零れた欠片が埋まる時
第40話 清香、人生最長の一日(6)③

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「お通夜の席で、ちゃんとお母さんって一度でも呼んであげれば良かったと、心底後悔していた。俺がいつまでもつまらない意地を張らずに、あなたに手紙の一枚でも書いておけば、香澄さんは笑って『じゃあ、私の事もお母さんって呼んでね』と言っていた筈なんだ。そんな事を頭の中で考えていた時に、のこのこ亭主と一緒に顔を出したりするから……。つい、カッとなって、夫婦揃って殴り倒した」 「あの……、私、本当に考え無しに、顔を出して……」 (だからあれ、だったんだ……)  再び涙ぐんでしまった由紀子を見ながら、清香が肩を落としつつ溜息を吐き出したが、清人の話は続いた。 「それから……、初詣の時は、毎年一家揃って参拝してた思い出の場所で、一家揃って来てる所にばったり遭遇したものだから、ムカついてつい嫌みを言った」 「ごめんなさい、全然知らなかったから。来年からは行かない様にするわ……」  すっかり萎れて消え入りそうな声で謝罪する由紀子を見て、清人は僅かに眉を顰めてから、わざとらしく言い出した。 「確か……、聡とか言ったよな。あんたの息子の名前」 「……え、ええ」 (だからお兄ちゃん、話題飛び過ぎ! 凡人の私にも分かる様に話を進めてよ! 第一、聡さんの名前なんて今更でしょ!?)  唖然としながら驚きの目を向けた清香と、戸惑って思わず顔を上げ、涙を何とか抑えながら見返して来た由紀子から顔を背けながら、清人は面白く無さそうに言葉を継いだ。 「最近、清香の周りをうろちょろして、迷惑だ」 「あの……、聡には私からも良く言って聞かせるから」 「生意気だし、目上を目上と思ってないし、ふてぶてしい面構えで顔を見る度ムカつくんだが……、なかなか良い根性をしている」 「え?」  女二人が怪訝な視線を清人に向けたが、当人は二人と視線を合わさないまま、冷静に話を続けた。 「まあ……、女を見る目はなかなかだし、それなりに頭も切れる様だし、見た目よりは気配りのできる奴の様だ。だから…………、百歩譲って、俺の弟と認めてやっても良い」 「清人?」 「お兄ちゃん?」  言わんとする事が分からず、怪訝な顔をした二人には構わず、清人が自論を展開する。 「血が繋がって無くても、大して母親らしい事をして貰え無くても、俺が母親と思う人間は、後にも先にも香澄さん唯一人だ。だから香澄さんが死んだ今となっては、他の人間をそう呼ぶ訳にいかない」 「……勿論、その通りね」  そう穏やかに頷いた由紀子を一瞬横目で見やってから、清人はすぐに視線を外しつつ呟く。 「だけど……、あなたの事は弟の母親として認識しても、良いと思ってる」 「……あの」 「お兄ちゃん? それって……」  慎重に清人の本心を探ろうとした清香の目の前で、清人が窓の方に顔を向けて、誰にも視線を合わせない様にしながら、些か棒読み調子で言葉を継いだ。 「最近大病したらしいが、体に気をつけてせいぜい長生きしてくれ。今は到底無理だが、後二・三十年経って俺の性格がもっと丸くなったら、他の呼び方がしたくなるかもしれないし、うっかり口が滑るかもしれないからな」  そう言われた由紀子と清香は、言葉の意味を一瞬頭の中で吟味し、清人の言わんとする内容を察した。そして由紀子は目許をハンカチで押さえて泣き出しながら頷き、清香は満面の笑みで清人の横に膝立ちで座り、その首に両手を回して抱き付く。 「……っ、……ええ。気を、つけます」 「お兄ちゃん!」 「うわっ! こら、清香。お前いきなり何するんだ!」  慌てて腕を引き剥がした清人だったが、続けて清香は清人の頭を撫で始めた。 「お兄ちゃん偉い! 頑張ったね、誉めてあげる!」 「何だ、その上から目線はっ! 第一、頭を撫でるなっ!」 「えぇ~? だってお兄ちゃん、可愛いんだもん。それにお母さんの代わりだから、良いでしょう?」 「お前な……」  若干照れながら文句を言った清人だったが、邪気の無い笑顔で言い聞かされて苦笑するしかなかった。と、ここで何を思ったか、清香が勢い良く立ち上がる。 「さて、話が纏まった所で、私、これからまた出掛けるから。お兄ちゃん、由紀子さんをちゃんと送ってね?」 「は? ちょっと待て清香! お前どこに行く気だ」  言うだけ言ってスタスタと歩き出した清香を清人は慌てて問い質したが、清香は振り返って文句をぶつけてきた。 「真澄さんのお家。下で待って貰ってるの。全く……、お兄ちゃんがぐだぐだ回り道して話しているから、時間がかかっちゃったじゃない! もう七時半よ、どうしてくれるのよ!」  それで清香の訪問の理由を悟った清人は、これ以上引き留めはしなかった。 「それは悪かったな。真澄さんと浩一に謝っておいてくれ。あと……、相手は高齢なんだから、少しは手加減しろよ?」 「分かってるわよ、行ってきます!」 「ああ」  元気良く飛び出して行く妹を玄関で苦笑しながら見送った清人は、リビングに戻ろうとして未だに泣いている由紀子の姿を目にし、違う場所に足を向けた。そして一分後リビングに戻ってきた清人は、由紀子に向かってある物を差し出した。 「良かったら、使って下さい」 「え? これ……」  由紀子が顔を上げ、目の前の濡れタオルらしきものと清人を交互に見詰めると、清人は幾分疲れた様に説明した。 「もう少しマシな顔になったら、自宅に送って行きます。このまま返したら、今度は俺がご主人に殴られそうだ」  そう言われた由紀子は一瞬真顔になってから、泣き笑いの表情を浮かべて小さく頷く。 「……ええ、そうですね。お借りします」  そうして受け取ったタオルを顔に押し当ててまた俯いた由紀子を見ながら、清人は今は亡き義理の母親の、明るい笑顔を思い返していた。 (これ位で、何とか妥協して下さい、お義母さん……)  そして今の自分の顔に、苦笑の表情が浮かんでいる事を、清人ははっきりと自覚していた。

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