本来、清香に関しての観察力洞察力は鋭敏な清人が、珍しくそんな些細な勘違いをした日の翌日。 明るい午後の日差しが差し込む、ガラス張りの広い店内の壁際でシャンプーを済ませた清香は、スタッフに誘導されて鏡の前の椅子に座った。それからさほど待たされず、指名をしていた明るいオレンジ色に近い髪の美容師がやってきて、その背後から声をかけてくる。 「やあ清香ちゃん、お待たせ」 笑顔を振りまきながらふわりとカット用のビニールケープを自分の周りに広げた玲二に、清香は鏡の中の彼に笑顔を返しつつスルリと袖に腕を通した。 「今日もお願いします、玲二さん。でも私って贅沢よね?」 「何が?」 ケープを清香の首の後ろで止めつつ、首にかかる程度の髪を僅かに揺らしながら玲二が尋ねると、清香がクスクスと笑いながら理由を述べた。 「だってカリスマ美容師と人気が高い玲二さんに、電話一本でこちらの都合に合わせていつでも予約を入れて貰えるんだもの。しかも毛先を揃えるだけなのに。他の女の人達に知られたら、絶対恨まれるわ」 それに玲二は清香の髪を纏めたタオルを外しつつ、笑って応じる。 「可愛い清香ちゃんがわざわざ俺に会いに来てくれるんだから、時間を空けるのは当然だよ?」 「もう、相変わらず上手なんだから」 苦笑した清香の髪を、玲二は滑らかな手の動きで肩から背中へと流した。 「言っておくけどお世辞じゃないよ? 本当に、会う度に何にも染まっていない清香ちゃんを見ると……」 そう言いながら玲二は後ろから両手を回し、清香の両サイドの髪を耳の横で指で挟んで長さを測るように伸ばしつつ、僅かに屈んで清香の顔に自分の顔を寄せた。そして鏡の中の清香に向かって、艶やかな流し眼を向ける。 「上から下まで余す所無く、俺色に染め上げてみたくなる……」 「ぜえ~ったい、駄目っ!」 大抵の女性はこれで落ちるところが、清香は頬を染めるどころか、気分を害したらしい顔で盛大に否定してきた為、さすがの玲二もへこみそうになった。 「……酷いな。そんなに嫌わなくても」 すると清香が猛然と理由を述べる。 「だって美容師さんって、会う人会う人私の髪を見るなり『あら素敵な髪ね! でも若いんだからもう少し明るい色にした方が絶対似合うわよ? ついでに軽くパーマもしてみない?』とか何とか上手いこと丸め込もうとするんだもの!」 憤然としながら訴えられた内容に、玲二は苦笑いしながら立ち直った。 「ああ、カラーやパーマが嫌な訳か……。因みにその理由、聞いても良い?」 「だってお兄ちゃんが『自分の髪がくせ毛で明るめの色だから、この黒くてサラサラの髪が好きだ』って言って、嬉しそうに髪を撫でてくれるんだもの。うっかり職業上の口車に乗って変えたりしたら、そんな事してくれなくなるかもしれないでしょう?」 「……そうかもしれないね」 取り敢えず同意の言葉を返しながら玲二は手を動かし、肩甲骨にかかりそうな長さのストレートヘアを少しずつヘアクリップで頭に留めてカットの準備を進めた。 「じゃあいつも通りの長さで、揃えるだけで良いんだね?」 「はい、玲二さんの腕の振るい甲斐が無くてすみませんが、宜しくお願いします」 「任せて」 くすくすと笑いながらも、次の瞬間真面目な仕事上の顔になった玲二は、クリップを一つ外して指に挟みこんだ髪に向かって鋏を動かし始めた。しかし頭の中では先程の話を思い返し、些かげんなりする。 (だけど……、嬉々として年頃の妹の髪を撫で回すなよ清人さん。絶対、あちこち触りたいだけだろ。危ないなぁ) 思わず愚痴を言いたくなった玲二だったが、今日顔を合わせた時からいつも以上ににこにこしている清香を見やって、ふと第六感的なものが働いた。 