さんとカフェで会ったの。デートだったみたいよ? 綺麗な女の人を連れてたから」 「そうか、それなら良かった」 「あ、ちょっと待っててね。今、その本を取って来るから」 そこで清香がパタパタと寝室を出ていき、すぐに一冊の本を手にして戻って来た。 「お待たせ。ほら、素敵でしょ?」 そう言って嬉しそうに清香が差し出した一冊のハードカバーの本を、清人はいつもよりゆっくりとした動作で上半身を起こし受け取った。そして手に本来感じる以上の重みを感じながら、黙って見下ろす。 いつもの清香なら常には見せない、その表情を消した清人の状態を訝しんだかもしれなかったが、緊張が一気にほぐれた事で些細な事には気が付かなかった。 「このお手製のカバーって、和紙を使ってるんだよね。それでこんな綺麗な流水紋のデザインの物なんて、私初めて見た。凄くセンスが良いのね、角谷さんのお母さんって。そう思わない?」 「ああ……、確かに綺麗だな。これは」 微妙な言い回しで、清人は個人のセンス云々ではなく、カバーに対しての感想を述べたが、清香は益々笑顔になって言い募った。 「それに墨を使って、細筆でタイトルを書いてる。達筆だよねぇ、私昔お母さんに習わされたけど、全然ものにならなかったし」 「安心しろ、俺も習字は大してできない」 「あと、本棚の肥やしとかにしてるんじゃなくて、本当に大切に読み込んでくれてるんだね。だって少し角が擦り切れてるし、ページの真ん中辺りに指で捲った跡がうっすらと付いてるもの。角谷さんのお母さんって、本当にお兄ちゃんのファンなんだね! こういう人達に心配かけさせない為にも、自己管理は徹底しようねっ!」 「…………そうだな。気をつける」 明るく結論付けた清香に、清人は胸中を綺麗に押し隠して素直に頷いて見せたが、ここですっかり気分を良くした清香が、自覚しないまま余計な事を言い出した。 「何だか角谷さんに益々親近感湧いてきちゃったな~。お兄ちゃんと大学も学部も同じな上、どことなくお兄ちゃんに似てるし」 「……俺に似ている? どこが?」 途端に若干目を細めて問い返した清人だが、清香は清人のそんな変化に気付かないまま口を滑らせた。 「えっと、ちょっと明るめの色調でくせ毛の髪質もそうなんだけど、笑った時の目元の辺りが何となく似ていて格好良いなぁって」 テレテレと笑いつつ清香としては(やっぱりお兄ちゃんは格好良いと思う)という意思表示のつもりで言った台詞だったのだが、清人は(俺と似てるだと? しかも清香が俺以外の男の事を格好が良いだなんて、冗談じゃない!)との認識しか持てなかった。 「じゃあお兄ちゃん、今日は一日寝てるのよ? お昼ご飯は食べられそう?」 密かに怒りまくっている清人の心中など分からない清香が無邪気に尋ねてきた為、清人は辛うじていつもの口調を保った。 「いや、あまり食欲が無いからこのまま寝ている。夕飯だけ準備してくれるか?」 「分かった。何か消化の良い物を準備するね」 そう言って寝室のドアを静かに閉めて清香が出て言ってから、清人は押し殺した声で腹立たしげに吐き捨てた。 「ふざけるなっ! 人の領域に、ずかずかと踏み込んで来やがって!!」 如何にも憎々しげに手の中の本をベッドの端に投げ捨てた清人は、怒りに燃える目で携帯に手を伸ばし、迷わずにアドレス帳からある番号を選択する。待つ事数秒で向こうが応答すると同時に、清人は捲し立てた。 「長野さん、佐竹です。大至急お願いしたい事があります。今回は色ボケ学生の素行調査とはわけが違いますから、経費は使い放題で構いません」 「ほう? それはそれは豪勢な。それで、依頼内容は?」 「小笠原物産営業部第一課が、今現在取り扱っている業務内容が何か、可能な限り調査して下さい。一々報告書に纏める必要はありません。分かった時点で、その都度連絡をお願いします」 「そりゃあまた、随分と毛色の変わったご依頼で」 電話の相手は面白そうに笑いを堪えていたが、清人は冷たい声のまま核心に触れた。 「特に、営業部第一課の角谷聡の業務内容に関してを、集中的にです」 その口調で何かを察したのか、電話の向こうで小さく溜息を吐く気配がしてから呟きが漏れる。 「……要するに、そいつが今回の先生の標的ですか。気の毒に」 「宜しくお願いします。請求書が回ってきたら、いつもの口座への振り込みで宜しいですね?」 「はい、それでお願いします。それでは早速動きますので」 お互いにどこまでもビジネスライクに話を進め、2人はあっさりと通話を終わらせた。 「俺を本気で怒らせたな? 聡。たっぷり後悔させてやるぞ?」 手にした携帯をまるでそれが本人でもあるかの様に睨みつけながら、清人がまだ見た事も無い弟の名前を口にしていた事など、当の本人は知る由も無かった。
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