「ところで清香ちゃん。最近何か良い事があった?」 「え? どうしてそんな事を聞くの?」 「いつもより、何となく機嫌が良いかなと思って。客商売だから、観察眼はそれなりにね。特に魅力的な女性に関しては」 目を丸くした清香に、玲二は手を止めないまま茶目っ気たっぷりに言ってみる。すると清香は、納得したように話し始めた。 「凄いな~、玲二さん。実は昨日嬉しい事があったの」 「へえ、どんな事?」 「お母さんがお兄ちゃんの熱烈なファンって言う人と知り合いになって、色々あってその人と連絡先を交換したの」 好奇心で尋ねてみたものの、何やら不穏な物を感じてしまった玲二は慎重に尋ねてみた。 「ちょっと聞くけど、その知り合った人って、女の人だよね?」 「ううん、男の人」 (はあ? それじゃあ得体のしれない男に、あっさり連絡先を教えたって事か!?) サラッと言われた内容に、玲二は流石に手の動きを止めて慌てて確認を入れた。 「因みにそれ、清人さんに話した?」 「ファンだってお母さんの事? 勿論嬉しいって言ってたけど?」 「いや、そうじゃなくて……、連絡先を交換した人が男の人だって事」 「言ったと思うけど……、でも別にわざわざ話す事じゃないし、言ってないかも」 僅かに首を傾げ、怪訝そうに自分が話した内容を確認している清香を見て、玲二は腹立たしく思った。 (何だよ清人さん! いつもなら俺らが清香ちゃんを誘ったりしようものなら、露骨に邪魔したり圧力かけてくる癖に! どうして今回に限って疑いもしないんだ?) そこまで考えて、ある一つの可能性に行き着く。 「……清香ちゃん。ひょっとして清人さん、締め切りが近いとか?」 その問い掛けに、清香は完全に目を見開いて驚愕した。 「凄い! どうしてこの場に居ないお兄ちゃんの事まで分かるの? 玲二さん、ひょっとして最近第六感に目覚めた!?」 「は、はは、さすがにそれはどうかな~」 天然っぷりを如何なく発揮し、嬉々として食い付く清香に顔を引き攣らせつつ、玲二は内心で深い溜め息を吐いた。 (清人さん、あんたなんで肝心な時に使い物にならないかな!? しかしあの人が締切位で、清香ちゃんの監視が緩むとは考えにくいが……。まあ、仕方がない。今日は俺が情報収集に勤しむ事にするか) そう腹を決めた玲二は、再び手を動かしながら清香から必要な事を漏れなく聞き出す事に専念した。 「因みに清香ちゃん。その人とどこでどんな風に知り合ったの?」 「昨日図書館に行って、レポートを書くための資料を探してたの。学内の図書館は粗方目を通してたから、他に参考になるのはないかなって。そしたら……」 そして繊細な手の動きで玲二が毛先を揃えている間、清香は巧みに誘導されて前日出会った悟との一部始終を語った。 「……そんな風に意気統合して、結局本を借りた後、図書館の隣のカフェでお茶を奢って貰ったの。『お手数をかけるので、是非ともこれ位奢らせて下さい』って。流石一流商社勤務の人は、気配りも欠かさないのね」 心底感心した様に目を閉じて1人納得している清香に、前髪を揃えていた玲二は激しく脱力して思わず床に蹲りたくなった。 (清香ちゃん……、悪いけど、そいつどう聞いても胡散臭さプンプンだから! もっと警戒心を持とうよ!) しかし取り敢えずの小言はひとまず横に置いておく事にした玲二は、何とか最後まで笑顔を保ちながらカットを終わらせた。そして「じゃあまたお願いします!」と無邪気な笑顔を見せて清香が去って行ってから、緊急召集をかけるメールを、兄と従兄弟達に一斉送信した。
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